6.幽霊にとって心地いい場所とは

「俺にとってこの場所は、というか、ミリンさんのそばは、居心地がいい。この部屋にひとりだと何もわからなくて怖かったけど、ミリンさんがいると、わからなくても怖くないよ」


「いや、え……? 色々待って。まず、なんで? 私の名前知ってたの?」


 美鈴の名前は、少し特殊だ。

 字を見ただけの人は、ほとんど例外なくこう呼ぶ。


 ミスズ、と。


 名の読みを知っているとしたら、美鈴が直接名乗ったか、間接的にでも美鈴の名の読みを知る人間と繋がりがある場合だけだ。

 でも美鈴にはこんな見た目の人の記憶はなく、友人関係を思い返しても、この見知らぬ幽霊が美鈴の顔と名前を一致して憶えている状況に心当たりがなかった。

 けれど幽霊は、彼にとって少しも不思議ではないことのように言った。


「ミリンさんのこと、最初から知ってたよ。どんな人か詳しくは知らなかったけど、あの初めの夜に、帰ってきたミリンさん見たとき、ミリンさんがミリンさんだってことと、この部屋がミリンさんの部屋だってことも、わかった」

「私の名前がわけわかんなくなってくる……。私の名前と、この部屋も? ちなみに、名前の漢字は知ってる?」

「美しい鈴って書くよね」

「それもわかってて、ミリンって、読めるんだ……?」

「ちょっと珍しいよね。でもきれいな響きで、好きだな」

「今、そういうふうに笑うところだったかな……?」


 幽霊は花畑にでもいるかのように穏やかで柔らかな笑みをうかべていた。花ひとつない美鈴の部屋に化けて出ているのだということをさっぱり忘れているのではないだろうか。


「えー……。なんで? 私、全然心当たりないんだけど……。私とどこかで会ったことある?」

「えっと、ごめん、それはわからない。俺にわかるのは、あの最初の夜からこっちのことだけ」

「……。ちなみに、自分の名前は?」

「……」

「わからないわけね」

「ごめん……」


 しゅん、と幽霊の輪郭が一回りしぼんだかのように見えた。幽霊の雰囲気につられてそう見えているだけの目の錯覚なのか、はたまたむき出しの魂か何かだから本当に気分に合わせて伸び縮みするものなのか、判定しづらい。


「自分のことはわからないのになあ」

「ミリンさんのことだからわかる、って言うのが正しいかも」

「なにそれ、ストーカーか何かだったの?」


 本来なら思い当たった時点でぞっとするところかもしれないが、美鈴はごく軽い気持ちで笑って訊いた。

 たとえこの幽霊が本当に美鈴のストーカーだったとしても、こんな様子では美鈴の部屋を少し離れたところから眺めているのがせいぜいだろう。何か悪いことをされる気はしない。

 危機感がないと言われたら反論できないし、世の中には酷い人間がいることもわかってはいる。けれどひとまずは、何もあくどいところを見せていない幽霊のことを、むやみに嫌いたくなかった。


「ストーカー……俺、そんなことしないって言いたいけど、記憶もないから言えない……」

「そうね」

「俺は……女の子をストーキングしてしまうような人間だったのかもしれない……」


 ひとりでショックを受けている幽霊を横目に、美鈴は大きなあくびをした。それを見た幽霊が唇をとがらせるから、拗ねたのかと思ったら、叱られる。


「ちょっと、ストーカーかもしれない男の前で、無防備すぎるよ」

「えー……その体で何かできるの? できるって言うなら、私も考える」

「うーん」


 美鈴の言葉を受けて、幽霊はおそるおそる透けたひとさし指を手近にあったローテーブルへと突き立てた。


「あああああ」


 自分でやったことのくせに、ひとさし指が何の抵抗もなくテーブルに沈んでいくのを見た幽霊が悲愴な顔で呻く。そのくせ、またおそるおそる指を引き抜いて、彼は無事を確かめるかのように半透明の指を見下ろし、伸ばしたり曲げたりしていた。その反対の手が力なく床に放り出されているのを見つけて、しげしげ眺めながら美鈴は首をかしげるしかなかった。


「つくづく床は突き抜けないのが不思議よね」

「そういえば、どういう仕組みなんだろう。重力に引かれない、とか? でもここ二階だよね。仮に重力の影響を受けていないのだとしても、二階部分に留まれている理由が説明できなさそうだ」

「幽霊にそういう法則って効くの?」

「さあ……。けど、考えてみたらミリンさんから離れようとすると勝手に引っ張られて戻されるから、宇宙の法則とは違うものがはたらいているのかもしれない」

「突然壮大だね」


 オカルトとか、幽霊とか。そういうものからイメージできる範囲を飛び越えて急にスケールを大きくした幽霊の言葉に、美鈴は少し気持ちが明るくなるのを感じた。そこまで言われると、幽霊がここにいるのなんて、些末なことに思えてくる。


「俺とミリンさんの間に引力があるなら、ミリンさんはさしずめ地球だな。宇宙の中で、この星のように生命が暮らせる環境は、あると予想されながらもまだ見つかっていないんだ。ミリンさんは俺の住める場所」

「なんか変なこと言い出したな。いや、飛躍しすぎでしょ。ここはただのマンションの一室で、私もただの女子大生です」


 うっかり惑わされそうになったが、そうなのだ。宇宙規模でどうだか知らないが、美鈴の部屋に幽霊がいるなんて、些末なわけがない。


「住んでもらっても困る。成仏してって言ってるのに」

「……」


 幽霊は、何か言いたげにしばし美鈴を見ていたかと思えば、ふいと顔を逸らしてうつむき気味になる。その仕草の雰囲気が子どもっぽかった。


「何?」

「……べつに」

「成仏してって言ったのに、そういうふうにされると気にせずにいられないでしょ。今、何を言おうとしたの?」

「……」


 美鈴がじとっとした目を向けて逃がさないぞと視線で訴えると、幽霊は投げ出していた足を引き寄せ、膝を抱えて丸くなった。コンパクトな姿勢になったから、とは思うのだが、半透明で物体としての確かさがないぶん、その体そのものがひとまわりかふたまわり萎んだように見える。

 そうやって頼りなくしおしおになられると、美鈴も強く出にくい。


「……思ってること、教えてよ。黙られると何もわからないんだよ。どこの誰かも知らないし、急にうちに出てきただけの幽霊なんだから」


 なぜ下手に出ているのだろう、と思いつつも、なんだか悪くない気分だった。

 中学や高校では、けんかやすれ違いを重ねながら仲を深めていった。けれど大学では、同じ教室に詰め込まれて一日中を週五日も過ごすなんてないから、重なった講義の前後だとか、昼休みにぽつぽつ会うくらいじゃ、なかなか本当に仲良くなれた気がしない。普通に話はするし、友だちだと思うけれど、なんとなく衝突を避け、なるべく仲がこじれるのを避けようとする。けんかをするのも、仲直りをするのも、大学生活ではとかく面倒で、時間がかかる。


 だからみんな当たり障りない会話を楽しむ。


「俺が思ってることって、ミリンさんを困らせるだけだから……」

「いいよ。どうせもう困ってるし」


 抱えた膝に突っ伏していた幽霊がそっと顔を上げる。もさもさの前髪に遮られて美鈴からは見えない彼の目が、じっと自分を見つめているのを感じた。

 この幽霊とは、けんかでもすれ違いでも、そんなものを恐れて当たり障りなく接していては埒が明かない。

 踏み込んで原因を探る必要がある。そこでどんな問題が生じようと、何とかするしかないのだ。


「言ってよ。何を言われても怒ら……いや、怒るかもしれないけど、突き放すわけにもいかないんだし、聞くから」


 当たり障りのない言葉を探すことなく、肩肘張らずに思ったことを口にする。決して仲良くなるのが目的ではないのだけれど、そうやって接していけたら、楽な関係になれるのかもしれないと思った。

 そういうふうに話せる相手が欲しかったのだと、ふと気づいた。

 相手は幽霊で、しかも、美鈴はそれを成仏させなければならないのに。


「……成仏、したくないなあ、って」

「は?」

「やっぱそういう反応になるじゃんか」

「そりゃそうでしょ。でも、理由も聞いてあげる。なんで?」


 聞いてあげるなどと言ったが、美鈴が知りたかったのだ。

 幽霊は美鈴を見つめたまま、膝を抱えていた腕を解いて、床を撫でる仕草をした。テーブルにはあんなにやすやすと沈んだ指先は、床には通らない。


「俺、ここでミリンさんと過ごすの、好きだよ」

「え……」


 幽霊はぽつんとしずくをこぼすように言った。先ほども同じようなことを言われた。だが名前を知られていたことと、そのあとの他愛ないやり取りに気を取られていた美鈴には、まだ幽霊の気持ちを受け止める用意がなかった。

 返事を思いつかずにいるうちにも、幽霊は同じ調子で静かに言葉を続けた。


「それに、ここにいるとき以外のことが何もわからない俺には、それしかないんだ。それを失くしたくなくて」


 成仏したら、何もわからなくなるから大丈夫なんじゃないの。


 言いかけた言葉を、美鈴は飲み込んだ。

 幽霊がそれをこそ嫌がっているのだとわかったからだった。


「……そんなこと言ったって……」

「わかってるよ。俺も、こんなのだめだって。だけど、思っちゃうんだから仕方ないだろ」

「思うのは仕方がないけど……でも……、手詰まりになるじゃない」

「それもわかってるよ。だからちゃんとする、……しなきゃいけないから。でも俺も、どうしたらいいかわからないんだ」

「どうしたら、って……」


 よく言われるには、幽霊はこの世に未練がなくなれば成仏するらしい。

 この幽霊の場合は、もう美鈴のそばになんかいたくないと思わせたらいいのだろうか。美鈴が幽霊の嫌がることばかりして、彼に嫌われてしまえば、幽霊は成仏できるのかもしれない。


「……あなたが私を嫌いになったらいい、って思うけど、たとえ幽霊でも人に嫌われるようなことをするのは私にダメージが入る気がする」


 美鈴が言うと、幽霊はささやかな笑いの滲む声で言った。


「ミリンさんはそういうことできないひとなんだなって思うよ。それに、たとえミリンさんが嫌なことをしてきても、俺のためにやってるんだってわかるから、たぶん意味ないよ」

「意味がなきゃ困るんだけど……」

「俺、ミリンさんが嫌だと思うことはさせたくないな」

「あっ、わかった、つまりその気持ちを増幅させればいいんじゃない? 私への申し訳なさで……。……」

「それって、結局、ミリンさんが嫌だと思うことをさせなきゃいけないよね。……どうしたの? 黙り込んで」


 美鈴は、自分の思い付きを名案だと思った。何にせよ、幽霊には成仏に積極的な気持ちになってもらって、この世に繋ぎ止めているものを断ち切らせなければならない。


 この世が嫌になるくらい、嫌な思いをすれば。


「……後味、悪いなあ、って思って」

「後味?」

「すごく嫌な思いさせて、もうここにいたくないって思わせて、それでこの世から消えてもらうのって、なんか、嫌だなあそういうの」


 美鈴は大きく息を吐き、体重を背もたれにしていたベッドのマットレスに完全に預けて、ずるずると姿勢を崩しながら天井をあおいだ。


「この世にもういたくなんかないなんて、誰かに思わせたくないよ……」

「当たり前だよ。そんなこと絶対しなくていいから。ミリンさんにそんな思いさせるくらいなら、俺、なんとかここから出ていく。どうしたらいいかわからないけど、どうにかする」

「と、言ってもね」


 幽霊は身を乗り出して、美鈴の顔を上から覗き込んできた。深夜の目にはひどく眩しかったシーリングライトの明かりが少し翳って、ちょうどよいくらいになる。

 その陰も、意気込みもありがたいが、それだけではどうにもならない。


「……悪いほうに考えなくて、俺がもう十分だなって思えたら、きっと……」

「そう思えそう?」

「今はまだ……。もっとこうしていたいなって思う」

「ねーえ、成仏する気、ある!?」


 ヤケ気味に美鈴が叫ぶと、幽霊はなぜか嬉しそうに口元を緩めた。

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