第1章―2
「こんなに泥だらけになって、また母さんに怒られるな」
そう言いながらもハルヒコはどこか満足そうな笑顔を浮かべていた。泥だらけの父親の横顔に、シュウもまた自分のことのように誇らしい気持ちになっていた。
二人は麦畑の畦道をのんびり並んで歩いていた。そよ風が気持ちよかった。散歩でもしているかのような気分だった。
ハルヒコがこの開拓地の村長として赴任してきたとき、すでに畑は整然と区画されていた。緩やかに下っていくこの坂道も整備されており、当時からずっと先の林までまっすぐに伸びていた。
区画整理の指揮をとったのはバルトとヤンガス――活力にあふれた壮齢の二人だった。バルトは元大工で、村人達の家を建てる際にもその手腕を余すところなく発揮した。また、土木工事にも精通していた。ヤンガスは故郷で長らく農業に従事してきた。彼の経験に即した知識や技術は村の誰からも頼りにされていた。二人は互いに知恵を出し合い、開拓地のために力を尽くした。村は短期間のうちにその形を整えていった。
「後は任せてください。仕上げは我々でやりますので」
「村長は、せめてその顔についた泥だけでも落としにいってください」
バルトとヤンガスがそう言ってくれている横で、何人かの村人達がすでに作業に取りかかろうとしていた。石材を井戸の中に運び込み、積み上げて壁面が崩れないように補強していく。それもまた大変な作業であったが、待望する井戸の完成がいよいよ見えてきたことで、村人達はみな色めきたっていた。
――お任せします。
素直にそう思えた。村長になって以来、ハルヒコは何にでも率先して取り組んできた。とにかく誰よりも自分が動かなければと半ば脅迫めいた感情に突き動かされてきた。それは自分達がまだこの村の一員に――仲間になれていないとの思いがあったからだ。だが、今日あの穴の底で岩盤を打ち抜いた瞬間、
――ああ、これでやっと村のみんなと本当の仲間になれたかな。
そんな思いを抱くことができた。
「もうすぐ小麦も収穫だね」
麦穂が重たそうな頭を懸命に空に向かって立てている。シュウは黄金色に波打つ畑を眺めていた。
物思いにふけっていたハルヒコは、シュウに声をかけられ、気づいたように顔を上げ畑に目をやった。
「あと少しかな。刈り取って、それから干さないといけないそうだ」
「乾かすんだね」
「そう。その後、脱穀して……。ほら、村の倉庫にくるくる回転しそうな装置があっただろ。あれで脱穀する――らしい」
そう言うと、ハルヒコは少しはにかんだ。
「パパさんも初めてのことだから。もっともっと、いろんなこと教えてもらわないといけないな」
「まだまだ知らないこと、たくさんあるもんね」
それは農作業だけのことではなかった。これまでに自分達の目で見てきた景色の外――世界のことに関しては、何ひとつ確信が持てないものばかりだった。
「収穫のときはシュウも頑張ってくれよ。ママさんもカナも、みんなで刈り取っていくんだ」
「機械があれば楽なのにね」
「機械か……。機械は無理かもしれないけど、刈り取りが楽になる道具とかは考えられるかもしれないな。でも、まずは自分達の手で収穫をやってみないと――。何が大変で、何が必要かも分からないから」
この世界に来て、エンジンらしきものはもちろん、蒸気機関のような装置でさえ一度も目にしたことはなかった。動力といえば村にある水車ぐらい。村人に「じゃあ風車は?」と尋ねてみると、そんなものは見たことも聞いたこともないとのことだった。
「パパさんが前にみんなに作ってあげたソロバンみたいに、こっちには無いものを作って売ったら大金持ちになれるんじゃない」
シュウはいたずらっぽく笑った。
「だったら会社を作らないといけないな。会社の名前はハルヒコ&シュウ――H&S株式会社にするか。まあ、株式なんて仕組みがこっちにあるかは分からないけどな」
「いいね、S&H株式会社」
――さらっと自分の名前を前に持ってきたか……。
だが、あながち冗談で終わってしまう思いつきではないかもしれない。ハルヒコは村の子ども達に計算を教えるため、ありあわせの材料でソロバンを作った。林にたくさん落ちている硬い殻の実に穴を開け、そこに麻紐を通して木枠に固定する。そんな本物のソロバンとは似ても似つかぬ代物ではあったが、村の子どもだけでなく大人達にも好評だったのだ。
試行錯誤を重ね、いつかは蒸気機関を作り上げることも夢物語ではないと思う。この世界でも植物油や動物性脂肪などが食用や燃料・産業などに幅広く利用されている。石炭や石油はまだ実際に目にしたことはないが、風の噂では燃える石や水があると耳にしたことがある。鉄をはじめ主要な金属もこの世界に存在し、人々の生活の中で充分に活用されている。金属を加工する技術も――溶けた金属を型に流し込む鋳造こそまだ確認できていないものの――金属を叩いて成形する鍛造によっていろいろなものが製造されている。近しいところでは村の畑を耕すクワやスキ、作物を収穫するカマなどの農具。家の扉や開き窓に用いられる蝶番。そして、今まさにシュウが重たそうに背負っている荷物の中にも、金属を加工してできた「それ」はあった……。
「なあ、シュウ。それ重くないか。持ってやろうか」
「いいよいいよ。こうやって体も鍛えないといけないんだ。まだまだ振り回されてるって感じだから」
「王子様もシュウと同じぐらいの体つきだろ。王子様はどうなんだ?」
「同じように見えても、クイール王子は全然体がぶれないんだ。やっぱり経験者は違うよ。あっちは子どもの頃からやってるんだから」
――お前もまだまだ子どもだろ……。
そう思いつつ――いや、そう思ったからこそ、成り行きとはいえ、こんなものを振り回さなければならなくなった息子に申し訳ないと感じてしまう。そして、シュウの未来に待ち受ける不吉な予感もぬぐい去れない。
「それは子ども用なのか?」
「ううん、子ども用なんてものはないんだって。これもれっきとした大人が使うものらしいよ。用途によって長さが違うんだ。これは短い方らしい」
ふーんと、ハルヒコは努めて感情を表に出さないようにシュウの説明を聞いていた。
――用途って何だよ……。
そんなものを、これから本当に使うことがあるっていうのか。
「短いからさ、みんな短剣って呼んでるよ。充分長くて、重いと思うんだけどなあ」
人は知恵の実を食べたときから、何か新しい知識や技術を手に入れると必ずそれを使ってみたくて仕方がないのだろう。人の生存本能がそうさせるのか、それとも抑えきれない欲望がそうさせてしまうのか。――人の歴史は武器の歴史でもあった。
ハルヒコは次に語るべき言葉を見つけることができなかった。
突然、無口になった父親の横顔をシュウはちらっとうかがった。
父の眼差しはどこか遠くをまっすぐに見すえていた。
それ以上シュウは父親には話しかけず、二人とも無言のまま、しばらく麦畑に挟まれた畦道を進んでいった。
穏やかな風が吹いていた。黄金色の麦畑にさざ波が立っていた。
時間を持て余していたシュウは、なんとなくそのさざ波を目で追いかけていた。――と、ふっと麦畑を渡っていく波が途切れた。その先には鮮やかな緑葉に覆われた畑が一面に広がっていた。
「あの畑も、ずいぶんと育ってきたね」
声をかけてから、あっとシュウは思ったが、振り向いたハルヒコの表情は、いつもの穏やかな父親の笑顔だった。
「小麦が終わったら、次はタバコの葉を収穫するんだ」
「パパさん、タバコなんて吸わないよね。体に悪いんでしょ」
「ああ、パパさんは吸わないけど、好きな人は結構いるみたいだね。こっちの世界にも」
「タバコなんかより、もっと他のものをつくればいいのに」
ハルヒコはうんうんと肯いた。
「そうだよね。でも、タバコは結構いい値で売れるそうなんだ」
「……お金ないの?」
シュウが少し心配そうな顔になったので、ハルヒコは慌てて答えた。
「大丈夫、大丈夫。――まあ、お金が無いのは本当だけどな。村のみんなもお金は持ってないし」
安心させるつもりが余計に不安をあおった気がして、ハルヒコは急いで付け加えた。
「いやいや、そうじゃなくて――。ほら、食べるものは今のところ問題ないだろ。食べ物がなくて、いつもお腹が空いてるってことはないよね」
ハルヒコは確認するようにシュウの顔をのぞいた。
――まさか気づいてないだけで、本当は食事が足りてないなんてことはないよな……。
「村のみんなも食べるものは大丈夫なんだ。村で穫れるもので充分まかなえられるからね。でも、お金で買わないといけないものも少しはあるんだよ。砂糖とか塩とか――。あ、塩はそのうち、村でも作ろうと思ってるけどね。それに服とか――こっちの人は自分達で縫って作ることの方が多いらしいから、そのための生地とか。お鍋みたいな金物とかもそうだな」
「畑で使う器具とかも?」
「そうそう、柄の部分はこっちでなんとかできるけど、金属のところは村では作れないからね。――結局、村で作れないものは買わないといけないんだよ」
「だから、お金がいる?」
「そう。収穫した小麦の一部は国に納めて、残りをみんなで分けるんだけど――。そこそこ余るんだそうだ。で、それを売ってもいいんだけど、小麦はみんなが作っているからそんなに高値では買ってもらえないらしい」
だから、ヤンガスら農業に詳しい者達から情報を収集してタバコの栽培を決断した。国に納める小麦の量は村全体の耕地面積による。そこから逆算し村人達の食料をしっかりと確保した上で、小麦畑の一部をタバコや薬草――商品価値の高い作物の栽培に置き換えていった。
――これで、みんなの生活もずいぶんと楽になるはずだけど。
「タバコを収穫したら、首都のリュッセルまでに売りにいく予定なんだ」
シュウの目が輝くのをハルヒコは見逃さなかった。
「シュウも、もちろん一緒に行くだろ。この国で一番大きな都市、見にいってみような」
そう言いながら、誰よりもわくわくしている自分に、ハルヒコは苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
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