第4話 力が欲しいか
朝日が昇り、だいぶ経ってから、シリウスは目覚めて体を起こした。立ち上がったシリウスは一人、信じがたい思いで己の両手を見下ろした。一度、二度と手を握っては開く。指先は冷たいが、感覚がある。
「……これが、竜の血か」
あのまま、死んでいたはずだった。それが、息を吹き返すどころか、毒を飲む前と同じように体が動く。海面に体を打ち付け、海を漂った怪我と疲労もほとんど無い。
(竜種……魔の力をその身に有する魔族の中でも、最も強大な力を持つ存在。その血ともなれば、肉体を一晩のうちに癒やすことすらできるのか……)
魔族と人族。それを分けるのは、血の中に魔力が流れているか否か。赤い血を持つ人族、特に人間は、青い魔の血を忌避してきた。――しかし、その血を授かることができれば、その力を得られる。
「力、か……俺に力があれば……」
「――――力が欲しいか?」
自分が横たわっていたベッドを見るとも無しに見ながら呟いていたシリウスは、背後からかかった声に驚いて振り返った。後ろには声の主、クロダルリが立っていた。その両手で、木の盆を持って。シリウスは眉間にしわを寄せてその姿をまじまじと見た。
「……場面に合ったそれっぽいジョーク飛ばしたつもりだったんだけど。お気に召さなかったか?」
「いや……そういうわけではない。あなたは本当に、不思議な竜だと思ったのだ」
クロダルリが盆に載せて持ってきたのは、腕に入れられたオートミールだった。ほのかに乳の香りがする。恐らく、もうすぐ起き出すだろうシリウスのために作ったのだろう。
「あなたのような竜は、見たことはもちろんのこと、聞いたこともない。人を無条件に癒やし、食事を用意するなど」
「そうかな。俺の姉貴はこういうことばっかしてるらしいぞ」
「姉がいるのか?」
「ああ。コウガハリって名前。人間の前じゃ別の名前使ってるから、あんたは知らないかもしれないけど」
少し考え、シリウスは首を振った。竜はそもそも個体の名前を人には語らない。自分のみならず姉の名まで伝えてきたクロダルリは、本当に異質だ。
「……昨日はあなたからの質問を聞いてばかりだったな。私からも一つ、質問をしたい」
「いいぜ。動けるならそっちのテーブルで話そう」
クロダルリは、手振りで後ろを指した。木目の美しさと縁の荒々しさが目立つテーブルに、シリウスは盆を、クロダルリは水の入ったコップを置いて席に着いた。「で、質問って?」とクロダルリに促され、シリウスは口を開いた。
「あなたはいったい、何者なのだ」
「何者って言われてもな……何の変哲もない竜です。……ってわけにもいかないんだろうけど。しかし、俺のプロフィールなんてなぁ。一、二年前からこの島に居着いた、変人ならぬ変竜ってだけだ」
「そうだとしても、私のその血を授けた理由が分からない。竜の血は強い力を秘めた魔力の触媒……それを受けた者は竜と繋がり、契約を交わすことも可能になる。禁断の、魔と人との繋がりを……」
「それ、欲しいか?」
短い返答に、シリウスの言葉が詰まる。クロダルリは軽く肩を竦め、椀を指差した。
「食わないのか?」
「あ……ああ。いただこう」
「禁断だ何だって言うが、竜としては別にって感じなんだ」
シリウスがスプーンを椀の中に差し入れるのを見ながら、クロダルリは言った。
「俺だけの感覚じゃない。人族が力を付けようが、竜は気にしない。その力で他の魔族と戦争しようが、竜に喧嘩をふっかけようが。竜は圧倒的に強くて、寿命も長くて、だからこそ世相に興味がない。歴史はみんな好きみたいだけどさ。作るのに興味がなくて、後から見返すのがイイのかもな」
「……あなたは、どうなんだ。人と積極的に関わっているあなたは」
「俺だって、歴史を作りたいわけじゃない。政治に関わりたいわけでもない。経済を回したいとも思わない。人助けがそこそこ好きなだけだ。そして……あんたには本当に同情している。身近な人に二回も裏切られている、あんたに格別肩入れしてるってわけ」
シリウスはスプーンを一度置き、クロダルリの目を見つめた。ざんばらに伸ばした、癖の無い黒髪の間から覗く、深い青の瞳は、シリウスを見つめ返していた。
「力が欲しいか、とあなたは言っただろう。たとえ冗談だったとしても……同情するのならば、私に力を与えてはくれないか」
「ああ、いいぜ」
あっさりとした快諾に、シリウスは笑み崩れた。まるで何でもないことのように返してきたが、二十年間培ってきた人間の感覚としては、あまりに非常識なことだ。契約は、魔族の血を授かること以上の禁忌だった。
「……私はいまから、禁忌を犯すのだな」
「そう身構えんでも、やったって口外しなけりゃ誰も分からないだろ? って、契約なんて俺も初めてだから、本当のところはどうか分からないけど。ま、そういうことなら善は急げってな。飯食ったらやろうぜ」
食後の運動のようにクロダルリは軽々しく言う。契約の重みが薄れていくのをシリウスは感じた。
――だが、そもそもそんな重みなど、いまの自分には無いに等しかったのかもしれない。シリウスは思う。いまや自分は領主ではなく、暗殺から逃れた死に損ないなのだ。王都に、城に戻ったところで、待っているのは幽閉生活か、待ち受ける人知れずの死か。もはや帰ることはできない場所の常識に縛られる意味など、あるのだろうか?
声に出ぬ問いかけに答える者は、誰もいなかった。
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