異世界家族 パパと僕、ときどき、ママ、わたし

芝大樹

序章

 その日の夜空は雲ひとつなく、数多の星々が静かにささやくように瞬いていました。

 後の世に裁かれ、歴史に刻まれるであろう、この日の悲劇を見逃すまいと、天の神々は恥ずかしげもなく地上を見下ろしているのでした。

 ――どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 この世界に落とされた僕たち家族は、傍観者でいることを許されませんでした。誰かに望みを聞かれることもなく――当事者として、この世界と向き合わされることになったのです。


 夜空を背景に、小高い丘の上にその二人は立っていた。青年は麓から、彼らを静かに見上げていた。

 夜明けが近い。東の稜線はほのかに紫がかった光で縁取られようとしていた。それでも西の空に目をやると、漆黒の天蓋にはまだ無数の星がきらめき、宇宙を渡る光の大河が夜を埋めていた。

 青年は美しいなと思った。世界はこんなにも輝いて、掛け値なしに美しいなと思った。そして、静かだなと思った。静謐な空気の底に世界は沈んで、とても静かだなと思った。

 青年は背後を振り返った。美しく静けさの淵に眠る世界。ああ、それは幻想なんだなと打ちのめされる。自分の甘さ、心の弱さに嫌気がさす。

 振り向いた先には、見渡す限りの大地を埋める数千の兵士。息を殺し、彼らもまた、青年がそうしていたように、丘の上に立つ二人の人物を凝視していた。

 闇の中に鈍く光をたたえた幾千の双眸は、不思議と頭上でまたたく星空がこの地上にまで続いているかのようにも見えて、凍える宇宙の中で、この丘だけがポツンと浮かんで取り残されているような、そんな錯覚を抱かせた。

 ――もしそうだったなら、どんなに幸せだったろう。父さんと彼と、昔のように……。

 大地にひかえる兵士の手には、剣や槍、弓矢といった殺戮の武器が固く握りしめられていた。命を奪う道具をたずさえ、彼らは静かにその時を待っていた。

 ――どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 青年はもう一度そう思わずにはいられなかった。そして、丘の上にたたずむ二人の姿をふたたび見上げた。


「もう準備は整っています。あとはあなたのお心次第。よくよくお考えください」

 中年の男性――といっても見た目にはまだ若さの残る人物が、かたわらに立つ青年に声をかけた。返事はなかった。

 丘から二人は同じ景色を眺めていた。夜明け前の幻想的な光が東の空を照らしだそうとしている。それに追いやられるかのように、満天の星々が西の空へと後退していく。丘から見下ろすと、そこには草原が大海原のように彼方まで広がっていた。風はそよとも吹かず、草花はまだ深い眠りの庭でまどろんでいるようだった。

 男性はその草原のたどり着く先を見すえていた。物言わず、青年も同じものを眺めているに違いなかった。

 ――よりにもよって、なぜ、ここに……。

 事の始まりとなった場所――多くの不幸を生み出すこととなった、発端の場所――そこに、すべてを終わらせようと皆が戻ってきている。

 皮肉なものだなと、男性は思った。

 草原の大海が水平線にのみ込まれるその場所。薄闇の中、山と見紛う巨大な城塞都市が、そこにひっそりと鎮座していた。高く堅牢な城壁に囲まれ、その中央にはひときわ巨大な城がそびえ立っている。山を丸ごとのみ込んでできたその都市は、町というよりも国そのものであった。

 まだ夜明け前にもかかわらず、町のそこかしこに灯がともり、炊き出しの煙がいく筋も上がり揺らめいている。そこに住む人々は、いつもと変わらない日常が始まることを疑ってもいない。

「あの町には、十万の兵が駐留しています」

 そんなことは隣の青年だけでなく、後ろにひかえる兵士たち全員の知るところだった。だが、何度でも確認しなければならない。今この瞬間にも、青年の気持ちが揺らぐとも限らないからだ。いや、そもそも青年の決断をまだ聞いたわけではない。それなのに、何かに追われるようにして、こんなところまで来てしまった。もはや引き返すこともかなわない断崖の上で、自分の順番が来るのをただ待っているかのように――。

「そして、その何倍もの市民が、あそこで生活をしています」

 そこまで言って男性は気づいた。自分は青年に話しているのではなく、自身を納得させるために語りかけていることを。これから起こる悲劇をもはや回避できるとは思っていないことを。

 この呪われた重責から逃げ出すことなどできない。それは、かつてこの青年に立てた自らの誓いがあるからだ。自分と家族、青年の命、それらを賭して、この地を逃げ回ったあの日々。互いの命を支えあった逃避行の最中、彼は間違いなく自分の息子であり、家族の一員であった。この青年を守ると誓った。この青年が望むなら、どんなことでもかなえようと誓った。たとえ、それが許されざる大罪を犯すことになったとしても。

 ――だからこそ、分かってほしかった……。

 自分の息子ならば、父親だというのなら、止めなくてはならない。それが、血の繋がりのなせる業だ。だが、彼とはその血の繋がりがない。だから、止めることができない。どんなことをしてでも止めなければならないのに、それができない。そして、血の繋がりはなくとも、心は繋がっていると思っていた。分かってもらえると信じていた。だからこそ、こんなにも寂しい気持ちになってしまうのだ。

 青年は静かにこの美しい世界を見つめていた。誰よりも優しい眼差しで。

 青年はこの世界を愛していた。人々を愛していた。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。

 風がそよと吹いた。草原に波が渡っていく。丘の上にたたずむ二人のほおを、風が優しくなでていった。

 そのとき、青年がつぶやいた――。

 かすかな風音にもかき消されるような声だった。しかし、男性の耳にはしっかりとその言葉が届いていた。

「やってください……」

 青年は顔色も変えず、男性の方に振り向くこともなく、ただ町の方をじっと見つめ――そうつぶやいた。

 男性はもう何も言わなかった。


 丘の上から男性が振り返った。麓にいた青年は、彼が自分に向けてふっと微笑んだような気がした。

 ――父さん。もう後戻りはできないんだね……。

 男性は決して自分に手伝わせようとはしなかった。ひとりで罪を背負う覚悟だった。

 罪――それは後世まで語り継がれる、歴史からも決して忘れられることのない大罪であった。

 男性は――すなわち青年の父親は、その未来永劫まで続く呪いを一身に受けるつもりであった。

 ――たとえ、この先どんなことが起ころうとも、誰が何と言おうとも……。

 僕は父さんと、どこまでも行くよ。

 青年の父親はふたたび町の方へと振り向いた。そして、静かに両手を目の前にかざした。

 ――空が落ちてくる……。

 青年のほおを、ひとすじの雫がつたわっていった。

 涙の理由を、青年は自身でも説明することができなかった。それほどいろいろな出来事が――それは決して悲劇ばかりではなかったが――この世界にやって来た自分たちの回りを、早馬のごとく駆け抜けていったのだ。

 自分たち家族は、この怒濤の時代の流れに、一介の客人としてではなく、当事者として翻弄されることになってしまった。


 男性は手を目の前にかざし、ささやくように呪文を唱えはじめた。呪文はこの世界の理を、今一度意識するための案内役でしかない。世界の理を行使するのは、イメージの力なのだ。

 男性の目の前には漆黒の宇宙が広がっていた。その暗黒を背にして、青い惑星と銀色の月が、音もなく真空の海に浮かんでいた。惑星は地球と同じく雲の薄衣をまとっていたが、その切れ目から見え隠れする大地は、地球儀で見慣れた大陸の姿とは似ても似つかないものだった。

 一見、この光景が、自分の足で踏みしめた大地の真の姿であるかのように錯覚してしまう。だが、それはやはりイメージでしかない。もしかすると、この世界は古代に信じられていたような平面世界である可能性も捨てきれないのだ。

 しかし、確認できなくとも、真実がどうであったとしても、このイメージによって行使するのだ。――禁忌の理を。

 男性の眼前に圧倒的な存在感でせまる惑星は、月だけでなく無数の小惑星をしたがえていた。ラグランジュポイントと呼ばれる、天体の重力によって物体が安定してとどまることのできる、宇宙の窪地。そこに、大小さまざまな小惑星が、互いを牽制しながらじっと息をひそめ滞留していた。

 男性は、事前にそのラグランジュポイントから衛星軌道へと引き寄せていた巨大な岩塊へと手を伸ばした――。

 つかんだ感触があった。

 もちろん、それは手のひらに収まるような石ころであるはずがない。直径は百メートルを優に越える。だが、その巨大な岩塊は、今まさに自らの手の中にあった。そのことに疑いの余地はなかった。

 男性は、ふーっと細く長い息をはいた。まるで、胸に宿る自分の魂をしぼり出しているかのように。

 ――もう、戻れない……。

 覚悟はしていた。ずっと前から。それでも――。

 寂しいなと最後にふと思った。

 その刹那、不意に心の扉が音もなく閉じられていった。何ひとつ納得などおとずれず、自分の心を釈明する機会も与えられず――。

 あれほど荒れ狂っていた嵐はどこかへと去っていた。世界は水面鏡のごとく静まり返っていった。

 もう感情が揺れることもなくなっていた。特別な思いを抱くこともなくなっていた。

 男性は、衛星軌道上にある岩塊を、そうっと押した。力を込める必要などない。やさしく、やさしく――。岩塊を適切な方向へとうながしていく。

 衛星軌道を外れた岩塊は少しずつ惑星の重力に引かれていった。最初の歩みは、あたかも間違い探しをしているかのごとき、わずかな変化でしかなかった。にもかかわらず、そのときにはもう、その遅歩を阻むことなどかなわない、圧倒的な重圧が真空の海へと漕ぎ出してしまっていたのだ。

 早歩きから駆け足へ、やがて疾駆する早馬のごとく。そして――。ついには、時速数百キロメートルに達する。もはや、誰にも、どうすることもできない。男性にでさえ、あとは傍観することしかかなわない。

 衛星軌道からそっと岩塊を押した――その瞬間から、これから起こる破滅と悲劇は定まってしまっていたのだ。

 岩塊は速度を増していくごとに表面が引き裂かれていく。数メートルはあろうかという石塊が無数にはがされ、宙に散らばっていく。だが、岩塊にしてみれば、表面の薄皮がむけていっているようなものでしかない。

 さらに速さを増し、大気圏に到達する頃になると、岩塊の先端は空気の断熱圧縮により赤く輝きだす。灼熱の業火につつまれていく。

 地上の人々は茫然と立ちつくし、自らの無力を憐れまずにはいられなかった。

 大地を揺るがす轟音。天から落とされた地獄の業火。それらが、世界のすみずみまでを埋めつくしていく。

 運動する物体のエネルギーは、物体の質量と速度の二乗に比例する。今、そのエネルギーを内に宿した、人の手には持て余すしかない理の力が、大地を貫いた――。


 人々はそれを、魔法と呼んだ。

 その日、この世界の地図から、ひとつの国の名が消滅した。

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