第5話 昔話をしていいですかね?


「実は今日、仕事で凄く納得のいかない事があったんですね……」


抱え込んだストレスが暴発したからか、いつしか私の唇は意識とは無関係に愚痴を洩らして始めていた。



内容は、例の課長の一件だった。


その私の愚痴を、マスターは焼きうどんを作りながら、時折相槌を打つ事で聞いていた。



「仕事を手伝ってもらったら、普通は怒る前に『ありがとう』なんですけどね。

たとえサチさんがミスしたとしても、課長が最終的にチェックをすれば防げた話でしょうし」


「……ありがとうございます」


私は伏し目がちに礼を述べると、目の前に置かれた焼うどんを無言で食べる。


これ以上、マスターから優しい言葉をかけられれば、落涙は必至であったからだ。



「ごちそうさまでした」


掻き込むように焼うどんを食べ、モスコミュールを飲み切ると、私はせわしなく席を立った。


「もう、帰るんですか?」


「久々にマスターの顔が、見たくなっただけなので」


「もう少ししたら、芽衣さんも来ますよ」


「……失礼していいですかね」


精一杯の愛想笑いを私は浮かばせると、早足で出口に向かう。



「サチさん、いつも何かを我慢している、って顔をしていますね」


その私を引き留めるように、マスターは私の背中に向かって言葉を投げ掛けてきた。



「もう、店には来ません……」


私は背中を向けたままマスターに告げると、ドアノブに手をかける。



「どうして?」


「芽衣に悪いですから……」


「芽衣さんに遠慮せず、サチさんは自分が来たい時にココに来ればいいと思いますよ。

今日みたいにね」



マスターの言葉を受けた私は、ドアノブを回す事が出来なかった。



「……少し長いですけど、昔話をしていいですかね」


カウンターから出てきたマスターは、震えながらドアノブを握っている私の右手に手を置くと、柔らかな声で語り始めた。



「当時、僕もサラリーマンをしていたんです。

で、今日のサチさんのように、言いたい事も言えずに、色んな事を我慢しながら過ごしていました。


家に帰って飲むお酒と、自分で作る酒のアテが数少ない楽しみの一つというか。



で、このまま自分を押し殺して、何一つ自分のしたい事が出来ないまま死んでいくのかな、と漠然と思い始めていたその時でした。


終電を逃して、たまたま僕の家に泊まりに来た会社の先輩が、僕が適当に作った『バター醤油焼きうどん』を絶賛したんですね。



で、先輩はすぐさまこう続けました。


『お前もったいないよ!

会社帰りに通えるような小さい店か何かやれや!』ってね。



正直、本格的な料理はともかく、こうやって手軽に作る酒のアテに関しては、少し自信はあったんです。


もしかしたら、こういう道で食べていけるんじゃないか、って。


でも、外食産業とかギャンブルでしかありません。


会社勤めと違って、何の保証もありませんし、お客さんが来なければ廃業するしかありませんしね。



ですから、開業するにあたって不安が無かったと言えば、嘘になります。


ストレスは溜まりますが、会社勤めをしていた方が確実に安定はしていますしね。



けど、それを上回るワクワクが僕の中にあったんです。


僕はまだ20代、人生においてチャレンジしてみたらいいんじゃないかって。


起きてもいない、未知の失敗を先回りして後悔をするんじゃなく、自分の中の声に従って行動を起こしてみようと思ったんです。



もし、サチさんが何かに対して我慢をしている、って言うのなら、それを抱え込んだままじゃなく、自分の中の声に従って行動してみませんか?


抱え込んだまま、一生後悔し続けるんじゃなく、行動を起こして失敗する後悔の方がどこか納得出来るモノがありますし」



マスターの言葉に背中を押された私は、自分でも知らぬ間に振り返っていた。


そして、顔を上げてマスターを見つめると、私の唇は「好きです」という言葉を滑らかにマスターに対して告げていた。

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