8.幽霊明け、月曜日の大学
月曜一限目、大講義室。
「おまえデリカシーなくない?」
私もそう思うよ。これが学食ならね。でもここ講義室で、今講義中なんですけど。
美鈴は言い返したい気持ちをこらえて、じっと前の板書に集中するふりをした。大講義室のホワイトボードは巨大だが、講義室も広くて美鈴の席からでは講師がミニチュアに見える。おまけに今日の美鈴は寝不足だ。
講師は自身の頭ほどの大きさで文字を書いてくれているけれど、気遣いむなしくホワイトボードの白さがやけにちかちかして見づらい。九十分の講義を受けるのにこんなにも目に優しくないのは大学の設計ミスではないか、などと思いながら、手元のルーズリーフにミミズが絡まったかのような模様を書きつけていった。
美鈴が寝不足なのは、ほかでもない、幽霊のせいである。
土曜の夜、気まずくなった部屋で黙り込んでいたら、いつの間にか日曜の朝が来ていた。
見事に寝落ちしたのだ。ベッドのすぐ横の床で。
明るい部屋に、幽霊はいなかった。
美鈴はといえば、首は寝違え、肘や腰骨は長時間硬い床に押し付けられていたせいで痛み、快適とは言えない睡眠のおかげで一日中重怠さを引きずった。前の日にカレーを作っておいたのは不幸中の幸いだ。炊飯器の中でご飯は保温されていたし、カレーは温めるだけで済む。
朝昼夜と三食で鍋を空にし、シャワーも浴びて、とんでもない週末だったし、今夜は早めに寝ようと思っていた二十三時過ぎ。
こんばんは、とそれはそれは気まずそうに下を向いて挨拶すれば許されるわけじゃないということを、どうやったらこの怪奇現象は理解してくれるのだろうか、と美鈴は頭を抱えた。
「こんばんは、って……」
「ごめん。でもほかに言うことも思いつかなくて」
「……で、挨拶って、ほんと妙なとこ真面目ね」
「基本だと思うけど」
「人の部屋に突然現れる幽霊に礼儀の基本を説かれてもなあ」
「だからこそ、せめて挨拶だけでも……」
言いながら、幽霊は人前に出る服装でないことを気にするように、スウェットの裾をいじった。半透明の手が半透明の服を引っ張る。塩は通過した服でも、幽霊本人なら通り抜けないらしい。何とも奇妙な光景だったが、その仕草を奇妙だと思ったことで、美鈴は自分が幽霊の姿そのものに慣れつつあることを自覚した。
「ところでね、わかったことがひとつあるんだ」
「え、なに?」
「ミリンさんが寝てしまうと、俺は暇」
「は?」
「俺は自分でもよくわからないタイミングで消えるみたいなんだけど、消えて、またここに出てくるのは俺の体感では一瞬で、そのあとの時間の流れは普通だった」
一分ほど居心地が悪そうにしたあと、なぜか幽霊は立ち直っていた。いつまでものそのそされていても仕方がないのだが、やや釈然としなかった美鈴である。
それでも美鈴もまた腹を立てるだけ無駄というもので、結局、前の晩と同じようにベッドのそばにふたり(幽霊をひとりと数えてよいものか悩ましいがほかに数え方が思いつかない)座り込み、有用なのか無用なのかよくわからない話をすることになった。
そしてまた寝落ちたのである。
幽霊とどんな話をしていたのか、美鈴はいまいちよく思い出せない。
思い出せないということは、大半がどうでもいい話だったということだろう。
スマホのアラームは鳴ったはずだ。ところが美鈴が目を覚ましたとき、スマホにはスヌーズの停止を示す画像が表示され、あと十分で家を出なければ遅刻、という時間になっていた。
教員免許取得のために教科問わず全員必修の講義が月曜一限目に設定されているのは、これに耐えられなければ教員になどなれないぞというメッセージに違いない。それがこんなにもつらいのは初めてだった。美鈴の生活は規則正しいとは少々言いづらいところもあるが、月曜にまで響くほど羽目を外すことなく過ごしてきたから、幽霊に付き合わされた昨夜とその前のたったふた晩で、耐性のない体は崩落寸前である。
美鈴は気を抜くと閉じそうになるまぶたをこじ開けながら、教師になりたいわけでもないのになあ、と内心でため息をついた。将来どうなるかわからないと、資格だけは取っておこうと思う程度なのだ。モチベーションもなければ、テンションも上がらない。
しかも、隣の席がまた美鈴の気分を下げている。
短辺に教壇のある長方形をした大講義室。二百名を超える学生を収容するこの講義室には、三席で一セットの固定式の座席が横には五セット、縦は数えるのが面倒なほどずらりと並び、広いスペースを埋めている。あまりに広く、出入り口は前方と後方に加え中央にもあるほどだ。中央出入り口のところで講義室を幅広の通路が横切り、座席は大きく前方ブロックと後方ブロックにわかれている。
美鈴がオープンキャンパスに参加したときに圧倒されたのが、高校の四十名ほどが詰め込まれた教室とかけ離れた、この巨大な講義室の存在だった。
その大講義室の後ろから三列目、入り口を入ってすぐの隅っこの席。
授業開始のベルが鳴りはじめるのとほぼ同時に教室にたどり着いた美鈴は、目立たないようすぐそこに空いていた席に滑り込んだ。
それが、よりによって元彼とその今の彼女が一セット三席のうち二席を占めている席だったのだ。
遅刻したことと、幽霊のことだけで頭がいっぱいで、隣の人間の顔など全く気にしていなかった。
席についてすぐ講義が始まって、急いで筆記用具や教科書などを取り出し、ひと息ついたところで、デリカシーがないと言われてはじめて隣の席に座る学生のことを思い出した。
顔を見なくても、つい最近まで付き合っていた相手だけに、さすがに声で気づく。そして、さらにこちらも小声ではあるが、元彼の隣の席からは、元彼を親しげに愛称で呼ぶ女子学生のひそひそ話も聞こえる。
講師の目の届きにくい席をわざわざ選んで、仲睦まじいことである。が、美鈴は講義を受けにきたのであって、講義ついでにデートしている連中は心底どうでもいい。どうでもいいというのに、元彼はあたかも美鈴がふたりの邪魔をするために席に座ったかのような言い方をしたのだ。
気分は最悪だったが、講義中に言い返してけんかをするなどというのもものすごく嫌だ。
とにかく眠いわ、隣からは真面目に講義を受けに来た美鈴が悪いかのようなひそひそ声の会話を聞かされるわで、九十分が過ぎて鳴った一限目終了の鐘が、教会あたりの立派な鐘のように素晴らしい音に聞こえた。
講師が授業終了を宣言すると同時に、美鈴は素早く板書をスマホで撮り、あらかじめまとめておいた教科書や筆記用具を鞄にしまわず腕に抱え、隣を見ずにさっと席を立った。すぐそこの出入り口から外に出、廊下の端で人を待つ。大講義室から流れ出てくる大勢の学生の流れにさからってまで、元彼たちが美鈴を追いかけてくることはないだろう。
「美鈴!」
「奈子、おはようー」
「おはよ、って、うわ、すっごい疲れてない?」
「寝不足で……奈子は月曜の朝なのに元気だね……」
「月曜からしなびてちゃ一週間持たないでしょ」
二百人超が一斉に動いて混雑する廊下で、奈子はうまいこと美鈴を見つけて来てくれた。
もともと、奈子も同じ講義を受けており、並んで講義を受けることが多い。いつも、先に来た方が席を取って、遅く来た方は教室を見回して相手を見つける。だが、今朝ほどギリギリではさすがに合流できなかった。
「ねえ、あの電話何だったの? ずっと気になっちゃった」
「ああ、それはね、わっ」
「あっ、美鈴」
「すみません、大丈夫ですか?」
奈子と並んで歩きだしたとき、美鈴は寝不足のせいかついよろけて、近くにいた誰かにぶつかってしまった。講義室から出ていく学生の流れが落ち着き、周囲に人がまばらになったと油断したのもよくなかった。
美鈴自身はなんとか踏みとどまったが、腕に抱えていた教科書や筆記用具、ついでにスマホも床に落として、散らばってしまう。
ぶつかった相手はよく知らない男子学生で、美鈴が悪いのに、申し訳なさそうに屈みこんで落ちたものを拾ってくれる。
「わ、こちらこそすみません」
体勢を立て直すので出遅れた美鈴がものを拾おうとするころには、その学生は美鈴の荷物をまとめていて、立ち上がって差し出してくれた。
ノートと教科書の端がそろえられ、スマホも筆記用具もその上にきちんと並べられている。相手が腕に乗せた状態で差し出されたそれらを崩さないように受け取り、抱えなおして頭を下げた。
「ありがとうございます。あの、本当にすみません」
「いえ。俺もよそ見していたので」
特に怒っているでも何でもない様子ですれ違うように立ち去った学生を、美鈴がよく見ることはできなかった。でも、男子のわりに暗めの赤茶色に染めた髪をゆるく巻いてセットしているらしいところや、少し季節を先取りしたようなオフホワイトのサマーセーターを皺のない無地のブラウスと合わせたりなんかしているあたり、だいぶ身なりに気をつかう人のようだ。この大学で、あそこまでおしゃれな雰囲気の人は少し珍しいかもしれない。
「美鈴、大丈夫?」
「うん。悪いことしちゃった。あの人、先輩かな。どっかで見かけたことはある気がするんだけど……」
「佐藤先輩だよ」
奈子はあっさりと言った。
「知り合いなの?」
「違うけど。ちょっと有名じゃん、うちみたいな地味めの大学にいて、さらに文系のわりにチェックのブラウスを着てない人」
「えっ、それだけで?」
「冗談だよ。佐藤先輩と、あとその友だちの、確か平川先輩、いつも一緒にいるふたりとも顔がいいから有名なの」
「あっ、そう……そういえば聞いたことあるような……?」
首を傾げる美鈴に、奈子はやや呆れたようだった。
「ていうか、佐藤先輩は去年の夏の特別合宿で一緒だったでしょ」
「そうだっけ?」
「そう。わたし、班が一緒だったし、憶えてる。美鈴は班が違ったから……でも、目立つ人なのに印象にも残ってないの? って、そういや美鈴が元彼と仲良くなったのはその時だったっけ。じゃほかの男子なんて憶えてないか」
「ああ~、そんなこともあったな……」
元彼の顔が一瞬よぎって落ち込みかけたものの、実習のことを思い出せば気が紛れた。
「面白かったよね、あの講義」
「うん。滅多にない体験もできたしね」
「ほんと、滅多になかったな……」
講義の中でも特に印象に残っているのは、牛の乳しぼり体験で絞ったミルクを使ったソフトクリームのおいしさだ。味は憶えていないが、ものすごくおいしかったことは憶えていて、あれ以来、美鈴はそのへんのソフトクリームにはもの足りなさを感じてしまう。
それともうひとつ、強烈に忘れられない思いもした。
去年の夏、大学の信じられないほど長い夏季休暇におののいた美鈴と奈子は、ともに夏季休暇中に実施される特別講習に参加した。特別講習にはさまざまな種類があり、学部や学年を問わず参加できる合宿タイプの講習は特に人気だ。大学の伝手で日本各地に泊まり込み、地域の植生を調べたり、海洋生物について学んだり、他にも様々な体験ができる講習があった。
美鈴と奈子が選んだのは、大学が所有している農業区画で農学の基本を学ぶ二泊三日の講義だった。農学の基本といっても、実際にはコンバインや耕運機を扱わせてもらったり、大学内で採れた農産物を使って調理をしたり、勉学に励むというのとは一味違っていて、農学自体には興味のなかった美鈴にとっても興味深く、貴重な体験をした思い出がある。農学に興味がないのにその講義を選んだ理由は、ひとえに他の合宿講習に比べたら費用が安かったことである。受講自体は学費内なのだが、現地に行くまでの交通費は自己負担だったのだ。北は北海道から南は沖縄まで広がる受講地で、どこも行ってみたくはあったものの、美鈴は真面目にお財布と相談した。
この合宿講習は学部も学年も問わず申し込みができ、集まった受講生はほとんどが知らない人だった。その中で班分けがされ、座学や実習の時間も、食事の時も基本的に班ごとだったため、班が分かれてしまうと、最初の全体自己紹介だけではなかなか憶えていられない。
それでも、そこで一緒だったから、美鈴はあの人にどことなく既視感があったのだろう。
「ねえ美鈴、今年はまたどれか行く?」
「そうしたいな。単位は足りてるけど、来年からは専攻のほうが忙しくなるかもしれないし、今のうちに」
美鈴は強く学びたい何かがあって大学に入ったわけではなかった。美鈴の入学した大学は、一、二年生のうちは教養課程に設定されていて、専攻とはあまりかかわりなく様々な分野の講義を受けることができる。教養課程向けの講義はいわば初心者向けの内容となっているから、自分の学部に全く関係なさそうな講義や、まったく知らない分野の講義を受講しても、どれも難しすぎるということもなく、それなりに面白かった。それが将来の役に立つとも思えないものの、自由に好きなことに首を突っ込める今の時期が過ぎてしまうと思うと、とても惜しい。
大学生活はとても自由だけれど、自由な時間は短いのだと思わせられているようでもある。
四年間。そのうち、一年はあっという間に終わってしまった。二年目の今、まだ半分も過ぎていないはずなのに、何かがカウントダウンされている気がする。少しずつ減ってゆく何かが何なのか、うっすら気づいていて、知らないふりをしている。
「今年はどこに行こうか。選考、落ちないといいなあ」
「ああ、去年はすんなり通ったけど、人気の講義だと倍率上がるもんね」
「美鈴はレポート得意だから大丈夫じゃない? 私だけ落ちたら嫌だぁ」
「奈子も得意でしょ」
「美鈴の詩的な文章にはかなわないなあ」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
あやしいなあ、と言い返しながら、美鈴も、奈子も笑っていた。そして次の講義までの時間がなくなっていることに気づき、ふたりで走る。
大学のキャンパスは、講義ごとに講義室を移動しないといけないし、キャンパスが大きいぶん、運が悪いと次の講義室まで遠い。
だけど、そうして走っているあいだも楽しかった。友だちと遅刻するのしないので楽しく騒いで走って、こんなことができるのもきっと今のうちだけだ。
「あっ、結局美鈴から電話が何だったのか聞いてない!」
「あとで、昼休みにね!」
走って、笑って、息を切らしながら会話して、美鈴と奈子は次の講義室に滑り込んだ。
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