竜の血のシリウス

羽生零

第1話 逃亡

 腹の奥底と喉が、焼けるように痛む。踏み出しているはずの足から感じるのは、泥濘を蹴っているような不安定な浮遊感。視界はぼやけている。音は奇妙に冴えて聞こえる。背後からの怒号は真綿の壁でも通したかのようだというのに、近づいてくる波飛沫の音はいやによく耳に届く。

 ちぐはぐだ、感じる何もかもが。

 溜め息も出ない。荒く吐き出される息は、死病に罹った病人のように、引っかかりのある湿った音を含んでいる。血混じりの唾液が苦い。苦味は己の血だけでなく、解毒薬のものもあっただろうが、薬が効いて毒が和らいだところで、この状況は打開できないだろう。

 背後から、揺れる灯火とそれを持つ兵が迫る。

 振り返って見たわけではない。想像だが、現実とそう違えてはいないはずだ。兵が人を追い回す光景など、誰が相手でも同じだ。それがたとえ、名義上は主であったとしても。

「逃がすな! 追え!」

「崖に追い込め!」

 思いのほか、はっきりとその声は聞こえた。先ほどまでは不明瞭だったはずの声に足を止めれば、潮の香りと音がほとんど真下から立ち上った。視界に広がるのは、星空と闇。暗闇に満たされているのは海だ。星の光はあまりに幽かで、水面には映らないらしい。月は出ていない。それが余計に星を美しく輝かせていた。

 シリウスは天を仰いだ。いままで見てきた中で一番、美しい星空だ。それを見ながら死ねる。思ったより良い死に方かもしれない。しかし騒々しいのはいただけない。怒声も揺らめく火の明かりも、煩わしい。ただ星空だけがあればよかった。

「ま、待て、動くな!」

 それがシリウスの聞いた、最後の声、言葉だった。どこかで聞いた声だ――ああそうか、あいつかと声の主のことを思い出し、足を前に踏み出す。視界はすぐさまぐるりと反転した。頭上に星空が広がる。踏み出した際、自分が思っていた以上に力強く飛んでいたらしい。飛び込み台にした崖は手を伸ばしても届かないほど遠く、喧噪もその分だけ離れていて、空の幾億百の幽かな煌めきだけがよく見えた。



 閉じた目蓋の上を潮水が滑る。吐き出した泡が急速に遠ざかるが、それをシリウスが見ることはない。


 ……彼が次に見たのは、星でも海でもなく――岩の壁だった。



 シリウスは不意に目を開けた。

 しかし、目覚めに伴ってまず真っ先に戻ったのは視覚ではなかった。開いているはずの目にはほとんど何も見えず、水のカーテンがかけられているようだった。何も見えない中、感じるのは痛みだった。心臓が脈打つのに合わせて、皮膚の内側で痛みがのたうつ。心臓か、骨か、神経か――ゆっくりと炙られるような痛みに呻くが、自分の声も聞こえてこない。

 静寂の中で、シリウスが痛み以外に感じたのは、死の予兆だった。

 始め、意識を引き戻した痛烈な痛みは徐々に鈍くなっている。燃えるように熱い感覚が引いていき、代わりに四肢が冷えていく。治癒に向かっているなどという希望は持てなかった。走りながら飲み下した解毒薬が、そこまでの効能を与えてくれるとは思えなかった。食前酒と共に毒を飲んだ瞬間に味わった、喉を切り裂かれたような痛みは独の強力さを物語るものだ。解毒作用より先に毒が回り切って死ぬのだろう。そのことは、もはや予兆ではなく、予測として感じられる。

 死の淵にあって、シリウスは、絶望より先に怒りを覚える。やり場のない怒りに、今度こそ声が出る。うめき声というより、地鳴りのような唸り声だった。


「……おいおい、竜より竜みたいな声だな」


 不意に、それまで何も聞こえなかった静寂の中にぽつりと、何者かの声が落ちた。まだ年若い、少年めいた高い声だ。その声を聴いた瞬間、全ての感覚が一挙に戻ってきた。遠くから細波の音と潮の匂いが寄せてくる。目を開ければ、光に照らされた岩肌が見える。四肢は相変わらず冷たく、心臓だけが熱く脈打つ。そして、依然として寄り添うのは、痛みと怒りだ。

「――――し、て……や……る」

 思ったことを、辛うじて口に出す。それが遺言になるのかもしれない。痛みに追いやられる意識でシリウスはそう思った。だが、死の予兆は、この場にいるもう一人の存在によって遠ざけられつつあった。

「死にかけにしては元気なもんだが、まあいい。死にたがってる感じでもないなら、取りあえずは助けといてやろう。……さあ、飲め」

 命令されたかと思うと、口を開かされ、そのまま何かを突っ込まれた。生温く、細く、長い。何かと思えば指だということにシリウスが思い至るころには、手の平から指に伝った血が、その口の中に滴り落ちていた。

「癒やしの魔法や薬は不得意なんだ、悪いが我慢してくれ。この国じゃ悪の技法かもしれないが、そんなことは俺の知ったことじゃあないし」

 大人しく分け与えられた血で喉を潤しながら、シリウスは、相手の正体を悟る。何と言うことだ、という呟きが音になったかどうかは定かではないが、ともかくあり得ないことが起きている。

 ここはどこだろうか。ぼやける視界をはっきりさせようと、瞬きをすれば目の端から涙がこぼれた。そうして、岩壁が映る。自分は海に落ちたはずだ。流れ着きそうな海岸沿いにここまでしっかりとした洞窟がありそうな地形は、無い。遠くへと押し流されたのか、と思う思考を遮り、あることをシリウスは思い出す。

 ――そういえば、この海岸沿いの町の側に、島があった。太古、火山が作り出した島には山があったはずだ。そしてその島には、近年になって妙な噂が立つようになった。

 曰く、竜の住処。

「竜、か……」

 呟き一つを残して、シリウスは力尽きて目を閉じた。痛みは鈍く、死の気配も遠かった。

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