1.うちが事故物件になった日

 金曜日、二十三時。

 美鈴はバイトを終えて帰り着いた自宅のドアを、開けて、閉めた。

 大学入学と同時に美鈴の新たな住まいとなったワンルームは、実家に比べるとどこもかしこも狭いけれど、美鈴にとっては大事な我が家だ。

 その見慣れたはずの玄関に、ありえないものを見た、気がした。


「は……?」


 おそるおそる、もう一度ドアを開ける。


 目が、あった。


 家主の帰りを待っていた暗い玄関で、ぼうっと浮かび上がる、青白いもの。半透明で、人型。たぶん、男。


「あっ、おかえり、なさ」


 この家に同居人はいない。

 美鈴はドアを閉め、マンションの外廊下から階段までを一気に駆けて、足を止めないままとにかく走って、真っ先に目に入ってきた明るいコンビニに飛び込んだ。

 深夜でも明るい入店音と、どこかの棚のあいだにいるらしいスタッフの元気な挨拶、そして目がくらむほどの蛍光灯の明かりで気が抜けて、へたりこみそうになる。普通に走ったのではありえないほど息が切れ、膝も震えているし、喉も痛い。


「なに、あれ……」


 見間違いではなかった。たしかに見た。

 何かが『居た』。


「うそでしょ……」


 信じられないし、信じたくもないが、二度も確かめて見間違いでないことを知ってしまっている。

 落ち着かなく棚のあいだを意味もなく歩き回って、どうしよう、と考えた。

 帰宅したら見知らぬ男がいた、なら、迷わず警察に電話する。見知らぬ男が首を吊っていた、でも、警察に電話すればなんとかなるだろう。

 でも、帰宅したら見知らぬ半透明の男がいた、という場合、いったいどこに連絡すればいいのか。


 どこかまともに取り合ってくれる先はないのかと、握りしめていたスマホで検索をかける。

 山ほど出てくるスピリチュアルな検索結果にうんざりしながら探し続けても、今すぐにどうにかする方法を教えてくれるサイトはなかった。

 唯一得られた有用な情報は、家で怪奇現象が起きたとき、管理会社に連絡すれば一応調査してくれるらしいということだ。だがこんな夜に万一の緊急絡先となっているコールセンターに電話しても、オペレーターも困るだけだろう。そこは水漏れなど放置できない故障のための二十四時間対応であって、幽霊にも対応しているとは思えない。

 電話をかけて「うちに幽霊が出たんです」と訴えるのも、学生のたわごとでしかないように思えた。

 生身があるかないかの差だけで頼る先がなくなるなんて、どんな理不尽だ。


 ようやく整ってきた呼吸で大きなため息をついて、美鈴は次にスマホのメッセージアプリを開いた。上から順に最近メッセージを送りあった友人や、何らかのお知らせを送ってきたショップが並ぶ。


 こんな夜中に、くだらないかもしれない話で連絡して、それを受け止めてくれる人。

 美鈴は少し前に、そんな相手を失っていた。

 それでもひとりではいたくなくて、つい、家が近所で一番仲のいい友人の通話アイコンをタップしてしまう。しまった、と思ってもすぐに切れないまま数秒が過ぎて、やっと終了ボタンをタップした。

 今日、彼女は彼氏と過ごしているはずだ。金曜の夜から土日にかけて、少し遠出して遊園地に遊びに行く予定なのを、美鈴は知っている。その邪魔になるのは嫌だった。それなのに電話に出てくれることを少しだけ期待した自分の配慮の無さにうんざりする。


『なんでもない夜に、意味もなく電話してくだらない長話に付き合ってくれるのは……彼氏だろ』


 別れた彼氏の言葉を思い出す。少し得意げに言っていた彼へ、付き合っていたあいだ、美鈴はついぞ電話をかけなかった。大学の課題を片づけたり、本を読んだりして過ごす夜、そこからさらに彼へ電話するほどのことを何も思いつかず、昼に会って話ができれば、それで十分だと思っていた。

 もしも今も付き合っていたら、電話をかけたのに。

 スマホの画面をスクロールして出てきた元彼の名前を見下ろし、ため息がこぼれる。

 そういうふうに、利用することしか思いつかない自分を嫌な人間だと思った。

 ほかにも頼れる友人は何人かいたが、美鈴はそのままメッセージアプリを閉じた。

 いい加減、棚のあいだをうろつきすぎて、店員にも不審に思われる頃合いだろう。ちょうど目に付いた塩を一キログラムの袋で買い、片腕に抱えてコンビニを出る。

 たかが幽霊、悲鳴を上げる可愛げも持ち合わせていない自分に、何を恐れる必要があるというのか。ちらとしか見なかったが、悪霊という雰囲気でもなかった。きっと実害はない。と思う。


 来るときは必死に走った道のりをのろのろ逆行する。それでもほんの数分の時間稼ぎにしかならず、あっいう間に自宅のマンションに着いた。見上げた学生向け三階建ての外観はいたっていつも通りで、よどんだ空気に覆われているということもない。ところどころ明かりが漏れていて平和そうだ。

 美鈴は鞄と塩の袋をしっかりと抱え、息を止め、足音を殺して自分の部屋の前まで行った。扉の向こうからは何の物音もしない。極力音を出さないように鍵を差し込んで回し、解鍵とほとんど同時にドアを開けて、視線を上げないままもう体が位置を覚えている照明のスイッチを叩く。

 玄関がぱっと明るくなり、ほっと息をついた。

 そして顔を上げて、目があった。

 今夜、二度めのことだった。


「あ、えっと、おかえり……」


 美鈴は腕に抱えていた塩を袋ごと勢いよく投げた。それなりに重い袋は短い廊下を飛び、朝出かけるときに開けっ放しにしていた居室のフローリングに着地して、勢いで少し滑る。

 塩の袋が通り抜けた胴体部分を、半透明の男はあっけに取られたように首を曲げて見下ろしていた。それから後ろを振り返り、自分を通過したものの正体を確かめたようだった。


「…………、塩?」


 幽霊の動作は一昔前のパソコンのようにのんびりしていて、塩がわずかでも効いたようすはない。透けて後ろの居室がうっすら見える頭を幽霊が正面に戻したとき、美鈴の背には悪寒が走った。

 うかつなことをした、と思ったのだ。塩がまったく効かないなら、美鈴にはもうほかに対抗手段がない。それなのに怒らせてしまっていたら、何が起こるかわかったものじゃない。

 息を詰める美鈴の前で、幽霊は腕を持ち上げて、美鈴を指さした。


 いよいよ息が止まるかと思った。


「あの、外に出るときや、帰ってきたときは、すぐに鍵、閉めたほうがいいですよ。チェーンも。危ないよ」


 幽霊が指さしたのは、美鈴の背後だった。動けずにいた美鈴はそのとき初めて幽霊の顔をはっきりと見たが、ぼさぼさの前髪が目の下までを覆っていて、顔立ちははっきりしない。

 でも、どうにものんきで、無害そうな雰囲気だけはよく伝わってきた。

 混乱で固まったままの美鈴に、幽霊はもう一度言った。


「鍵を……」


 どうしても気になるらしい。

 知らないうちにドアにへばりついていた美鈴は、幽霊から目をそらさないまま後ろ手に鍵を回し、幽霊はチェーンと言ったが、実際はU字ロックの金具をかけた。


「よけいなお世話かもしれないけど、世の中何かと物騒だし、女の子のひとり暮らしだと、いろいろ危ないと思って……」


 美鈴は何も言っていないのに、幽霊はやたら申し訳なさそうな空気をかもしだしながらそう言い訳をした。

 確かに、ときどきそういう話は聞くし、大学でも注意喚起の張り紙が掲示板にいつも張り出されて色あせている。

 けれど大学入学時にここに越してきて以来、目の前の幽霊が最も物騒な出来事だ。

 美鈴の内心の悪態が顔に出ていたのか、幽霊は慌てたように半透明の両手を前に突きだし、同じく半透明の頭を横に振った。


「俺は、何もしないです!」


 美鈴の部屋に居ることだけで、じゅうぶん何かしている。物騒度合いで言えば透けていないほうがより物騒なのかもしれないが、透けているからといって良いわけがない。

 やっぱり何も言わないうちから美鈴の心情は伝わるらしく、幽霊は気落ちしていることがあまりにもわかりやすくしょんぼりとうなだれた。


「本当に……何もしないから……」


 力なくうつむいて落ち込む姿は、半透明なおかげで吹けば飛びそうなほど頼りなく見える。本当に吹いて飛んでくれたらいいのだが、そう都合よくはいかないのだろう。それに、あまりひとりで落ち込まれると、どう考えたって被害者は美鈴なのに、まるで美鈴こそ幽霊をいじめているかのようだ。

 そんなわけがない。不法侵入した幽霊を、たとえどれほど罵ったとしても美鈴は悪くない。そのはずが、どうしてわずかでも罪悪感を抱かなければならないのか。

 美鈴は神も仏もそう信じていないので、この理不尽を誰に向かって嘆いたらいいのかわからなかった。

 だがたとえ神や仏を信じていても、この状況に救いの手をさしのべてくれるとも思えなかった。神や仏が本当にいるのなら、こんな幽霊を突然人様の家に突っ込むなどという理不尽はしないはずだ。そんなことをする神や仏は、なおさら信じられない。


「あの……」


 黙って顔をひきつらせたままの美鈴を、幽霊は心もとなそうにじっと見つめてくる。ぼさぼさの前髪に隠れて目は見えないのに、やけに視線を感じた。助けを求めて縋るような視線だったが、もちろん、美鈴にも幽霊に手を差し伸べる余裕はない。

 目の前の怪奇現象だけでいっぱいいっぱいだし、しかもそれが自分の部屋にいるのだから逃げ場もなく、美鈴も心底誰かに助けを求めたかった。

 しかし、自分が誰も頼ることができないのはさっきのコンビニで思い知った。

 動けないまま、幽霊と見つめ合う。


「えっと」


 ひたすら困ったように立ち尽くす幽霊を見ていて、美鈴は何もかもを放り出したくなってきた。

 何だってこんな目に遭うのか。最近、踏んだり蹴ったりで、これ以上のトラブルはいい加減うんざりだ。


「幻覚」

「えっ」

「何の見間違いでしょ、こんなの」


 幻覚だと思いたい。

 幻覚に違いない。

 こんなことがあってたまるか。


 金曜の夜、一週間大学とバイトで過ごして、今日もバイト帰り。おまけにここ最近はいろいろと悩みもあった。

 疲れているのだ。

 幽霊のようなもののひとつやふたつ、見てしまっても仕方がない。


「あ、あの」

「そこ、退いて」

「え?」

「通れないでしょ。退いて」


 塩の袋が通り抜けたからには、美鈴もそのまま通過できるのだろうけれど、さすがに嫌だった。

 投げやりな気分で発した言葉は心の中で思ったよりか細く、こんなときでさえ毅然とした態度を取れない自分に嫌気がさす。それでも、幽霊、のようなもの、は美鈴の言葉でおろおろと周囲を見回し、それから途方に暮れたようにまた美鈴を見た。


「どこに……」


 ひとり暮らしワンルームの狭い廊下である。人がすれ違うには半身になってギリギリで、美鈴の言う『退く』スペースはない。後ろの居室に行ってしまえば廊下は空くが、それは気が引けるのだと、困り果てたような幽霊のようすからありありと伝わってきた。

 人の家に断りもなく突然生えてきておいて、どういう遠慮なのか。そこで遠慮できるなら、最初から生えてこないでいただきたかった。

 美鈴は無言で廊下の壁に並んだふたつの扉を指さした。


「えっと?」

「洗面所とトイレ。どっちでもいいから」


 必要最低限を伝えると、幽霊はそれだけで察したようだった。すぐ隣にあったトイレのドアを開けようとし、むなしくドアノブをすり抜けた手を見下ろして止まる。そして何度か試すようにぱたぱた無駄に肘から先を上下させたあと、いたたまれなさそうに美鈴を振り返った。心なしか、半透明の輪郭が少しばかり萎んで見えた。


「……。ドア、すり抜けられるんじゃない」


 美鈴の指摘に、幽霊ははっとしたふうにドアに向き直り、おっかなびっくり頭から突っ込んでいった。こわごわなのに、最初に手や足ではなく頭からいくんだ、と思って可笑しい気持ちになったが、頬がひきつっただけで、笑うだけの気力はなかった。

 幽霊が視界から消え、見た目には何ら異常のないいつもの自宅が戻ってくる。美鈴はつとめてトイレの中を考えないようにしながら、靴を脱ぎ、何でもないふうを装いつつも心なし早足で廊下を抜けて、居室にたどり着いた。

 明かりをつけ、ドアを閉める。


「……」


 部屋選びのとき鉄筋コンクリにこだわっただけあって、防音性はそこそこ高く、深夜のこの時間はひたすら静かだった。日によってはどこかの部屋で宅飲みをしているようなざわめきが伝わってくることもあるが、今日はそれもない。普段は少しだけ鬱陶しいその騒ぎ声が、今日ばかりはあってほしかった。せっかくの金曜の夜なのになぜ騒がない。

 美鈴はいくらかものぐさだが、それでも普段なら風呂に入らず、まして化粧も落とさずベッドに入るなどありえないのに、この日ばかりは崩れるようにマットレスに落ちた。かろうじてスカートとシャツを脱いだだけでもほめられるべきだ。


 子どものころのように、ベッドの上は護られているのだと自分に言い聞かせ、爪の先もはみ出さないように身を縮める。

 化粧を張り付けたままの頬が枕に擦れる不快さに苛立つ余裕さえなく、頭までブランケットを引っ張り上げて、美鈴は眠りに逃げた。


 否、逃げようとした。


 さっさと寝てしまいたかったのに、気が立っているせいか、眠気はしばらくやって来なかった。つけっぱなしのライトで部屋が明るくても、だからといって気持ちは安らがない。明るいだけで人の気配のない部屋はやけにがらんとしてむなしく感じた。

 人恋しく思うほど、思い浮かぶのは思い出したくない元彼の顔だった。

 べつに、嫌いになったから別れたわけではなかったけれど、後味の悪い終わり方をした。まだひと月も経っていないから、どうしたって気分が沈む。

 もし今ここに彼がいたとしても、もう美鈴は以前のように楽しい気持ちになることはないだろう。それどころか、別れて以来、付き合っていた間に感じていた楽しさもむなしいものだったような気がしている。


『付き合っててもつまんない』


 ならそう思ったときにすぐ言え、と、あとになって美鈴は内心で散々悪態をついた。そして、言われた瞬間にそう反論できなかった悔しさが行き場をなくしたまま今でも美鈴の中にある。

 元彼を思い浮かべると、そういう気持ちも思い出してしまうから嫌なのだ。

 なんだか泣きたい気分になってきた。

 別れたときも、今日まで、べつに泣くほどの気分になったことはなかったのに、無性に涙がこみあげてくる。

 マスカラも落とせていないまつげに涙が絡みついて嫌な重さをまぶたに感じた。このまま涙に滲んで枕カバーまで染みたら嫌だなあ、と思った瞬間、泣きたい気分が吹き飛んだ。


「……あの」


 心臓を吐くかと思った。驚いて思い切り体が震えたから、起きているのはばれただろう。

 身を硬くして、ベッドの上には絶対来られないはず、と心の中でおまじないのように唱えていると、足音も衣擦れの音も何もない沈黙のあと、また小さな声が聞こえた。


「……ごめんなさい。こんなふうに困らせて……」


 美鈴は何も言えなかった。何を言えばいいのかわからなかった。

 幽霊なんて得体の知れないものは、どうしたって怖い。なのに、心底申し訳なさそうな呟きは気遣いを感じさせる優しい音をしていて、逆立った美鈴の心を撫でるかのようだ。


「俺、こんなふうに話しかけないほうがいいのかもしれないって思ったんだけど、泣きそうな顔をさせたのが、どうしても気になって。本当にごめん……。謝っても何もできないけど、でも、ごめんなさい」


 いいよ、なんてとても言えない。本当に困る。謝るくらいなら今すぐに消えてほしい。

 そんなことを思いながらも急に気が抜けて――気づいたら朝だった。

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