3.肉のないカレーと脳のない幽霊
「わあああごめんなさい、ごめんなさいっ!」
冷蔵庫のドアを閉じるときに、何か半透明のものが視界の端に映った。その瞬間は米櫃のほうに意識が集中していて、ドアを閉めて改めて米櫃を抱えなおしたときに何かが動いたように見えたのも、気のせいかと思った。
そして振り返って、美鈴は閉じたばかりの冷蔵庫のドアにしたたか背中を打ち付けた。米櫃を落とさなかったのは不幸中の幸いである。
「な、な、なんで!?」
「な、なんででしょう、か。はは……」
力のない、ほとんど義務のような乾いた笑いは、一瞬で消えた。美鈴の顔を見た幽霊は、それはもう居心地悪そうにうつむいてみたり着ているスウェットの裾を引っ張ってみたり、落ち着かなく視線をさまよわせている。
居心地が悪いならどこかへいっていただいて、いっこうにかまわない。
「まだ明るいんだけど? 昼なんだけど!」
外はからりと晴れたすばらしい天気、すがすがしい風の吹き込む部屋で、幽霊の出るような余地はどこにもない。
なのに、いる。
「幽霊って夜に出るものじゃないの?」
「さ、さあ……」
「なんで?」
「いや、あの……」
不気味さとはほど遠いシチュエーションで見る幽霊は、凡庸な男の子の姿をしているせいもあり、怖くもなんともなかった。
ただ、邪魔だ。
幽霊本人も、昼だというのに陽光を怖がるようすもなく、お化けというには化けて出ている感じじゃない。だからといって、そこに居ていいよ、とは、ならない。
「えっと、その、ええと」
美鈴から目をそらしたままあたふたしている幽霊は、昨夜の神秘的なさまから一転、いっそ滑稽だった。
あまり筋肉も脂肪もなさそうな細身の体を、白っぽいオーバーサイズの半袖のスウェットと、どこのメーカーかわからない黒ジャージの長ズボンが覆っている。半透明なせいでわかりにくいが、おそらく黒い髪は昨夜と同じく寝癖か何かでぼさぼさに乱れ、相変わらず長い前髪が目まで隠していた。
透けてさえいなければ、特に目立ちもしない、たぶん美鈴と同じ年頃の、どこにでもいそうな雰囲気の男の子だった。それこそ同じキャンパスにいたっておかしくない。
透けてさえ、いなければ。
血が流れているようでも、どこかが欠けているようでもない。半透明なところが判別を難しくしているが、つるりとした張りのある頬あたりを見るに、腐っても腐りかけてもいない。美鈴がこれまでに見てきたフィクションのお化けたちに比べると抜群に清潔感がある。ホラー映画のオーディションには間違いなく落ちるだろう。
昨夜は人生の想定外すぎて恐怖が勝ったが、今は、透けているところに目をつむれば、そのへんの鳩か猫程度の印象しかなかった。
そのへんではあまり見かけないけれど、より近い動物なら、賢くない部類の柴犬。
ただ、鳩か猫だか犬だかだからといって居座ってもらっても困る。ここはペット不可物件だ。
「なんでここにいるのよ?」
「あの、その、あわ……」
米櫃を持ったままの美鈴が一歩踏み出して詰め寄ると、幽霊は半透明の両手で顔を覆ってしまった。美鈴から見てその両手は透け、向こう側に目を覆う黒髪まで見えているのだが、幽霊にとっては何か意味があるのだろうか。
「ちょっと、何なの?」
「服! 服を! 服着て!」
幽霊は顔を覆ったまま下を向きながら叫んだ。
「は?」
言われて、美鈴は自分の格好を見、それから美鈴の目の前で縮こまっている幽霊を見る。
「……はあ?」
幽霊とはいえ、男の子の前で下着姿をさらして羞恥がこれっぽっちもわいてこないのも不思議ではあったが、それより幽霊が美鈴の姿で震える意味がわからなかった。
勝手に出てきて、勝手に美鈴の姿を見てうろたえる幽霊なんて、聞いたことがない。いや、勝手に出てくる、は定番だろうけれど、美鈴とはち合わせたことにならともかく、下着姿で焦るなど、わざわざひとの家に出てきておいて一体何をしているのか。
そこはかとない怒りがわいてきて、美鈴はまた一歩距離を詰めた。
幽霊は飛び上がって一歩下がる。美鈴が踏み出せば、また幽霊は下がる。
ふと、幽霊の後ろに玄関のドアがあることに気づいた。ひとり暮らしのワンルームは、キッチンスペースと廊下がほとんど一体で、冷蔵庫は玄関入ってすぐの角にあるのだ。美鈴がそのまま何歩か前進するうち、幽霊はドアをすり抜けて消えていった。
「……地縛霊じゃないんだ」
簡単に追い出せてしまった、と拍子抜けしたのもつかの間、ドアから幽霊の頭が生えてきた。
「いや、何でよ」
「ごめんなさい! でも俺、このあたりから離れられないみたいで! なんか戻ってきちゃうんです!」
目元は前髪に隠れているが、その髪越しにどれくらい美鈴の姿が見えているのだろう。ぱっと顔を上げてまたうつむき、完全に室内に戻ってきて落ち着かなくそわそわしている幽霊に、美鈴はついに諦めた。
米櫃を狭いキッチン台に置いて居室へ入り、適当なTシャツと高校時代のジャージのズボンを身につける。
これで文句は言わせないとキッチンに戻れば、そっと顔を上げて美鈴を見た幽霊は、どことなく浮ついた雰囲気をかもしだした。心なしか半透明の輪郭が柔らかく、さながらふわふわのタオルのように毛羽だって見える。
「……何?」
「いや、あの、……女の子だなあ、って」
「はあ?」
「変な意味じゃなくて、なんとなく! 男とは違うなって! むさ苦しくないというか、その、ちょっと気が抜けてる感じがいいな……と、か……」
「……」
「いやあの、ほんと、変な意味じゃない……です……」
美鈴が顔をしかめたのは、この程度のことで女の子だ何だと浮つく幽霊のあまりの初さがちょっと信じられなかったからだ。
「彼氏は、こんな格好は萎えるって言ってたけど、変わった趣味をお持ちで?」
「ちがっ、えっ、ちがう……よな? ええ……?」
「彼氏を抜きにしても、私も変な趣味だと思う」
「えー……?」
困惑の次に不服そうな様子を見せた幽霊に「そこ邪魔」と言って後ずさらせ、米を計って炊飯器の内釜に入れた。それなりに意識してかわいい部屋着を身につけてみたでもなく、自分でも色気も何もないなと思う適当な姿にときめかれても微妙だ。
何とも言い難い心持ちで無洗米を二合はかり、釜の目盛りに従って水を入れていると、幽霊が目盛りを見るようににゅっと顔を出してきた。
「うわ、何よ」
「それ、水の量少し増やした方がいいと思うよ、……います。もうすぐ梅雨だし」
「なんで?」
「収穫から時間が経ったお米を炊くときは、そうしたほうがおいしくなるから」
「……さっきまでと違って、ずいぶんまともに喋るね」
美鈴は思ったことをそのまま口にしながら内釜を炊飯器にセットし、スタートボタンを押した。水の量を調整しなかったせいか、幽霊が悲しそうな顔をしたのには、地味に良心がとがめる。
そのせいで、少しは優しくしてやらなければ、と思わされてしまった。
「米の水加減にこだわるなんて、料理が好きなの?」
「……どうなんでしょう……」
「わからないの?」
「……うん」
「なんでここにいるの?」
「……なんでだろう……」
「なんでよ。こっちが聞きたいよ」
「ごめんなさい」
幽霊はたいへんいたたまれなさそうに肩を落としてうなだれた。
「いつからいるの?」
「えっと、きのう?」
「えっ、あれからずっといたの?」
「そうじゃない、と思……います。きのうは、しばらくトイレにいたんだけど、そのあとがわからなくて……。で、気づいたらさっきここに立ってて」
「気づいたら、って、そのあいだどこにいて何をしてたとかは?」
「わかりません……」
「ええ……?」
美鈴は、幽霊の姿を上から下まで眺めてみた。
さっきと同じ、半透明でゆるい格好の男の子。追加情報は何もない。
「名前とかは? 生前のことや、歳とか、そのほか、何かないの?」
「……ええと、わからない、です。何も……」
「全く記憶がないってこと?」
「……そう、みたい……?」
幽霊はわかりやすく落ち込んでしまった。それでも不穏な気配はなく、しょんぼりとして濡れた子犬のようだ。
そりゃあ心細いでしょうね、と、同情はする。
しかし、だからといって美鈴にどうしろというのだ。
「それだけ何も憶えていないのに、なんで米の水加減はわかるのよ」
「さあ……。ふと、それがわかって。なんでかは、わからない、んですけど」
「うーん……。生前、米農家だったとか」
「……わからない、けど、違う、ような……。そういう感じはなくて……ない、です」
「中途半端に敬語じゃなくていいよ、もう」
幽霊から目を離し、キッチンのシンクでじゃがいもとにんじんを洗って皮をむき、たまねぎも合わせてカレーっぽく切った。適当このうえなくとも、美鈴ひとりしか食べないものだし、具が不格好でも何も問題はない。
そのあいだ幽霊は美鈴のすぐそばにいたが、美鈴が動くのに合わせて立ち位置を変えるので、うっかり美鈴の体のどこかが幽霊に突き刺さるということはなかった。
透けていて、物理的に障害にならないことをわかっているはずなのに、まじめな幽霊である。
その幽霊が、美鈴がたまねぎとじゃがいもとにんじんを鍋で炒め、水を入れて煮込み始めた段階で声を上げた。
「えっ?」
「なに?」
「肉は?」
「ああ、ナシ」
「ええ?」
「買いに行くの面倒だったの。っていうか、カレーに肉、も憶えてるんだ? カレーって食べ物があることも。米の水加減なんてものを憶えてるくらいだから、そうか……」
「あ、うん。カレーに肉が無いなんて……」
「よくカレーだってわかったね」
「材料見たらだいたい……。それに、そこにルーがあるし」
「ああ」
手持ちぶさたに、幽霊が指さしたルーの箱を取り、中からプラスチックのトレイを出して、封の上からルーを割る。それもすぐに終わってしまう。
「ねえ、つまり記憶喪失ってこと?」
「えっと、そう、なる、……のかな」
「でも脳みそないじゃない」
「いや、……あるよ、たぶん」
「後ろ透けてて、顔面と後頭部のあいだにそれっぽいものはないんだけど」
「……幽霊って、そういうものなんじゃないかな……」
「幽霊って脳みそあるものなの?」
「……。さあ」
美鈴は幽霊の透けた頭部をじっくり眺め回してから、「やぱりないんじゃない」と告げた。
「そんなあ……」
「あるならあるで、死因とか、未練とか思い出してよ」
言いながら、廊下の電気をつける。太陽の位置が変わったせいで、居室の窓から入る光が弱くなり、キッチンのある廊下は少し薄暗くなっていた。
電気がついたとたん、幽霊は少し顔をそらした。明かりを嫌がっているそぶりではなく、たぶん、まぶしかったんだろう。そういう仕草は、生きている人間と何ら変わらない。
視神経や脳がどこにあるのかわからない幽霊でも、まぶしさを感じるものなのだろうか。
「幽霊がまぶしがるとこなんて、初めて見た」
「俺の前にも幽霊見たことあるの!?」
「ない」
「なんだ……」
「なんでがっかりするのよ」
「前にもあるなら、何か知っているんじゃないかな、って」
「ああ……私は幽霊が昼にも出ることさえ知らなかった。そういうものなの?」
「さあ……。俺たぶん、ホラー映画には詳しくなくて」
幽霊はズレているのだかまともなのかよくわからない返事をした。
たぶん、発言の当人が幽霊でなかったらまともなのだろうと思えるが、なにせ幽霊ご自身だ。
「自分のことのくせに」
「俺は映画じゃないし……」
「だから困ってるのよね」
「ごめん……」
「まあ、仕方ないって、思うしかないよね……」
美鈴はまだ手でもてあそんでいたルーを放り出し、居室からスマホを拾ってきた。幽霊は美鈴のあとをついてきていて、美鈴が居室に入ればその後ろにいたし、キッチンのある廊下に戻って壁にもたれるとすぐ隣にたたずんだ。スマホに目を落としたら、ついでに幽霊の足が見える。
なんとも幽霊のイメージ違いはなはだしいことに、この幽霊はつま先までしっかりと足がある。それどころか、地に足がついている。浮遊感がなく歩き回るものだから、動き生きた人間とまったく変わらない。足音や衣擦れの音など、本人が発する声以外の物音をたてないところだけが幽霊らしい部分だった。
「……何を見てるの?」
美鈴がしばらくスマホをいじっていると、放置された幽霊がいくらか心細そうに話しかけてきた。美鈴は顔を上げないまま答える。
「お前を消す方法」
「それって昔のイルカの……いや、待って」
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