元気になる前のご飯

@mika33mori

ただいま

 実家の引き戸を開けると、懐かしい匂いがした。この香りが鼻孔をくすぐるたびに「ああ、帰ってきたな」という実感と、この家で暮らしていた頃の記憶が一気によみがえる。嬉しいような泣きたいような気持ちで、私は大きな荷物をぎゅっと握りしめた。

「ただいまー」

奥から、少し鼻にかかった低い声が返ってくる。

「あいよー、お帰り」


 私の3つ年上の兄の声だと瞬時にわかる。少し間延びし、この地独特の訛りのある喋り方。実家から出ずに、近くの大学を卒業し市役所に入った兄はこの村が世界のすべてだった。

 ずっとこの村を出たくて、高校進学と同時に東京へ出た私はそんな兄を心のどこかで笑っていた。「田舎者だ」と……

 眼鏡を曇らせた兄が台所から顔を出す。

「丁度よかった、今昼飯できたとこよ」

「あれ、兄ちゃん今日は平日なのに仕事どしたの?」

 正直、今日は平日ど真ん中なので帰ってきても誰もいないものだと覚悟していた。母も父も平日は仕事だし、兄だって市役所で絶賛勤務中のはずだ。

 すると兄は、外した眼鏡をトレーナーの裾で拭きながら微笑んだ。

「そりゃ休ませてもらうべ。妹が帰って来るっちゅーたら、休め休めの大合唱よ」

 なんとなく想像ができてしまい、口元が緩んだ。兄の勤める市役所は、みんな顔なじみで私のこともよく知っている。家にいて出迎えてやれと言い出したのは、きっと定年間近の磯上さんだ。私と同年代の娘さんがいるから、余計に気にかけてくれるのだろう。

 ボーナスで買った有名ブランドのパンプスを脱ぎ、家に上がる。


「だからって、休んでいいもんかね。公務員」

「いいってんだから、いいんだべ。たまにはサボらなきゃ」

玄関まで迎えに来て、私の大きなボストンバッグを受け取ってくれる。昔から体格のよかった兄は、また少しだけお腹の肉をたくわえていた。

「お兄ちゃん、また太った?」

「あー、久しぶりに会ってひどいなぁ。でも正解だぁ」

「あんまり太ると、田舎のおじさんみたいだから気を付けなね?」

「俺はもう、田舎のおじさんだ」

 人のよさそうな顔で笑う。穏やかで優しい性格の兄は、市役所の窓口でおばさまや小さい子に大人気らしい。ただ妙齢の女性とはご縁がないせいで、いまだに恋人はいないようだけど。

「母さんも父さんも、夕方仕事終わったらすっ飛んで帰ってくるっつってるからよ。それまで兄ちゃんと話でもすんべ。しばらくこっちにいるんだろ?」

「うん……ひょっとしたら、こっちに戻ってくるかも」

私の言葉に、兄は嬉しいような困ったような顔を見せる。

「そぉかぁ。母さんは喜びそうだなぁ、いや、それより父さんか。きっと今晩は大ごっつぉだろな」

 大ごっつぉ、とは『大御馳走』の訛りだろう。小さい頃から、お祝い事のたびにその言葉を耳にしていた。

「まあ、そんなわけだからよ。昼は少し抑えめにしといたわ。食うべ?」

「お兄ちゃんが作ってくれたの?」

「まあなぁ。母さんと同じ味にはなってないと思うけど。でもお前が帰って来るから、作っておこうと思って」

兄は照れくさそうに言い、台所へと戻っていく。同時にダシのいい香りが漂ってきた。懐かしさに涙が出そうになる。私がこの家で暮らしていた頃は、夕飯の時間になるとこの香りが台所から漂っていた。ああ、今日はお鍋かな、煮物かなと考えたものだ。

私も兄のあとをついて台所へ入る。

「これこれ、手ぇ洗ってこい」

「あ、そうだね」


 洗面所へ入り、手を洗う。遠くで、兄が私のボストンバッグをソファに置いている音が聞こえる。すぐそのあとに、カチャカチャとお皿を出す音。

 ふと顔を上げると、情けない顔をした私がいた。東京でおしゃれに暮らしたいのだと、やりたいこともないまま飛び出し、流されるように働き、そして──

 泡まみれの手で蛇口をひねる。綺麗になっていく手を見ている内に、急に泣きたくなった。自分は何をやっていたんだろう……と。


 手洗いを済ませて台所へ戻った時、ダシの香りの正体を知った。

「美味しそう……!」

 我が家名物の、超特大のどんぶりに並々入った温かなうどん。ダシとめんつゆで味付けをし、お鍋でくたくたになるまで煮込んだうどんは、冬の定番だった。具はくたくたのネギと、同じようにクタクタの油揚げだけ。けれど今日は、中央によく煮た卵ものせられていた。

「あ、あったかいおうどん!」

「ほれ、そこ座って食っちゃえ。冷めるぞ」

兄は自分の分の特大のどんぶりもテーブルに置く。そして冷蔵庫のドアを開け、これまた大きなタッパーも出した。中にあったのは、缶詰のミカンと牛乳で作られた牛乳寒天だった。

「これも、お前好きだと思って。ゆうべこっそり作っといた」

「牛乳寒天! 美味しいやつじゃん」

「先に食べんなよ、あくまでデ・ザァトだからな」

デザートの言い方も、普段いい慣れないらしく不思議なアクセントだった。私は吹き出しつつ、手を合わせる。量が多すぎてなかなか冷めないだろううどんを、箸で持ち上げる。いい香りの湯気が顔にあたった。

「美味しい匂い……」

「食ってから、美味いっていうべきだろ」

「匂いから美味しいんだよ」

 ふーふーと吹いた後、うどんをすする。外食で食べるようなうどんとは違い、口に入れるとあっという間にほどけてしまった。

 我が家ではこれを『クタクタおうどん』と呼び、昼食や夕食、夜食にも食べていた。母は笑いながら「うちはうどん大好きだからねぇ」とよく言っていたが、私はこのうどんから上がる美味しい湯気が大好きだったのだ。

 ダシのしみ込んだ油揚げと一緒に、うどんをすする。よく煮込まれたうどんは、数回噛んだだけで飲み込めてしまう。だから──

「そういえば、風邪ひいた時よくお母さんが作ってくれたよね」

箸を止めて、ぽつりと言う。すでにずるずるとうどんをすすっていた兄も、うなずいた。

「風邪ひくと喉痛くなるからなぁ。飲み込みやすくて食べやすかったんだよな」

「そういえば、この牛乳寒天も私が風邪ひいた時よく食べてた」

「うん、そうだっけな」


兄は箸を置き、湯気で曇った眼鏡をテーブルに置いた。

「兄ちゃん、結婚も都会の仕事もよくわかんないけど。うまくいかないってことはたくさんあるべ。で、もういいや、って思うことだってある」

のびきって、クタクタになったうどんのような、柔らかくて優しい声だった。

「でもまたいつか上向きになる日が来るべ。あーだめだぁって思ったら、寝込んでよく休んで。んで、元気んなったら動きゃいいのよ。風邪と同じだ」

「……そっか」

そっかそっか、風邪と同じ。だから兄は、このメニューにしたのだろう。不器用な優しさが嬉しかった。鼻の奥がツンと痛くなる。

「風邪と同じじゃないよ~! 旦那に浮気されて、散々揉めに揉めて出戻ってきただ けなんだから!」

私の言葉に、はっとした顔をしたあと兄は口をへの字に曲げる。

「それは兄ちゃん、お前の旦那を許してない。会った時は、ぶん殴ってやる」

「あはは、体格だけはいいもんね。でもいいよ、実はそんなことできないでしょ」

 体が大きいだけで、性格は私なんかよりずっと穏やかで優しい。料理が好きで、自然が好きで、この村が好きで、家族が大好きで……私にないものをたくさん持っている人。

「でも妹の一大事には、兄として頑張らんと」

「いいよ、このうどんで十分。あとこの牛乳寒天!」

 大きなスプーンで、牛乳寒天をひとさじ掬い、頬張る。サクサクとした触感に、甘い牛乳の味、そして最後にみかんの酸味が口いっぱいに広がった。

「美味しい~!」

「あー! それはデ・ザァトだって言ったべ!」

「いいじゃん、フルコースにはお口直しで途中にシャーベットが出るんだし」

「ほー! 甘いのが出るなんてすげーなぁ」

 何日も風邪が治らなくて寝込んでいた幼い頃、兄がわざわざおやつの時間に牛乳寒天を作って持ってきてくれたことがあった。

 あの時は配分を間違えたらしく、牛乳寒天は固まり切っておらずシャバシャバなままで私は文句を言ったっけ。

「お兄ちゃん、上手に牛乳寒天作れるようになったんだ?」

「まぁなぁ。久しぶりにやってみたら、上手にできただけだけど」

 正直な言葉に、クスクス笑う。私は再び美味しい湯気を上げる丼の中へ箸を入れた。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「なーに、風邪はすぐ治る。元気になったら考えりゃいいさ、これからのことも」

「うん、そうだね」


 まずは、この玄関に不釣り合いなブランドのパンプスを処分しよう……いや、もったいないからネットで売ってもいい。いや、その前に──

「お兄ちゃん、うちってWi-Fiあるっけ?」

「なんだそりゃ。スマホなら使えるべ」

だめだこりゃ……まずは色々な契約から始めないといけないらしい。そしてパンプスの代わりに、この家によく似合うスニーカーを買いに行こう。

風邪の時は、天井を見上げながら「元気になったら」とよく想像したものだ。そして少しだけワクワクしていた。

今も同じ。「心が元気になったら」何をしよう。私は美味しい湯気を顔に浴びながら、微笑んでいた。

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