7.言葉にしなかろうと無効にはならない

「何で笑うの?」

「ちょっと元気が出たかなって」

「元気っていうか、これは……、あー、もう!」


 やや乱暴に床に手をつき、反動をつけて崩れた上半身を起こす。幽霊は「うわ」と声を上げながら、頭がぶつかる前に身を引いた。反射的な動きで、完全に生身の人間のやる動作だった。

 本当に、まったく幽霊らしくない。

 これでホラー映画に出てくるような、気味が悪くて腹が立ってくるようなものだったら、美鈴はきっとこんなふうには悩まなくて済んだ。

 だけど、認めたくないことに、こんなふうに話ができる幽霊でよかった、と思う。

 困りごとは無いにこしたことはないとはいえ、百パーセント困っているんじゃない。幽霊なんていう、常識を吹き飛ばすおかしなものが家にいることを、ほんの少し、楽しいと思う自分がいる。


 普通に生きていけたら幸せだと思っていた。今だって、普通がいいと思う。普通であることも難しいと感じるときさえある。

 でも奥底に押し隠して誰にも言えない本心では、ドラマチックな何かが、少しくらい起こってもいいんじゃないか、なんて、そんなことを期待していたから。


 たぶん、この不思議な出来事は、美鈴の一生の思い出になる。


「本ッ当に困った奴だなって思うけど、嫌な思いはさせたくないの。満足して? って言うの? 未練をなくして、すっきり成仏してほしい。私がそう思うから、そういう方法を探すしかないでしょ! もう!」

「わあ、逆ギレ」

「正当なキレですけど?」

「さっきみたいに暗い顔をするより、キレてたほうがいいな」

「人が怒ってるほうが好きなの?」

「その解釈は角度にして三十度くらいズレてる」

「は?」


 美鈴は、お前のその返答がズレてる、と思った。


「どういう意味?」

「三十度ズレて進むと、百メートル先では本来行きつくはずだった位置より五十メートルも横にズレるんだよ」

「はあ、それが?」

「三十度ってこれくらい」


 と言って、幽霊は彼の顔の前で両手のひとさし指の先同士をくっつけて、鋭角を作ってみせた。角度が小さいから、第一関節くらいまではくっついている。その角の向こうから、幽霊の口元が見える。が、透けた手や指の向こうに、幽霊の前髪に隠された顔や、その丸い頭も見えている。

 何もかも透けているくせに、輪郭はしっかりあって、くっつけた指が溶けあって見えることもない。

 そんなことに気づいて、変なの、と思いながら、美鈴は幽霊が鋭角越しに三十度について説明をするのを聞いていた。


「この指のところじゃこれだけしか違わないけど、百メートル先では五十メートルも違う場所に着いてしまう。つまり、ミリンさんの解釈はこの場ではそんなに間違ってないけど、結局は大きな誤解になるってこと」

「あなたのこと、何もわからなかったけど、ひとつわかった気がする」

「え?」

「絶対、変な奴」

「ええ……?」

「日常会話に角度を持ち出してくるなんて初めて。大学で、たぶん理系かな。そのあたりの変人で探したら、正体がわかるのかも」

「そんなに変かなあ。ただのたとえだよ」

「少なくとも私は聞いたことないたとえだった。でも、最近、学生が亡くなったかどうかわからないなあ。何年か前に学内の貯水池に落ちて亡くなった人はいたみたいだけど」


 美鈴の通う大学はそれなりに大きく、学生の数も多い。他学部でもイケメンやかわいい子の噂は聞くが、誰かが亡くなったなど噂を回すには憚られる話は、よほどセンセーショナルな事故でない限り出回らないだろう。


「俺とミリンさん、同じ大学だったのかな」

「可能性としては一番高いんじゃない? 私のバイト先は社食だから外部の人はほとんど来ないし、通学で同じ路線に乗る別の学校は女子大だし。それ以外でどっかですれ違ったとかもなくはないだろうけど、名前まで知ってるとなると」

「ストーカー……だったら、郵便受けの中を見たりとか、してたかも」


 幽霊は嫌そうに口元を引きつらせつつ言った。でも、美鈴に限ってはそれを否定できる。


「郵便物を見たとしても、私の名前を『ミリン』とは普通読まない。誰かが私をそう呼ぶところを聞かない限り、知りようがないと思うよ。で、私が名前を一番多く呼ばれるのが学校」

「ああ、そっか。あ、でも、俺はミリンさんの名前の読みも、漢字も知ってたよ。どうして漢字もわかるんだろう?」

「あ」


 美鈴は通学に使っている鞄に目をやった。

 そこにはノートや教科書も入っているが、高校までと違って、名前を書く習慣がない。大学で名前を書くのはテストやレポートなどの提出物のときだ。講義でも受講生名簿が掲示されたりしないので、同じ講義を受けている学生の名前どころか学年さえ美鈴は知らない。

 まだ二年前期課程にある美鈴は、研究室に所属していないし、専攻課程の少人数講義にも登録していない。

 それほど人間関係が希薄な中で、どうやって幽霊は美鈴のことを知ったのだろう。


「大学で会ったことあるのかなあ。全然記憶にないんだけど」

「こういうのってそうだよね。相手は俺のことなんて眼中になくて、俺ばっか……」

「ちょっと、もう」


 もし幽霊に実体があったら突っついていたところだ。真剣に考えているのに、突然なんだか甘酸っぱいものを混ぜないでいただきたい。


「だって、俺ばっかりミリンさんが気になってて、ミリンさんは俺のことなんか全然知らなかったんだなあって思うと、胸が痛い」

「そういうの憶えてるの?」

「ううん。状況から、そういう構図だったんじゃないかなって」

「自分の気持ちさえ忘れるんじゃないよ……そんなんだからややこしいんじゃん。うちに出た理由がさっぱりわからない」

「忘れてるけどさ、状況からしたら」

「何か別のことかもしれないでしょ。例えば教授からの伝言があって、それを私に伝え忘れてたのがどうしても気になってたとか」


 美鈴は幽霊を遮ってとりあえず思いついたことを言った。美鈴の苦し紛れに幽霊は釣られてくれなくて、少し呆れたような空気が伝わってくる。


「ありえないわけじゃないけど、どっちがよりありえるかって言えば」

「待った。わかった、ちょっと考えてみる」

「何をだよ」

「いろんな可能性。ひとつの考えにとらわれるべきじゃないって、最近何かの講義で習ったし」

「ねえ、ミリンさん」


 それらしい言い訳を捻りだす美鈴に対して、幽霊は胸の前に折り曲げた膝に片肘をつき、その手の甲に頬を乗せた気安い姿勢ですっぱり言った。


「わかっているのにわからないふりをして、それはずるいよ」

「保留で」


 美鈴はすかさず返した。幽霊にそれ以上攻めてこられると、防ぎきる自信がない。


「何が未練か、すぐに決めつけてないで、ちゃんと思い出そうとしてよ。今、たまたま私しか相手してあげられる人がいなくて、感傷的になってるんじゃない?」

「……そうかな」


 幽霊は美鈴を見たまま、ため息のようなつぶやきをこぼした。


「そういう、誰でもいいんだったら、俺はここにいない気がするんだけどな。それに、ミリンさんの名前も、きっと知らないよ」

「……でも」


 美鈴は幽霊から目を逸らした。彼は、もともと髪に隠れて顔の半分しか見えないけれど、それでも表情はわかるし、魂のようなものが剥き出し状態だからなのか、青白い輪郭の雰囲気でなんとなく気持ちが伝わってくる。

 今から言おうとしていることで、彼が傷つくんじゃないかと思うと、その瞬間を見たくなかった。


「……わからないじゃない。私はあなたなんて知らない。あなただって、私の名前以外は、何も憶えてないんでしょ……」


 はっきりさせないようにするのは、あいまいなままに留めておけば、なかったことにもできるんじゃないかと思う、美鈴のずるさだ。

 決定的な言葉を避けて、当たり障りない物言いにすり替えて、話題ごとシフトさせて、面倒ごとの気配をなかったことにしていく。それが、人間関係を築くのも修復するのも難しい大学生活を円満に過ごすコツだった。


 だって、けんかしても、どうしたらいいのかわからない。みんながずっと同じ教室にいて、先生やほかのクラスメイトが見守ってくれていた高校までの環境とは違う。

 どうやったら人と親しくなれるのか、広いキャンパスの中で、美鈴は途方に暮れた。

 普通の友だちはいる。でもその子たちと本当に仲がいいと言えるのか、わからなかった。

 そういう中途半端で脆い関係を崩して、大学生活に致命的な何かが起こるのは怖い。


「憶えてもいない気持ちが何だったかなんて、わかるわけないじゃない。そうでしょう……」


 幽霊の気持ちもそうだ。もしも本当に彼の思うようなものだったとして、もう死んでしまっているのに、美鈴にどうしろと言うのか。


「うん……そうだよね……」


 力を無くした美鈴の声に重ねるように、幽霊が静かに相槌を打った。

 物事の輪郭をはっきりさせてしまうことが、必ずしも良い結果に繋がるとは言えない。もしも悪いほうに行ったら、と思うと、あいまいなままでいるほうが安心できる。

 いつの間にか、美鈴は決定的な何かを恐れてしまうようになっていた。


「ごめんね……」


 部屋に、幽霊の謝る小さな声がいやに響いた。

 悲しそうな声が、美鈴を遣る瀬無い気持ちにさせる。

 はっきり言葉にしなくたって、その想いがなくなるわけではないのだと気づいたのは、彼の声を聞いてからだった。

 幽霊の想いというのが、本当はどんなものなのか、美鈴も、たぶん幽霊にも、今はわからない。

 美鈴はそれを無かったことにしようとして、幽霊が合わせてくれたから、彼の想いは中途半端なところに取り残されてしまった。


 成仏させなければと思いながら、いざとなったら向き合えなかった。成仏どころか、彼の想いを蔑ろにした。


「……」


 幽霊にかける言葉が出てこない。今さら話を蒸し返す勇気もない。

 嫌な沈黙に包まれた小さな部屋の中で、宙づりになった想いをどうしたらいいのか、美鈴には少しもわからなかった。

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