5.二度あることは三度ある、からオブラートを外したらこう言う

 過去に、法律による刑罰を受けた経歴があること。

 それに例えて、俗に過去に何かやらかした経験があること。


 前科。


「……ねえ、前科二犯」

「ちょっ、何その呼び方」

「まんまあなたでしょ」

「何の罪?」

「不法侵入」


 カレーは肉ナシでも十分おいしかった。食後、ほどよい満腹感が連れてきた心地よい眠気に誘われるがまま、シーツを変えたばかりの清潔なベッドにもぐりこみ、ここ最近では一番穏やかな気持ちでぐっすりと眠り、夜の八時ごろに空腹で目覚め、二度目のカレーを食べ、シャワーを浴び、深まりゆく夜に居心地の良さを感じながら買ったまま放置していた小説に手を伸ばした。

 そうして現在、二十三時過ぎ。


「成仏したんじゃなかったの?」

「いや……」

「念願だったカレーを見ることができて、未練が消えて成仏したんじゃなかったの?」

「いや、え、何? カレーを『見る』のが未練? どうしたらそんなことになるの? 食べたいならまだしも、そんことで幽霊になる人いる?」

「あなたがそうじゃなかったのかって、訊いてるのよ」

「いや……俺、そんな変じゃないから……」

「幽霊ってだけで十分変だけどね」


 消えた幽霊は、また美鈴の部屋に現れた。

 これで三度目。ベッドを背もたれに座って本を読んでいた美鈴から、ほんの一、二歩離れたところに、幽霊は前触れなくホログラム映像のように浮かび上がってきた。

 本に集中していた美鈴だったが、視界の端で何かが光れば気づく。スマホの着信かと思えば顔を上げたら幽霊。

 驚くより呆れた。


「じゃあ、何で消えたの? それでなんでまた出てきたのよ」

「わかんない。カレー見てて、おいしそうだなって思って……気づいたら今」

「あれから半日経ってるけど、それはわかる?」

「全然」


 幽霊はけろりと答えた。またのんきに、と思わなくもないが、即答できるのは悪い状況ではない。


「カレー見て消えるまでの記憶はあるんだね」

「うん。あと、最初の夜に会ったときから、今まで、ここにいたときのことは全部記憶にあるよ」

「その間の記憶こそ重要な気がしなくもないんだけど」

「ここの記憶も大事だよ。……俺には、それしかないんだから」


 美鈴はこぼれかけたため息を飲み込んだ。

 そんなふうに、こちらの心に訴えかけるような声、顔、言葉を、使わないでほしい。困っているのはこっちだというのに、何かをしてあげないといけない気にさせられる。

 美鈴は床に座っていて、幽霊は立っているから、うつむきぎみのその顔はよく見えた。相変わらず顔の半分は前髪に覆われていてよく見えないが、案外、鼻から下だけでも表情というのはわかるものだ。

 力なくつぶやいた唇は心細そうに口角を下げて、いかにも元気がない。


「……とりあえず、立ってないで座ったら」

「いいの?」

「立っていられると私の首がきつい」


 言えば、幽霊は立っていたのと同じ場所にすとんと正座した。身軽な動きで、運動神経がよく、健康そうだった。再三思う通り、透けてさえいなければ。


「言って何だけど、座れるんだ。床にめり込んだりしないで」

「そうみたい、だね。歩けるんだから当然かもしれない」

「また他人事みたいに……。壁は透けるのにね。どういう仕組み?」

「さあ……。幽霊の研究なんてしたことないし、見たこともない」

「そうね、私も。どんな感じなの?」


 美鈴は興味半分、気遣い半分で訊いた。早いところ成仏させなければならないとはわかるものの、あまり落ち込まれても気分が悪いし、落ち込ませても成仏が近づくようには思えない。

 けれど、幽霊相手に当たり障りのない話題が何かも、よくわからなかった。食べられない相手にカレーの感想は良くない気がする程度だ。


「どう……普通、かな。特に何かおかしく感じるとかはないよ。座ろうとして、いつも通りに座れたって感じ」

「いつも、ねえ……。なら、ほかに、何か習慣とかくせとか、思い出せない?」

「さあ……。俺に何かくせがあるなら、自分じゃ気づきにくいと思う」

「仕方ないな」


 美鈴の部屋にいるとき以外のことはわからないらしい幽霊だから、そのいつもというのは幽霊になってからの経験などではなく、生前の感覚なのだろう。感覚ついでに、生きていたころの記憶もあればよかったが、そううまくはいかないようだ。


「中途半端よね。壁は透けるし、ドアも透けて外に出ることはできるのに、足があって歩き回って、普通に座れて、でも一定範囲外には行けない。幽霊らしいような、そうでないような」

「自分で自分を見たらちゃんとわかるけど、そうじゃなければ、俺、幽霊って感じがあんまりないな」

「でも幽霊じゃなければ許されてないからね。女子大生の一人暮らしの部屋に突然入ってきて居座るなんて」

「ってことは、俺は許されてるの?」

「許してないけど、許さざるをえない。だってどうしようもないんだもの」

「まあ、そうだよね……」


 幽霊は美鈴から軽く顔を背けながら、引きつったような笑いをこぼした。だが、美鈴から見て左下に逸らされた顔は、一瞬の間ののち、今度は右に移動する。かと思えばまたさ迷って、最終的にうつむいて止まった。


「何?」


 不自然な動きは、美鈴をゾッとさせた。

 顔の動きは、たぶん視線の動きなのだろう。その動きに何か、幽霊のお仲間のようなものが見えているのではないかと思わせられたのだ。

 幽霊はぱっと顔を上げて美鈴を見、すぐにまた伏せた。


「何なの?」

「あ、いや……」

「気になるしすごく怖いから白状して」

「え? 怖い? あっ、俺か」

「もうあなたは怖くないけど、何を見てそんなに視線を逸らしたのかが怖い」

「何って……」


 幽霊は言いにくそうに口ごもった。その様子を見て、ますます美鈴の恐怖は募る。


「何か見ちゃいけないものを見たって感じだったでしょ!」

「だっ……! だって」


 つい声が大きくなった美鈴に、幽霊も勢いづいた。一瞬だけ。

 身を乗り出しかけ、なぜか途中で絶句した幽霊は、元通りの大人しい正座に戻って、ひとまわり縮んで見えた。


「だって?」

「俺が悪いのもわかるし、こういうことを言うところじゃないのはわかってるんだけど、……その、……」


 幽霊は、何かをもそもそとつぶやいた。前半は何とか聞き取れたが、後半は声が小さい上に不明瞭すぎて、何を言ったのかわからない。


「聞こえないから、はっきり言って。一思いに」

「……俺、世の中には聞かなかったほうがいいことって、あると思うんだよね」

「そうね。わかる。でも今は隠されると怖いから」

「たぶん、知った方が怖いよ」


 幽霊が、また彼の左下あたりへ軽く顔を向けて、すぐにそむけながら言う。


「……やっぱり何かいるんじゃない!」

「えっ? えっ、大丈夫!?」


 思わず後ずさり、体勢を崩して床に倒れた美鈴に、なぜか幽霊のほうが慌てたように腰を浮かせた。美鈴はひっくり返ったときに肘をフローリングに打ち付けたが、それどころではない。


「ここ、事故物件じゃなかったはずなのに!」

「それについては大変申し訳なく……」

「あなたが呼び込んだの!?」

「何のこと!?」


 床に転がった美鈴に対し、幽霊は助け起こそうと手を伸ばしかけて透けていることに気づいて引っ込めたり、意味もなく自分の透けている体を確かめてみたりと、落ち着きなくうろたえていた。そこに起き上がりかけた半端な状態のまま美鈴が叫ぶから、彼は混乱を極めて、立とうとしたのか何なのか、急に体勢を崩して美鈴の隣に落ちてきた。


「うわ」


 音も、人の大きさをしたものが動くような重さも、何もないままだった。視界だけが半透明のものを通すぶんわずかに暗くなり、とはいえ、彼の体越しに天井がはっきり見えている。

 とっさについたらしい手は美鈴の顔の横の床に置かれていて、互いの姿勢だけを見たら、幽霊が美鈴に覆いかぶさっている形だ。

 幽霊が床に手をついた――と言うと何とも奇妙なのだが――おかげでかろうじて触れ合わない体は、それでも紙一重くらいに近い。なのに冷たさも温かさも感じない。


 半透明でも姿が見えることと、声が聞こえること。


 美鈴は、たったそれだけしかこの世に存在しない儚さを感じた気がした。

 だが、そのわりには。


「幽霊って、転ぶの?」


 至近距離で覆いかぶさられている美鈴には、幽霊の首筋から肩のあたりしか見えない。近くで見ると、首から肩にかけての筋や筋肉の張りがよくわかり、どうにも健康そうなそれがつくづく幽霊っぽくない。


「……みたいだね」


 床についた手から腕に力を込めて起き上がろうとするところまで、まるきり生身の人間と同じだ。実体もないのに、床に手をつく意味はあるのだろうか。

 幽霊が転ぶという現象に驚きのあまり冷静さを取り戻した美鈴が、自分の上で体を起こそうとしている幽霊を観察していると、ふいに目が合った、ように感じた。その瞬間、幽霊が仰け反る。


「うわあっ!?」

「何、人を化け物を見たかのごとく」

「化け物だったらこんなふうにならない!」


 幽霊は、体の重さなどないくせに、やたら不自由そうに手足をぎこちなく動かして、美鈴に触れてしまわないよう慎重に美鈴の上から身を引いた。

 触れたところできっと何事も起こらないのに、律儀なことだ。


「化け物のほうがマシってこと? あなたにとっては仲間だから?」

「仲間? まさか、違うよ、俺だってお化けは怖いけど」

「怖いんだ」

「怖いに決まってるだろ」

「……今の自分の姿、わかってる?」


 美鈴は、つい言わずにはいられなかった。最初に座ったときとは違い、やや疲れたように足を崩してラフな姿勢に落ち着いた幽霊は、自分の体を見下ろしてため息をついた、ようなしぐさをみせた。実際には、呼吸がないから吐く息もないわけだ。


「あんまりお化けっぽくないよね、俺……」

「落ち込んでるの?」

「普通すぎるから、俺も何が何だかわからないし、手がかりもないなって」


 それから幽霊は顔を上げて、美鈴に向き直った。何かを言い淀んで、そろそろと唇を開く。


「……俺、意識は普通の、……生きてるのと変わらないからさ、その、やっぱり気まずいし、平気ではいられないんだ。……洗濯カゴの中の下着が見えちゃったり、さっきみたいに押し倒したふうになるの」

「あ……あー、そういう」


 美鈴は幽霊が最初に顔を向けて逸らしたほうを確かめた。そこには昼間、掃除のときに拾い集めた洗濯物が無造作に放り込んであり、確かに一番上には下着があった。洗濯物の中でそれだけは洗濯機に放り込むわけにはいかず、手洗いするつもりで紛れ込まないようにしていたものだが、幽霊にとってはよりによってかもしれない。


「ものすごく見てはいけないものを見たって感じだったから、ほかの幽霊でもいるのかと思っちゃった」

「見ちゃいけないものなのは、間違いないだろ……」

「幽霊のくせに真面目ね」

「人として……幽霊かもしれないけど、俺の意識としては、人として……」

「難儀ね」


 美鈴が動くと、幽霊はびくっと震えて身を引いた。それに特には言及せず、美鈴は幽霊の横にある洗濯カゴに手を入れて、適当に無難そうなシャツを引っ張り出して上に被せた。

 幽霊がちらりと美鈴の行動を確かめ、ほっとしたように背骨を丸める。


「変な幽霊」

「人としては普通だろ」

「人だったら、さっきも言ったけど、許されてないから」

「そうは言っても」

「透明になった男の子なんて、何かの漫画だったかな、喜んで覗き見してたのに」

「フィクションだろ。実際、いたたまれない気持ちでいっぱいだよ……」

「化けて出ておいてよく言うなあ」

「申し訳なくは思ってるんだよ。ただ……」


 ぽつぽつと話をしていた幽霊は、ふと言葉を切った。言いよどんでいても、先ほどとはまた少し雰囲気が違う。どことなく気を抜いて、リラックスしているように見えた。気のせいだとは思うが、心なしか半透明の輪郭が柔らかい。


「ただ、なに?」

「……どうして俺がここに出てきたのか、わかる気がする」

「どういうこと?」

「なんとなく居心地がいいんだ。ミリンさんが優しいから」


「え……は……? なに、なんて?」

 美鈴は、入ってきた情報を処理しそこねた。全体的に、すごく重要なことを聞いた気がする。


「今、なんて?」

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