4.遅効性の塩

 ネットで拾ったネタだったけれど、通じるんだ、と思いながら幽霊を見てみれば、彼は美鈴の持つスマホが恐ろしいものであるかのように後ずさった。


「俺を消すって、そんな」

「この状況で考えることはそれひとつでしょ?」

「あ、それは……わかるけど、わかるんだけど、俺にとっては殺すぞって言われたに近くて」

「殺すも何も、もう死んでるじゃない。法律に詳しくなくたってわかる、幽霊に殺人罪は適用されない」

「えっ、怖っ」

「もう死んでるんだってば。怖がるなら手遅れでしょうよ」


 美鈴は、もしかしてこの幽霊には、幽霊である自覚がないのだろうか、と思った。

 よく聞く話だ。死んだ自覚がないから、成仏もできない。


「……ねえ、自分が死んでるって、わかってる?」

「ええ……」


 幽霊は悲壮に肩を落とした。わかっているけれどわかりたくない、そういう気持ちが美鈴にも伝わってくる。


「こんなふうになってるからには、そう、なんだと思うけど……」


 両腕を広げ、透けた自分の体を見下ろして幽霊が力なく言う。広げた手の先が狭い廊下の壁を突き抜けていることについて、美鈴は口にしなかった。


「自分が死んだかどうかって、感覚としてわかるものなのかな」

「私は死んだことないからわかりませんね」

「俺だってないんだけど……いや、ある……? けど、ないんだけど……」

「ないのは死んだ感覚? 経験?」

「両方だよ。死んだ経験がある人って、死んでるじゃん。そんな経験、普通しないよ」

「だからそれがあなたなんでしょ。自覚がないから成仏できないんじゃない」

「あ、よく聞く話だ」

「他人事じゃないの。自分のことだってわかってる?」


 どうにも当事者意識のない幽霊を横目に睨みつつ、どうにかしてこの幽霊に自分が死んでいるのだと納得してもらい、成仏させねば、と考える。先ほどから検索しているインターネットの情報がどれもこれも頼りにならず、強制排除から対話での平和的解決へ方向性の転換を迫られていた。


「私は十九歳半だから、生まれてから七千日くらい経ってるはずでね」

「ああ、二十七歳のときに生まれてから一万日になって、それが人生で日数の桁が変わる最後の日らしいね」


 美鈴が自分の生まれた日数なんてものを知っていたのは、まさに幽霊の言うとおりの日を最近調べてみたことがあるからだった。打てば響くような反応が少し楽しくて、思わずうなずく。

 そして我に返る。


「そうそう。……で、それは今どうでもよくて、七千日のうち、少なくとも六千日くらいは記憶があるわけ。その六千分の一であなたに遭ったわけで」

「〇.〇一六パーセント」

「へえ。具体的な数字は考えてなかったけど、すっごくレアな出来事だって言いたかったの」

「宝くじが当たる確率が、八十年買い続けて〇.〇〇八パーセントくらいらしいよ」

「ハア? 宝くじより確率高いんだ?」

「確率としては二倍あるね」

「……レア度下がった。いや、でも、宝くじなんて当たらないんだから、その二倍あったとしたってないも同然でしょ」

「たとえ〇.〇〇〇〇〇一でも、ほんの少しでもあったらゼロとは全然違うよ。宝くじの確率もまったくのゼロではないから、二倍は二倍」

「お黙り」


 美鈴は役に立ちそうに思えないスピリチュアルなページを閉じ、人生で遭遇する出来事のうち、〇.〇一六パーセントに近しいものがあるか検索してみた。


「一年間で空き巣に遭う確率が〇.一パーセント、他人に殺される確率が〇.〇三パーセント……」

「ふーん、他人に殺されるよりかは確率が低いんだな。殺されたあと化けて出るのが二分の一?」

「殺されたからって二分の一の確率で幽霊になるわけ? 幽霊になるの前提?」

「どうなんだろ。俺が普遍的な事象とは限らないし、そもそも六千分の一っていうのも一例でしかない数字だし」

「幽霊のくせに妙に現実的なこと言うのね。ファンタジーなんだかそうじゃないんだか」

「そもそも、その今見てるいろんな確率って正しいの?」

「知らない。ってか、顔が近い」

「うわあっ、ご、ごめん」


 小さな画面を一緒に覗いてきた幽霊に対し、美鈴はスマホをうちわのように軽く振って遠ざけた。生身だったら押しのけるところだが、あいにく透けることがわかっている。幽霊の肩や肘などがたびたび本人も気づかないまま壁に埋まっては戻るのを見ていれば、美鈴が突き抜けてしまっても害はないにしても、幽霊に腕を突っ込むのは心理的に嫌だ。

 幽霊は幽霊で無意識だったのか、言われて初めて距離に気づいてうろたえている。

 あたふたと距離を取ろうとしてまた幽霊が手の先や膝などを壁に埋めたり出したりしているあいだに、美鈴はあらためて幽霊の姿を眺めてみた。


「だいたい、あなた殺されたの? 毒殺?」

「えー、現代で毒殺ってけっこう珍しくない? 用意周到だね」

「殺したの私じゃないから。だって、刺された痕もないし、首を絞められたふうでも、あとはおぼれたとか、突き落とされたって感じでもないじゃん」

「……そうかも。きれいな死体だな、俺」


 幽霊は少しうつむいて自分の体に目を落とすそぶりを見せたあと、不思議そうに自分の透けた手を宙にかざして眺めている。


「死体だってわかってるんなら、成仏しなさいよ……」

「何か未練があって、成仏できないんじゃない?」

「なんで他人事みたいに言うの?」

「あんまり、実感がなくて……」

「その実感を持っていただきたいんですけど」


 幽霊に実体があったらどついている。行き場のない拳を握ったり開いたりしながらなだめて、『幽霊に実体があったら』なんて馬鹿げたフレーズを頭の中で繰り返す。

 実体があったら、何も問題ではなかった。

 いや、普通に不法侵入だから問題だった。

 でもそれなら、追い出しておしまいだ。こんなふうに奇妙な会話も状況も生まれていない。


「幽霊なんて、本当にいるんだなあ」

「自分のくせに何言ってるの」

「実感がない」

「それだけ透けてたら、そりゃあ実感も何もなくない? その体? 体って言っていいの? で何か感じる? 気づいてないみたいだけど、さっきから壁に突っ込んでるよ。指とか、膝とか」

「うぇ」


 幽霊は嫌そうに鳴いてぎゅっと身を縮めた。その動きをするために、またいったん肘がめり込んだことに気づいていない。


「今さら」


 壁から離れ、警戒心むき出しで壁紙と向き合う幽霊を、美鈴は鼻で笑った。壁から距離を取ろうとするあまり、今度は向かいのシンクに腰が沈みかけている。それを美鈴が指摘すると、幽霊は大慌てで自分の背後を確かめようとし、上体をひねったおかげで半身が見間違いようもなくシンクにはまり、飛び退いてまた壁にめり込みかけた。


「ギャッ」

「背中を見るのに、振り返るんじゃなくて、お腹から覗けばよかったんじゃない?」

「どっちにしたっておかしいよ……」

「そうね。存在自体がね。自分でわかってるんだったら、早いところ成仏したらどう?」

「そんなに脅さないでほしいなあ」

「脅してない。幽霊のハッピーエンドって成仏することでしょ」

「そうとは限らないんじゃない?」

「限るのよ。死んで成仏のほかに何があるわけ? 転生?」

「乗っ取りとか」

「成仏路線で」


 さらりと怖いことを言う幽霊に、美鈴は間髪入れず返した。

 幽霊本人がそういう思考を持っているのはシンプルに怖い。


「べつに、俺が誰かを乗っ取ろうと思ってるわけじゃなくて」

「思ってたら私、この家を燃やしてもいい。もしくは引っ越す」

「燃やすより引っ越したほうがいいと思うよ。だけど、さっき俺が引っ張られて戻ってきたのは、たぶん」

「あー、待って、なんか怖いこと言おうとしてるでしょ。ダメそれ」

「言おうが言うまいが、事実は変わらないと思う」

「言霊って言うじゃない。口にしたら本当になるとか。幽霊がいるんだからありえるとして、リスクは減らすに限る」

「無駄な抵抗じゃない?」


 美鈴は、この幽霊に効くものは本当にないんだろうか、と、恨みがましい気持ちで頭を悩ませた。塩の袋が素通りしてしまったから、一番ポピュラーな手段が効かないとわかるのが痛い。

 昨晩、塩の袋が幽霊の腹のあたりを見事にすり抜けた光景を思い出す。そこそこの勢いで投げた塩の袋が、破れなくてよかった。幽霊を通り抜けたうえに破れて床が大惨事になっていたら、たぶん心が折れていた。


「あれ、でも……」

「どうかした?」

「袋に入れたままだからダメだったんじゃ?」

「なにが?」

「そこ、座って」


 言われるがまま床に正座する姿勢になった幽霊は、美鈴が右手に構えたものを認識してぽかんとした。


「え? 塩コショウ? 俺に味付けしようとしてる? なんで?」

「誰が味付けなんかするのよ。塩が入ってるんだからいいでしょ」

「しお? ……あ」


 塩、という言葉に反応しかけた幽霊に対し、美鈴は抵抗する隙を与えまいと即座に幽霊の頭めがけて思い切り塩コショウを振りかけた。幽霊は呆然として美鈴の行動を見上げている。


「……」


 それだけだった。


 塩コショウは幽霊を素通りし、床に落ちる。

 パラ……と乾いた音がフローリングに散らばった。


「……え、なに?」

「効かないの、なんでよ」

「えっ」

「除霊って言ったら塩でしょ。葬式から帰ったらお清めの塩、なんていうの、悪いものが憑いてきてるっていうのも、塩で清められるっていうのも、どっちも迷信だと思ってたのに、片方だけ嘘ってどういうことよ。日本人はいったい何を信じてたのよ」

「なんで俺が怒られてんの?」

「のんきにしてないで、なんで私が必死なの? 成仏するためにもうちょっと必死になってよ。あなたの問題でしょ」

「うーん」


 美鈴が焦っても、幽霊の反応は鈍い。顎がやや上向いているので、たぶん視線を上のほうへ向けて、何か考えている。彼が見ているのが中空なので、まさかそこに美鈴には見えていないモノがいるとかじゃ、とゾッとしかけて、鍋がふきこぼれる音に注意を持っていかれた。


「うわっ」


 幽霊と無駄なやり取りをしているあいだに、カレーに進化する予定の鍋はすっかり煮立っていた。慌てて火を弱め、コンロにこぼれた煮汁を見てちょっとだけうんざりする。

 鍋を下ろしたらふき取らなければ。

 今どき珍しいと言えるのかどうか、コンロはIHではなくガスで、五徳に鍋が乗っている。いよいよ汚れたら取り外して洗えるのは気持ちがいいが、面倒も多い。


「あー、……」

「大丈夫?」

「……。大丈夫だけど、大丈夫じゃない。ふきこぼれは大したことないけど、幽霊のせいって思うと、ダメージにボーナスが付く」


 煮立った鍋の人参を菜箸で軽くつつき、そこそこ柔らかくなっていることを確かめる。


「……俺のせい?」


 美鈴の横から鍋を覗き、次いで美鈴に顔を向けて、幽霊はひとまわり小さくなったように見えた。それが目の錯覚なのか、実体がないから本当に小さくなれるのか、いまいちよくわからない。


「……。べつに、気にしないでいいよ」


 それよりも、確かに困ってはいるけれど、しょんぼりされると良心がとがめる。鍋から菜箸を引き上げて、気持ちを切り替えるようにルーを手に取った。

 どんな状況でも、おいしいものがあれば気分はいくらかマシになるはずだ。


 落ち込んだらあたたかくておいしいものを食べなさいと言ったのは、美鈴のおばあちゃんだった。自分で作る料理には、おばあちゃんの作る粕汁ほどの効果はないけれど、カレーならその半分くらいの威力は出せる。と思う。

 トレイの封を剥がして、火を弱めた鍋に四つに割ったルーを落とし、お玉でかき回した。昔はそれだとダマができやすかったと聞いたこともあるが、美鈴はこうしてもダマを残したことはない。

 たぶん、ルーも進化している。


「企業努力よねぇ」


 肉ナシのカレーなのに、鍋にはみるみるおいしそうなとろみが生まれ、匂いも申し分ない。

 どうせ茶色のどろっとした液体にまみれてしまえば、肉がないことも目立たない。鍋の中にあるのは、十人中十人がカレーと答えるだろう立派なカレーだ。

 食欲をそそられて、胃がきゅっと締まる。朝から部屋中を掃除して洗濯をしてシャワーも浴びた体には、食パン一枚ではとうてい足りない。


「おいしそう……おなかすいたなあ」


 美鈴が思ったのとまさに同じタイミングで、幽霊がつぶやいた。


「え? 幽霊ってお腹空くものな……の……? ……え?」


 鍋の様子を見ながら火を止めるころあいを見計らっていた美鈴は、横目でちらと幽霊を見やった。相変わらずのんきな雰囲気でお腹のあたりをさすった幽霊は、そのまますうっとますます透けてゆき――


 消えた。


 美鈴は幽霊が消えた場所を凝視したあと、周囲を見回した。

 どこにも見あたらない。本当にいない。


「えっ……。未練って、カレー……を、見たかった、とか?」


 食べたかった、だったら、目の前においしそうなカレーがあるこの状況で成仏できない。むしろ、未練が強くなるだろう。


「えー……。変な幽霊」


 何度も思ったけれど、今が一番しみじみした。

 カレーを、ただ見たいなんて欲求が強い人、かなり奇特だ。


「まあ、いいけど」


 米の炊きあがりはまだだが、炊飯器からいい匂いが立ちのぼりはじめている。実家で当たり前のように新生活用品のひとつとしてそろえて、いざ引っ越してみたら実家の何分の一だかしかないワンルームでは、キッチンを圧迫するやけに存在感の大きいモノとなった。冷蔵庫の上には電子レンジを乗せているし、置き場に困って廊下の隅に直置きしているけれど、米の炊ける匂いと炊き立てのご飯を見るたび、あってよかったと思う。


「……さて」


 食器棚は居室のほうにある。カレー皿を取りに行こうとして、その入り口あたりで、足が何かザラツいたものを踏んだ。


「えっ?」


 床を見ると、幽霊に振りかけた塩コショウが、無意味に散らばっていた。


「……塩が遅効性だったとか?」


 少し時間が経って湿り気を帯びた塩はややべたつく。床を水拭きしながら、そんなことがあるのか? と首を傾げるしかなかった。

 ともあれ、カレーでも塩でも、幽霊が成仏できたならハッピーエンドだ。

 開けっ放しにしていた窓から入る風が、カレーの匂いをさらっていく。

 掃除して整理された部屋は相変わらず清々しく、少し、綺麗すぎるような気がした。

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