2.昼下がりの幽霊
やたらぱっちりと目を覚ました美鈴は、妙に爽快な気分と、不愉快な体のべたつきを同時に感じながらベッドから身を起こした。ベッドの上から手を伸ばし、なんだかいい感じに明るい光を透かしていたカーテンを開けると、いかにもさわやかな午前の空が見える。
予定のない休みの日は目が覚めてもベッドでだらだらしていることも多いのに、青い空に引かれるようにして床に降り、窓を開けた。
強めの風が吹いた。網戸なんてそ知らぬようすで吹き込んだ風は美鈴を通り抜け、美鈴の体の細胞のひとつひとつにまで、新鮮な空気を直接届けるかのようだった。
気持ちのいい朝だ。
よく晴れて、空も澄んで、空気もほどよくすがすがしい。
夏ほど濃くない青色は、思い切りよく空いっぱいに広がっている。かすかに弧を描いて、地球が丸いことを思い出させた。
「無駄にするのはもったいなさ過ぎる日だな」
レースのカーテンまでも開け放って、吹く風を迎え入れる。
しばらく窓辺に立ち尽くして外を見、ゆっくりと呼吸を繰り返していた美鈴は、やがて少しの肌寒さを感じて自分の格好を思い出した。昨夜、シャツとスカートを脱ぎ散らかしてベッドに入ったから、下着しか身につけていない。
それから室内を振り返れば、外はとても心地よいけれど、美鈴の部屋の中は、昨夜の服だけでなく脱いだまま放置されたシャツや、適当に丸めて放られたレポート用紙、積んだものが崩れたままの本などで散らかり、すがすがしさとかけ離れている。おまけに枕カバーは案の定化粧で汚れ、シーツもどことなくよれて居心地が良さそうには見えない。
天気は絶好の洗濯日和。
惜しみない空の青さとさわやかな風に勢いづけられるがまま、美鈴は枕カバーを取り、シーツを剥がした。
布の塊を抱え、居室を出て洗濯機のある洗面所を開けようし、一瞬ためらう。
あの半透明の姿はどこにも見えなかったし、このすがすがしさの中であんなものが居るようには思えないけれど、もしかしたら、とも思う。
ドアノブに手をかけ、抱えたシーツを盾のようにしながら、そっと中をうかがう。
しんとして、何の気配もしなかった。洗面所から繋がっている風呂場を覗いても、やはり何もいない。いったん廊下へ出て、同じようにトイレを確かめてみたが、あの幽霊はどこにも見つからなかった。
「……夢、かな」
夢にしては記憶があまりに鮮明だ。
首をかしげながら、万が一にも美鈴と入れ違いに壁をすり抜けて移動したのかもと一応覗いてみた居室で足が何かを蹴り飛ばし、微妙に重い感触があった足の先をたどって、塩の袋を見つけた。
きのう投げて、幽霊を通過したものに違いなかった。
「……夢じゃない、か」
とはいえ、やはりどこにも幽霊の姿はない。もういないのならそれで良い。
シーツと枕カバーを洗濯機に放り込み、風呂場で化粧を落として顔を洗う。独立洗面台は学生向けワンルームには無い。実家と違う少しの不便さは、引っ越してきた当初、やりにくさとひとり暮らしの興奮とを感じさせたものだ。今ではもう慣れた。
それから美鈴は、洗濯が終わるまでの間に部屋に散らかった服を洗濯カゴにまとめ、ゴミをゴミ袋に入れ、積んで崩した本をささやかな本棚におさめ、ほか、細々したものをそれぞれあるべき場所に戻して、床に掃除機をかけて雑巾で拭き上げ、いつぶりにか部屋を掃除した。
存分に風が吹き抜ける部屋は、まるで丸ごと水洗いしたかのようにほのかな水の気配を立ち上らせ、清く澄んでいる。風を浴びて息を吸うと、久々に呼吸をしたみたいだった。
大雨のあとでからりと晴れた日の、空気の気持ちがわかる気がした。
深呼吸をしてから、汚れた両手を肘まで洗って、動きを止めた洗濯機から枕カバーとシーツを取り出し、狭いが何とか日当たりのあるベランダに干す。きっと気持ちよく乾くだろう。勢いのままありとあらゆる布類を洗濯してしまいたくなったが、学生ひとり暮らしのベランダはシーツでいっぱいだから諦めるしかない。
明日も今日みたいに晴れ渡るといい。
天気予報を見るためのスマホは、掃除の途中で床に落ちていたのを拾ってローテーブルに乗せていた。一晩放置したのに通知のランプは点滅しておらず、休日とはいえダイレクトメールさえないのは珍しいな、とスリープを解除しようとして、うんともすんとも言わない画面にバッテリー切れを知らされる。
充電器を差して電源を入れると、待っていたというようにいくつかのメールやメッセージを受信した。その中に、昨夜電話をかけてしまった友人からのものがあるのに気づく。
奈子、というのが友人の名だった。アカウントの名前も飾り気無くそのままで、いつも自然体でいる彼女らしい、と美鈴は思っている。
奈子は、自然体だけれど、それでいて女子大生っぽい可愛さと元気さを持つ。高校までと違って、大学は広くて人間関係が薄いぶん男子に人気があるとかないとかがはっきりわかるわけではないけれど、きっと好ましく見えるだろう子なのだ。
アプリを開いて時間を見たら、メッセージはつい先ほど送られてきていた。
『おはよう。昨日の電話どうしたの? 何かあった?』
今日も、今から彼氏と遊ぶはずだ。その貴重な朝の時間を割いて、わざわざ美鈴に連絡をくれた。メッセージが続いたり、ことによっては電話をしたがったり、美鈴が時間を奪ってしまうかもしれないと考えたはずなのに、気づかなかったふりもしないような奈子を嫌う人なんて、いないのではないだろうか。
『おはよー、急にごめん、たいしたことじゃななかったんだ。今度大学で話すね。そっちは? 楽しんでる?』
奈子に話せば、昨晩のことは奇妙でおかしな笑い話にできる気がした。
でもその時は今ではない。送ったメッセージには画面に表示されると美鈴が目を離す前に既読がつき、一分も経たず返信が来た。
『まあね。ほんとに大丈夫?』
気を遣わせてしまったなあ、と、ほろ苦くも嬉しい気持ちで笑う。美鈴が滅多に電話などしないと奈子は知っているから、流さず気にかけてくれるんだろう。
奈子には、今日明日を何も心配することなく楽しく満喫してほしい。
本当に心配ないよ、という気持ちをどう言葉にすれば伝わるか、美鈴はしばし悩んだ。
うちに幽霊が出た。
ほかには何も起こらなかった。本当にそれだけだ。
でも、文字だけの、それも今はなるべく簡潔に済ませたいメッセージで、奈子が少しも心配することないよう伝えるのはけっこう難しい。
『ほんとに大丈夫。ラップ音がしたみたいな、そういう話。びっくりしたけど、何もなかったよ』
『何それ? 今度詳しく聞かせてよ!』
笑っている絵文字とともに送られてきたメッセージを見て、美鈴はほっと息をついた。
『絶対聞いてよね! 月曜の昼休み、付き合ってもらうから』
内心のテンションとは少し違う文章を送って、返事が来る前に続けざまにもう一文送った。
『連絡ありがとう。土日楽しんでね』
お土産買ってくる、と来たので、美鈴は、別にいいよ、と入力したのを消して、楽しみにしてる、と返した。
五分に満たずやり取りを終わらせられて、少し安堵した。奈子とならくだらない話でいつまでもやり取りできてしまう。でも今は、少しでも長引けば彼氏と過ごすはずの大事な時間を横取りしてしまう。
軽く息を吐き出すのと一緒に両腕を天井へと引っ張って体を伸ばす。網戸の向こうではためくシーツの音を聞き、シーツをひるがえした風は部屋にも入ってくる。いつだったか理科の教科書で見た図の通りなら、風は壁にぶつかったあと、広がって空気をかき混ぜているのだろう。
すっきりした部屋でしばしぼうっと風を受け、ふと気づく。
自分を洗い残していた。
明るいうち、それも午前中にシャワーを浴びるのは、夜に疲れてだるい体に何とか浴室へ持って行くのとは違って、特別だ。
居室へ戻ると、ドライヤーで乾かしてまだ熱を持つ髪に風が通り、ふわりと涼しくなる。身につけているものも薄い肌着だけで、肌を新鮮な空気が撫でていく。
何もかもが洗い流されたみたいだった。
片づいて、心なしか広くなったような部屋を眺め、なんとはなしにきのうの幽霊を思いうかべた。
暗い中にたたずんでいた青白い姿。暗くてもはっきり見えたし、今でも思い出せるそれは、ほのかに光っていた。
幽霊のくせにおどろおどろしさはなく、体のどこかを損傷しているようにも見えず、透けてさえいなければ美鈴とそう年も変わらないだろう、ただの男の子だった。
大きめのサイズなのか使い古しているのか襟や袖にずいぶん余裕のあるスウェットがだぼついて、事故や病気で死んだとか、そういう悲壮さもない、部屋でだらけてくつろいでいるかのような服装をしていた。
「……幽霊を見る、なんてね」
美鈴に霊感はない。絵本や映画で見た怪物やゾンビを怖いと思って、夜寝るときにぞっとすることはあっても、信じてなどいなかった。
いまいちピンと来ないのだ。子どものころから、小学校の通学路や修学旅行先、中学に上がってからも時々同級生が持ってきた怪談話や噂のスポットのたぐいで楽しめたことがない。わいわいと楽しそうに悲鳴を上げる友人たちに混じって、感じてもいない怖さで悲鳴を上げる演技をするには恥ずかしさのほうが勝り、いつも彼女たちの少し後ろで立ち尽くしていた。
それがいざ目の前に現れたら、噂されていたような血みどろでさえなかったのに、ずいぶん取り乱してしまった。
でも、こうして思い返せば、あの幽霊は。
「ほんとにいるんだな……」
とても貴重なものを見ることができたように思えた。
自分の人生で、そんなふうに特別な経験ができるなんて思っていなかった。
幽霊らしくはない、うろたえては美鈴の顔色をうかがってばかりで、そうして、最後には謝っていた。
変な幽霊。だけど、見慣れた自分の部屋の中にいて、透き通って暗闇に浮かび上がる姿には、テレビのモニター越しや遊園地のアトラクションなんかでは感じることのできない、非現実的な美しさがあった。
記憶を美化している可能性はある、と思いながら、美鈴は今は明るい廊下を振り返る。
どうしてあそこにいたんだろう。
美鈴の住むこの物件は築五年以内で、前の住人も同じ大学の学生だったことがわかっている。その人が卒業したのと入れ替わりに美鈴が入居したのだ。
その人の前に入居していた誰かに何かがあった場合、美鈴に対しての告知義務はなくなっていただろうが、事故物件の噂も聞いたことがないし、何よりきのうまでまったくそんな気配はなかった。
前の住人の生き霊? けれど、もう社会人になっているだろう人を想定すれば、あの幽霊はもっと幼いように思えた。
一コマ目に授業があるとき、通学時間には多くのサラリーマンを見かける。バイト先の食堂の利用者だって社会人である。自分もあと三年もせず彼らのようになると、わかっていても想像がつかない。
子どもじゃないけれど、大人でもない。大人である資格はまだない、美鈴は自分のことをそういうふうに感じていて、あの幽霊もまた同じように見えた。
同じくらいの歳で死んでしまったとき、何が未練になるんだろう。
美鈴は、自分が死ぬなら、とふと想像した。
やってみたいことは、もちろんいろいろある。でも、そこに未練というほど強い気持ちがあるかと言えば、そうでもないと思う。
死にたいなんて思ったこともないが、強い気持ちで生きているわけでもない。
それは美鈴が、今までの十九年を平穏に生きてきたことの証拠だろう、とも思えた。もし命が危ぶまれることを経験していたら、死にたいか、生き延びたいか、どちらかを強く思うこともあったかもしれない。
彼には、何があったのだろうか。
死んでも死にきれない何かがあるような人生のほうが、充実しているとは言えるのだろう。ドラマや小説くらいには、美鈴にとっては遠いものだ。
特別な何かなんて期待していない。
ドラマや小説みたいなことは、起こらない。
実は、ほんの少し、ちょっとだけ、何かがあるんじゃないかという思いがないわけではない。かすかな羞恥心とともに、特別なものとの出会いを心待ちにする気持ちが自分の中にあるのを、美鈴は知っていた。
でも、楽しいことも嬉しいことも、当たり前の日々の中にたくさんある。
それで十分。どころか、それがいい。
今が、ずっと続けばいいのに。
高校の卒業が見えてきたころ、美鈴は初めてそんなことを思った。
友だちと同じ教室で一日中過ごすなんてことは、高校で最後なのだということが現実味を帯びてきて、こんな日々はもう二度とないのだと、思ったとたんに急ぎ足になったような一日一日が、あまりに名残惜しかった。
高校の友人たちの進学先はばらばらだった。
美鈴と同じ大学に入った子もいるが、学部が違えば講義が同じになることはほとんどない。時々食堂で待ち合わせて一緒に昼ご飯を食べても、そこに高校のときにはいつもいたほかのみんなは揃わない。
寂しいな、と思っていたけれど、入学して夏が来る前には慣れてゆき、新しい友人もできて、新しい人間関係の中で過ごすようになった。
高校の友人たちとは、今でもたまにメッセージのやり取りをする。新しくできた友だちと過ごす大学生活も楽しい。
今が楽しいし、高校のころみたいに過ごしたいとも思う。
なんともわがままな話だ。
叶うはずがないし、叶えようとも思っていない、望みと言えないほどのちょっとした遊び心。
現実では、高校生活はとうに終わり、大学生活の終わりも見えているのをわかっている。
単位を落とさない限り、あと二年と半分ともうちょっと。
終わってほしくない。
社会人になって働くのが嫌なのではなくて、働くことが生活の多くを占めるようになれば、今感じている大切な時間がごく少なくなってしまうと予想できるのが嫌なのだ。
大事な友人たちがいるのに、義理とお愛想で笑いかけるだけの人たちに囲まれて人生の大半を過ごさなければならないなんて、もったいないにもほどがある。
今が、ずっと続けばいいのに。
高校時代の終わりに感じた気持ちは、少し変わりながらも、同じ言葉として美鈴の中に在り続けた。
大事な人たちをちゃんと大事にできる今のような自由さが、いつまでもあればいいのに。
そう思ったのは、けれど、久しぶりだった。
「……お腹空いたな」
空腹を感じたのもいつぶりだろう。ここしばらくは、何かを食べなければいけないという義務感だけで、適当なものを適当に食べていた。
時間を見れば昼を過ぎていて、よけいに空腹感が増した。
お腹が空くということを、思い出した感じだった。
冷蔵庫を覗き、見つけた食パンをその場しのぎにかじりながら、無性にカレーが食べたくなった。
炊き立てのご飯と、定番だが妙なことをしない限りどう作っても絶対においしいカレー。
一度思い浮かべたら、頭の中はそれでいっぱいになる。
カレーのルーは買い置きがあった。たまねぎ、にんじん、じゃがいもも常備してある。
日持ちのしない肉だけがない。
「……」
下着姿のまま、美鈴は少し悩んだ。
天気は良くて、風も気持ちいいが、シャワーも浴びてさっぱりした今、出かけるのもおっくうだ。
……肉なしのカレーは美味いんだろうか?
「ルーを入れたら、なんでもいいような気が……」
カレールーの箱の裏面の原材料一覧を目で追いながら、なんとなく、そんな気がしてきた。ビーフブイヨンだとかが原材料の中にある。肉から染み出すうま味成分はもう入っている、ということなのでは。
きっとそう、たぶん大丈夫。
美鈴はスーパーへ買い出しに行く選択肢を消し、キッチンのゴミ箱の上で身をかがめてたまねぎをぺりぺりと剥き始めた。つるんと白い姿に剥いてしまってから、米を炊くことを思い出す。
冷蔵庫を開けて、ボトル型の米櫃を取り出したときだった。
水を冷やしたりお茶を作ったりする二リットルのボトルと似たような形の米櫃は便利だが、うっかり蓋が外れたり取り落としたりして米をまき散らすのを警戒している美鈴は、いつもしっかりと抱える。それが思いもしなかったところで役に立った。
「……。……? ……うわぁっ!?」
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