〈星休みのピクニック〉後

 九年前、深夜の連絡を受け、俺は出張先から実家に戻った。着いたのは翌日の夕方で、十五歳だった妹は顔を合わすなり俺に頭を下げた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し、ぺこぺこ、ぺこぺこ、ぺこぺこ、ひたすら腰を九十度に折っては起こし、折っては起こし。

 無理心中、というのが警察の見解だった。ハンドルを握っていたのは義父であり、助手席に母を乗せたまま、明南橋近くの堤防道路から時速百キロ越えで川へと飛んだという。

 昔から母はよくもてていた。だが、客あしらいは心得たもので、深い関係を結んだのは、俺が知る限り俺の実父と義父のみ。実際そうだったと思うが、前述のとおり、義父は繊細な人だった。


 ――あたしが離婚しないでって、頼んだから。


 妹は懺悔じみて言った。嫉妬心からの夫婦喧嘩は前からあって、それを必死に取り持っていたと。父を諫めて、母に懇願したと。

 たった、十五の、少女が。

 二十五の男が身内に対する責任から解放されたと一人暮らしを謳歌していたその裏で。


 俺は世界を変えねばならなかった。


 アパートを引き払い、実家に戻り、取り急ぎ高校受験を前にした妹を勉強に専念させた。

 十五の少女が頭を下げねばならない世界をひっくり返すべく、仕事、家事、事故・・の後始末に奔走した。

 新たに3−2+1の家族編成となったわけだが、血の繋がらない兄妹の二人暮らしというのは社会的にどうなのかと思わなくもなかった。

 だが、葬儀に集まった身内の言に、逆に決意を固められた。元々、親族からよく思われてなかった両親だ。やれ水商売とか、病い持ちだとか、色惚けとか。葬儀については二度と思い出したくない。

 しかし、吐き出した本人らは忘れていようと、かけられた者たちにとっては呪いとなる。

 俺らは互いを守るために、けちをつけようのないまっとうな社会人にならねばならなかった。

 妹が大学を卒業し、大手企業に就職して三年目。その目的は概ね達成された。相手に家族の情を越えた劣情を抱いた以外は。


「うちのお父さんって彗星みたいだよね」


 小一時間ほど黙々と歩き続け、ふいに妹は零した。義父の熊じみた外見は、彗星のしゅっとしたイメージと重ならない気がするが。


「流星群って彗星が残した塵でしょう」


 彗星はその軌道上に核から吹き出した塵をふりまき、やがて塵は軌道に沿った帯となる。その帯が地球の軌道と交わって、地球が通り過ぎる時、塵が一斉に降り注いで流星群となるわけだ。

 明南橋はほど近く、あと五分もすれば到着する。俺は妹が言わんとしているところを察した。


「兄にとってはそうでしょう。いきなりやってきて、厄介者だけ残して、去って行って」

「厄介者って」

「兄に劣情を抱く妹なんて」


 直下の流星が妹の細身を貫き、弾ける。

 無論、イメージ。流星群は、ほぼ燃え残らない。

 九年間、俺は妹のために生きた。十五の少女に家族の業を背負わせていた負い目を払拭したく、突き詰めれば己のために。

 だのに、妹は勘違いしている。

 ダイニングでうたたねをして、風呂上がりの湿り気を帯びた身を押しつけられたと知った時、このぬるい瓶詰地獄は終わりなのだと覚悟した。俺たちはまっとうな社会人であり、その気になれば、いつだってこの離れ小島から抜け出せた。でも。

 あの夜、起きてたんでしょう、と妹は兄をまっすぐ問い詰める。

 妹は勘が鋭い。そして妹が一人明南橋を訪れたのなら、何かを決意したのだろう。そして真似事の兄妹が連れ立った星休みのピクニックを無駄にはしない。

 明南橋の欄干が道路の先に見えてくる。

 橋の入り口付近に白いA4サイズらしき封筒が落ちており、あったと妹は駆け出した。拾い上げて中身を確認して大丈夫とみたいとひとりごちた。そして少し距離をとって向き直り、深々と腰を折る。


「あんなことして、ごめんなさい。あたし、家を出るから」


 ごめんなさい。二度と言わせるまいと誓った台詞を妹は放った。

 山際から太陽が顔を出し、稜線を光らせ、目蓋がゆっくり押し上げられるように世界を映し出す。東の空を黄金に燃やし、川面を銀に波立たせ、雲を紅、紫、青鈍に色付かせて。

 朝焼けを背景に、妹は壮絶なほど美しかった。燐視――惚れた欲目は承知の上で、なお。


「・・・・・・夢なら良かったんだ」


 俺は呻いた。

 しらんぷりしていれば、星休みが終わっても、元号が変わっても、世紀を越えても、百歳を過ぎても、一緒にいられた。何より、夢なら。


「遠慮なく、できた。続きを」


 兄、とどこか呆然とした声が落とされる。

 明るみに出した気持ちを妹がどんな顔で受け止めたか、見届ける勇気がなく視線を逸らした。沈黙が満ちる。

 と、空に山に川にふらふら彷徨わせていた視線が、橋の向こう岸の真ん中で、一抱えほどある何かが落ちているのに留まる。

 いや、倒れている。女性だろうか、長い髪、縞模様のワンピース。随分とよく似た格好の。その周囲の地面は赤黒く染まっていた。


「さわっちゃ駄目!」


 鋭い制止に、走りかけた俺の足は止まる。燐視はいよいよ末期で、妹は光の粒子に包まれていた。ただし、その顔はくしゃくしゃに歪み、両手足を突っ張って、いかにも泣き出すふうを我慢して。


「・・・・・・願いが叶うなら、直接会って伝えたかった。もう一つ、願いが叶うんだったら」


 倒れた人影と光る妹を交互に見やる。妹は俺に向かって、そっちはいいから、と手を差し伸べた。


「こっちを抱きしめてよ」

 ――せめて、星休みが終わるまで。


 ──風にさらわれた書類を追いかけて飛び出しちゃったの。運転手も発令間近で焦っていたんだと思う。もしも、自首してきたら、穏便にしてね。

 家に帰る道すがら、妹は昨夜何が起きたか訥々と説明してくれた。帯状の朝陽を浴び、手を繋ぎ、歩く。見られても構わなかったが、朝早の発令中のため、誰にも会わなかった。残念ながら。

 橋の上の妹を捨て置くのはしのびなく、その足で警察に行くことも考えたが、本人・・に強硬に反対された。奇跡という現象が脆く気まぐれだという恐れがあった。何より、時間が惜しくて。

 そして〈流星群屋内待機指示〉が解除されるまでの三日間、缶詰であり瓶詰であり、天国であり地獄である時を過ごした。熱く、濃密で、儚い時間を。


 三日後の朝、玄関のチャイムが鳴り響き、俺は叩き起こされる。

〈流星群屋内待機指示〉が解除された直後は、まだ通信障害が起きやすく、直接知らせにやってくるのが一番早かったのだろう。インターフォン越しに、明南警察署の者ですと名乗られ、続いて四角四面の口上が述べられるのをぼんやりと聞く。

 ベッドの傍らに、きらきら、きらきら、星休みの名残が音もなく瞬いては消えゆくのを見つめながら。

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