第1章―1

 シュウは重たい荷物を抱え街道を歩いていた。ゆるやかに下っていく街道。石材で舗装されていないとはいえ、しっかりと地面は踏み固められ、つまずいてしまうような石ころも一つとして転がってはいない。

 綿をほぐしたような薄雲もまばらに、空の青さが遠い。日はもうすぐ天頂にさしかかろうとしていた。

 おだやかな風に吹かれ道端の草花がなびいている。空気を深く吸い込むと、淡緑の匂いが濃くなったような気がした。毎日のように強くなる日差しに、この辺りもやがてむせかえるほどの濃密な草いきれで満たされていくことになるだろう。

 春から夏へ季節が移っていこうとしていた。シュウが元いた世界と同じように――。

 下っていく街道からは、右手に広がる深い森をのぞき、一面の田園風景が彼方まで望めた。左手には収穫を待つばかりの小麦畑が広がり、豊かに実った麦穂が天に向かって精一杯に背をのばしていた。畑は海に臨む断崖絶壁まで続き、その先には大洋のきらめきが微かに見え隠れしていた。もうすでに村の中ほどまで戻ってきているはずだった。

 ――ん……?

 街道から村に入っていく道の先、子どもから大人まで混じった人垣が何かをとり巻いていた。

 ――あそこは、確か……。

 家に帰るには街道をそのまま下っていかなければならない。だが、予感があった。その人の輪の中にシュウのよく知る人物がいるような気がして、彼は街道をはずれ村の中心部へと向かっていった。

 その道は馬車が通れるように幅広くつくられていたが、整備された街道とは比べるべくもなく、地面のでこぼこやぬかるみに何度も足を取られそうになった。

 人垣に近づくにつれ、ガツーン、ガツーンと何か硬い物どうしがぶつかり合う音が聞こえてきた。

「こんにちは、バルトさん」

 よく見知った村人にシュウが話しかけた。

「ああ、シュウちゃん。おかえり」

 白髪混じりの短髪の男性がふり向いた。淡々とした雰囲気で、いかにも昔かたぎの職人といった人物だった。

 普段あまり感情を表に出さないバルトだったが、そのときはわずかに汗ばんで興奮した様子を隠せずにいた。

 ――こんなバルトさんも、めずらしいな……。

 シュウは人々の輪の中で起こっていることを察した。

「パパさん、中にいるの? もしかして、朝からずっと掘り続けてるの?」

 バルトは苦笑いをしながら道を開けてくれた。人々が取り巻く真ん中には、大人ふたりがなんとか入れそうな穴が地面にぽっかりと開いていた。

「俺らがどんなに言っても交代しようとしてくれなくてね。そう、朝からずっと一人で掘り続けてるよ」

「じゃあ、いよいよなんだね」

「ああ、もうすぐだ」

 シュウは穴に近づいて中を覗きこんだ。天頂に差し掛かった日のおかげで、かろうじて穴底をうかがうことができた。地面の底では、埃でできたような人影が懸命に何かを振り下ろしているようだった。

「パパさん!」

 ガツーンという硬質な音が止んだ。

「おう。おかえり」

 シュウは次の言葉を待った。だが、返事はその一声だけで、穴底からはふたたび硬いものを叩きつける音が響き始めた。


 地面の底に外からの光は届いていなかった。大人の背丈よりも頭ふたつ分上の壁を照らすのが精一杯だった。日がもっとも高く上る正午になろうとしているのに、こんな調子だ。穴を掘り始めた朝は足元を手で探りながら作業するしかなかった。

 ――でも、だからこそ、あの音がはっきりと聞こえたんだろう。

 頭上の壁で反射されたおぼろげな間接光の中、舞い上がった塵が小さな光の粒子となって男性の周囲を漂っていた。泥にまみれたその姿は、影よりも濃い闇が地の底でうごめいているかのように見えた。だが、宙に揺れる双眸だけは光を失わず鋭く輝いていた。

「村長、そろそろ代わりましょう。ひとりで無理しないでください」

 そんなふうに声をかけられたのは、いったい何度目だろう。それでも手を止めたくない理由があった。他の誰かではなく、自分自身の手でどうしても成しとげたい強い思いがあった。

「ありがとう。でも、もう少しやらせてくれないか」

 ――わがままかもしれないけど……。

 もう少しで手が届きそうなんだ。

 村長と呼ばれた男性――ハルヒコは、高く振り上げたツルハシを力の限り地面に叩きつけた。

 村人総出で行う早朝の農作業が終わった後、手のあいた男衆はいつものように井戸掘りの作業に取りかかった。村にとって念願のこの事業は――しかし、皆の期待に反して一向に進まず、ただ時間だけがいたずらに過ぎていくばかりだった。決して当初から楽観的な予想をしていたわけではない。それでも、経験者でさえも戸惑ってしまう困難がいくつも待ち構えていたのだった。

 掘り始めは順調だった。地面もやわらかく、村人達も率先してスコップを振るった。毎日のように皆が代わるがわる掘り続けていき、やがて村に元々あった一つ目の井戸の深さを越えた。さらに掘り進めていくと硬い岩盤にぶち当たった。だが、この計画を立てた段階でそれらの問題はすべて予想されていたことだった。

 この開拓地に掘られた最初の井戸は村の最南端、最も低い土地に掘られた。なぜそんな不便な場所に井戸を整備しなければならなかったのか。それは村の代表者である村長の家がそこにあったからだ。馬鹿げた理由だったが、ハルヒコの前任――元村長は、街道沿いの村の玄関口といっていいその場所に居を構えると譲らなかった。

「街道の衛兵所から離れたくなかったのさ」

 そんな噂が流れた。何かがあったときに、すぐ助けてもらえるようにと――。

 村人との信頼関係を築けない、築こうとしない。身分の違いがそうさせたのかもしれないが、この村の指導者を拝命してよりずっと不安がぬぐえなかったと見える。前村長は地方貴族の末弟だった。

 そんな訳でこの開拓地の最も低い場所に井戸は掘られることになった。そのときの経験があったから、高い土地に井戸を整備する今回の作業では、より深く掘り進めなければならないし、硬い岩盤が待ち構えていることも予測の範囲内だった。だが、どんなにツルハシを振り下ろしても、その最後の岩盤を貫くことはかなわなかった。岩盤はあまりに堅固で、そして厚かった。

 渾身の力でツルハシを叩きつける。カチンと乾いた硬質な音を上げ鋼の先端がはね返される。込めた力は柄を握った手にそのまま戻ってくる。指がしびれて、すぐにツルハシを取り落してしまう。闇に沈む井戸の底では、その岩盤に傷のひとつでも穿っているのかさえ見当もつかない。一日の作業で削った土砂を集めるとバケツ一杯にも満たない日もあった。不安と焦りばかりが日に日に膨らんでいき、この岩盤を貫くことができるのか、ここに本当に井戸ができるのか、村人たちの疑念は募っていく一方だった。だから、一人、また一人と、みんなの足が遠のいていったとしても仕方のないことだった。

 バルトを含む数名とハルヒコだけが最後に残った。感情をあまり表に出さないバルトでさえ悪態をつきながらツルハシを振るった。だが、ハルヒコの胸を痛めていたのは怒りでも恨みでもなかった。底冷えのする暗い闇の中、ひっそりと浸透してくる寂しさに自分の心が凍えていっているのが分かった。

 ――みんな、あきらめてしまったんだろうか……。

 村人たちは、すぐ目の前のことしか見ようとしないんだろうか……。

 未来ばかりを夢見て人は生きてはいけない。だから、そのことを非難することはできないし、非難してはならないと思う。

 ハルヒコ達はツルハシを振るい続けた。そして、今朝――それはいつもとは違う感触だった。どうしてツルハシが弾かれないのだろうと、最初は不可解に思ったくらいだ。だが、徐々にその感触の意味を理性が冷静に把握していくにつれ、ハルヒコの体は小刻みに震えていった。

 ハルヒコの放った一撃はついにその岩盤を貫いた。目の前に立ちはだかっていた大きな壁がガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。そこから一条の光が差し込んでくるような気がした。

 ――聞こえる……。

 音が聞こえた――。何かが足元の岩を伝わっていく微かな音。

 ハルヒコはツルハシが穿った辺りを手で探った。

 地面は湿っていた。指先は濡れていた。

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