第2話 竜の血
それが流れ着いたのは、今日も一人寂しい晩酌をとワインのボトルを開けようとしていた時だった。クロダルリは、崖下の潮騒がいつになく掻き乱されるような気配を感じて、グラスとボトルを卓に置き、木戸を押し開けた。戸の外は見張り台のように突き出した岩場になっていて、石積みの柵から身を乗り出せば、すぐ下に海が見えた。夜中の暗い海は、普段なら白く泡立つ波ばかりが見えるはずだが、今日は様相が違った。
「おーーーーい……ダンナぁ、ルリのダンナぁぁーー……」
遙か下から呼びかける声がする。声は一つだが、気配は複数あった。水面から顔を出す、幾つもの異形の顔がそこにある。鱗に覆われた、のっぺりした人間の顔だ。いまは水の中にあって見えないが、水かきのある手に、魚の下半身を持つ彼らはこの辺りを縄張りに生きるマーマンだった。晩酌の相手が増えたかと喜びかけたのも束の間。クロダルリは、マーマンの群れの中に一人だけ、この場にあっては異質な姿を認めた。背負われているのだろう。上半身を海面から突き出した状態のそれは、どう見ても人間だった。
「――何だそれ。ドザエモンか」
クロダルリは柵を跳び越えると、マーマンたちの前に立った。水面より数センチばかり浮いた場所に立って見下ろせば、マーマンに背負われた人間が纏う、その衣服が妙に質の良いことに気づく。
「厄介事ですとデカデカ書いてあるお荷物だな。それ、どうしたんだ」
「いやあ、何なんだろうなあ。たぶんこの前からトラヴァに来てたお偉いさんだとは思うんだが」
「この前からトラヴァに来てた、お偉いさん……?」
嫌な予感にクロダルリの口元が引きつる。クロダルリが居を構えるこのアロィ島から約五キロほど離れた場所にあるトラヴァは、コンタハヴェン領随一のリゾート地だ。そこに数日前から、コンタハヴェン領主が滞在している――という噂は耳にしていたが。
「マズいことになったな……海の底に捨てた方がいいんじゃないかって気もするが、拾っちまったもんはしょうがない。死なれても目覚めが悪いし、助けてやろうじゃないか。しかし、どうしてまたこんなもんを背負ってきたんだ?」
「いやあ、ルリのダンナ言ってたじゃあないですか。『あの噂がマジなら一緒に酒でも飲みたい』って」
「真に受けたのかよアレ。でもしょうがねーな、身から出た錆だ。俺がちゃんと責任持つよ」
クロダルリは、マーマンの背にもたれていた男を肩に担ぐと、ふわりと宙に浮き上がって住処へと戻っていった。担いだ体は水に沈んでいたはずだというのに、嫌に熱い。担ぐ間に聞こえてきた息づかいも血の唾混じりの耳障りなもので、尋常ではない様子なのが察せられる。しかし、血の臭いはほとんどしない。もしやと思い、体に張り付いた白いシャツを引き裂いて引っぺがし、裸に剥いてみれば、外傷はほとんど無かった。一番酷い傷を負っていたのが足で、すね辺りに横一文字の切り傷があった。だが、それも体調を崩す要因には思えない。
「毒か……最悪だな」
嫌な思い出を不意打ちにほじくり返されたような気分になって、クロダルリは渋面になる。クソ食らえだと呟きつつ、さてどうしたもんかと首を捻る。素っ裸の裸体は中々に鍛えられている反面、日焼けした様子がほとんど無い。労働階級に無く、同時に軍人のように体を鍛えられた者。歳は二十歳ほどだろうか。艶のある、うなじの辺りで刈られた金髪も、噂の領主殿と特徴が一致する。問題は、何故そのような大人物が毒を飲んで海を漂っているかだ。
「……いや、考えてもしょうがないか」
そんなことは後で聞けばいい。それより、毒をどうするかが問題だ。ああ、こんなことになるなら姉からもっと薬草の話を聞いておくんだったと後悔しても遅い。そもそもその知識があったところで、薬を常備していなければもはや助けようが無いだろう。苦しげな表情と息遣いは、彼に残された時間が少ないことを物語っている。
「後で文句は言ってくれるなよ……」
誰も答えないのに呟いてしまうのは、昔からの癖だった。しかしその呟きが聞こえたのか、唸るような声が、青年領主の口から漏れた。
「……おいおい、竜より竜みたいな声だな」
混濁した意識の中でも激しい怒りを感じているのだろう。鬼のような形相と相まって、死にかけだというのにひやりとさせられる気迫があった。酒を飲み交わすどころの相手じゃないかもな――などと思いつつ、クロダルリは右手の指を一本立てた。すると、その指の爪が鋭く曲がった鉤爪に変化する。深く息を吸い、痛みに備えると、クロダルリは己の爪を左手の手の平へと走らせた。
シリウスが昏睡からはっきりと目覚めたのは、クロダルリが血を与えてからおよそ一時間後だった。夜明けにはまだ遠い星空を眺めながらワイングラスを傾けていたクロダルリが、岸壁のテラスから部屋に戻ると、ちょうどシリウスが起き上がろうとしているところだった。
「…………何者だ」
ベッドから上体を起こしたシリウスは、たっぷり十秒ほどの沈黙を挟んでそう言った。何から話していいのか、そもそもいま、己がどういう状況に置かれているのか。毒によって生じた熱ではっきりとしない頭で考えた結果が、単純すぎる問いの言葉だった。それを分かっていながら、クロダルリもさてどうしたものかと返答に迷う。そして、
「まずは礼が先なんじゃあないか?」
と言った。実のところ、特段礼を求めたわけではない。ただ、自分の出自を明かしても良いものかという迷いがあった。時間稼ぎのような問いだったが、返ってきたのは素直な感謝の意だった。
「ああ……そうだな。ありがとう。お前が……血を分け与えたのだろう」
「……うん。まあそうなんだけど。嫌じゃあないのか。俺が何なのか、薄々分かってるみたいだったが。拝領はこの世界じゃ禁忌の行為なんだろう」
シリウスはふん、と鼻先で笑った。唇に浮かぶのは苦笑いだ。ほとんど渋面と言っていい。笑ったのも目の錯覚だったのかもしれないと、そう思わせるような表情だった。
「ああ、禁忌だろうな。それはやってはいけないことだと教わった。……しかし、不思議なものだ。私はいままでの人生で一度も、人の酒杯に毒を盛るなとは教わらなかった。どうしてだろうな? 人を、ここまで苦しめて死に追いやる行為だというのに」
「普通、言われなくても分かるからじゃあないのか」
「だろうな……」
喋るだけで疲れたのか、シリウスはふうと息を吐いた。顔つきが一気に老け込んだように見える。歳は幾つだったか、確か若干二十にして領地を富ませた天才領主だとか言われていたっけ――いまの彼は実年齢より、十は年を取って見える。「水、飲むか」と胸がざわつくよな不安に駆られたクロダルリが聞けば、シリウスは溜め息をこぼすよに「ああ」とだけ答え、そして差し出されたコップを、礼を言って受け取った。
「あんた、よくお礼を言うな」
「……そうだろうか」
「領主様がそんな感じだと、思わなかった。領主ってもっとふんぞり返ってて、水なんて聞く前に持ってきて当たり前、みたいな感じだとばっかり」
冗談半分に言ったことだが、半分は本気でクロダルリは言っていた。いつの世も、権力者と金持ちは人に上下がある前提で生きている。しかし、このシリウスという青年にはそういった気風が見られなかった。その様子は、好意よりも先に奇怪さが感じられた。
「私のことは、誰だか分かっているようだな」
「シリウス・フォン・コンタハヴェン。ここらへんの……コンタハヴェン領の領主様だ。領主様になる前の名前は、どうだったかな……いや、そんなことよりだ。領主様って、王家の人間がやってるんだろ。しかもあんたは継承権一位、つまり現王様の長男だ。そんな人が……さ。俺だって質問したいね。何なんだ、あんた」
「何なんだと言われてもな……あなたが言った通りの者だ。それ以外となると……」
息を吐き、シリウスは一口水を飲んで、そしてふ、と笑った。
「……どこから聞きたい」
その顔と言葉に、クロダルリも呆れて笑う。
「その顔、話したくてしょうがないって顔だな。山のように愚痴があるってツラ。苦労してんだな、領主様って……」
しみじみ同情してみせると、クロダルリはベッド横に木椅子を引っ張ってきてそれに腰かけた。そして、ヘッドボードに背を預ける、シリウスの目を見た。尊き王族の血を引く証、琥珀の瞳は、事実を話せる相手に巡り会った場違いな昂揚に輝いていた。
「質問に質問で返して悪いね。……あんた、どこから話したいんだ」
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