さきがけ
零
第1話
「えー…」
目の前に座っている女性記者が言いよどむ。
恐らくは、私に聞きたいことが書き連ねてあるであろう手帳に目を走らせているが、読んではいないようだ。
私の方にちらちらと視線を寄越しながら、機嫌を伺っている。
私は、なんだかおかしくなって小さく笑った。
「どうぞ?別に怒ったりなどしませんよ?」
穏やかにそういうと、若い女性記者はほっと口から息を吐いた。
「このたび、映画化された作品は、先生の自叙伝になるとお聞きしました」
「はい、」
私は頷いた。
「その、」
記者は手をくるくると回して空を見ている。
言葉を選んでいるのだろう。
「原作も、読んでくださった?」
「あ、はい」
私の問いかけに記者はぱっと顔を輝かせた。
「とても、興味深く拝見いたしました。まさに波乱万丈で…」
「そうね。倒産、うつ病、大病、離婚。不幸の見本市みたいよね」
ふふ、と、笑って見せると、記者は困ったような顔をした。
「あの、拝見してからずっと疑問だったんです」
そういって、記者はぱたんと手帳を閉じた。
私は、ああ、と思った。
今までしていた会話は、彼女の本心でもない、ただのビジネスだ。
けれど、ここから先は、彼女は自分の言葉で、自分の本心を語ってくれる。
私もすっと姿勢を正した。
「お聞きしたいわ」
「原作の小説も、そうですが、映画になったらもっと、コメディ色が強く出ていますよね」
「そうね」
私は頷いた。
「何故ですか?」
「何故?」
そう聞き返すと、記者は驚いたように目を見開いた。
「どう考えても、辛いじゃないですか。普通に考えたら、泣かずにはおれません。こんな、」
「ひどい?」
私が言うと、彼女は零れた涙を隠すように目を伏せた。
「そうね。そういってもらえると、今でも救われるわ。当時は私もとてもつらかった。私を地獄に突き落した相手をひどいと思った。遠巻きにして、様子をうかがうだけの人もね。でも、」
私は立ち上がって、大きく腕を広げた。
大好きな空色の、肌触りの良いドレスが、ふわりと私の動きについて来る。
「私は今、こうして生きている。あなたと話して、笑って、今、自分の作品も認められて、ファンの皆さまに愛されて、とても幸せに生きている」
外では、太陽を隠していた雲が割れて、部屋の中にも穏やかな日の光が入ってきた。
まるで、スポットライトのように、私を照らす。
「そのときはね。やっぱりつらい。でも、乗り越えてしまえば、それはいつか、喜劇(コメディ)になるの」
「おばーちゃーん」
背後のドアが急に開いて、3歳になる孫が飛び込んできた。
「あらあら」
私はそれを抱き上げる。
「ごめん、母さん。ちょっと目を離したすきに」
続いて息子も入ってくる。
その後ろには小学生になる孫を連れた娘もいる。
「いいのよ。ちょうどよかった。みんないらっしゃい」
私は部屋に私の家族を誘い入れた。
大きくなった娘に息子。
その子供たち。
そして、本当に私を心から大切に思ってくれる、再婚相手。
本当に思いあって、支えあえる最高の家族を、私は手に入れた。
「ね?『今思えば笑い話』って本当よ。今、私の周りは喜劇だらけなんだもの」
そういって笑うと、記者もようやく笑顔を見せた。
「どんなに辛いことがあっても、乗り越えて、喜劇にしたらいいの。そして、できるの。それを知ってほしくて、信じてほしくて、映画化の時も、監督にお願いしたくらいなのよ」
私は孫を抱えたまま、記者へ歩み寄って腰を落とした。
「あなたも、ね」
私がそういうと、孫がにこにこ笑いながら記者の頬に触れた。
インタビューが始まったときから、彼女に暗い影があることに気づいていた。
彼女自身が、辛い思いをしているか、過去にしたまま、傷が癒えていないのだろう。
そんな彼女も、いつか、その辛さを乗り越えて、笑えるといい。
(私がその先駆け)
この世の地獄を見てから、いつでも、それが私の信条になっている。
さきがけ 零 @reimitsuki
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