第1章―3

 シュウはハルヒコと別れ、自宅に戻ってきた。

「悪いけど、着替えと石ケンを家から取ってきてくれないかな」

 林を抜けた先にある川に水浴びをしにいくと、ハルヒコは木立の間に自然とできた道を行ってしまった。

 ――汚れた服を、ママさんに見せたくないんだな……。

 ハルヒコと別れた場所から家までは歩いて数分とかからない。さらに言えば、まっすぐに伸びた道の先に、我が家はすでに見えていたのだ。

 家は大人の腰ほどの高さの石塀に囲まれていた。形の整っていない薄い石材を積み上げてできた塀は、まだ年月を経てないこともあり、どこにも苔などが生えている様子はなかった。シュウは裏門に当たる扉を開けて庭に足を踏み入れた。

「あ、シュウちゃん」

 庭の花壇にしゃがんでいた少女が顔を上げた。

「ただいま」

「おかえり――」

 そう言うと、もうシュウのことなど興味を失ったかのように少女はうつむき、ぼそぼそとまた花壇に向かって何かをつぶやきだした。

「何してるの、カナ?」

 妹のカナの手元には、父が作った木彫りの人形や動物が並べられていた。どれも随分とデフォルメされた可愛らしいものばかりだった。お世辞にも上手くできているとは言い難かったが、そのささやかなおもちゃをハルヒコは指に何度も傷をつけながら作り上げたのだった。

「ん……、おままごと――」

 少し待ったが、それ以上の返事はもう期待できそうになかった。

 黙々と一人遊びをする妹をそのままにして、シュウは母屋に向かって歩き出した。

 庭には裏門近くに鶏小屋があった。昼間その扉は開け放たれ、数羽のニワトリが我が物顔で庭を闊歩していた。中には土を掘り起こしてミミズをついばんでいるものもいた。

 塀の表門に近い側には広めの家庭菜園があった。トマトやピーマンなど、元いた世界のスーパーで陳列されていた野菜ならほとんどがそろっていた。よく熟したトマトを二つ、シュウは手際よくもぎ取った。

「ただいま」

 母屋の扉を開けると、テーブルに顔を伏せていた女性がゆっくりと上体を起こした。テーブルの上には布地が広げられ、かたわらに針や糸、はさみなどが乱雑に置かれていた。女性は縫い物をしている途中で睡魔に襲われたようだった。

「おかえりなさい。早かったのね」

 シュウは扉のすぐ脇にある作り付けの棚にそっと荷物を置いた。カチャと剣が小さく音を立てた。シュウはその音に気づかぬ素振りでモルタルの流し台に向かい、木製のお盆に載った陶器のコップを手に取った。蛇口があれば栓をひねるだけで水を注げるのだろうが、少なくともこの村のどこの家にもそんなものは存在しない。シュウはお盆に一緒に置かれていた水差しからコップに水を注ぎ一気に飲み干した。爽やかな香りをまとった液体が心地良く喉を潤していく。乾いた体にじんわりと染み渡っていくのが感じられた。水差しにはアクリアという名の香草が浸されていた。

 ハーブには詳しくなかったので、みんながアクリアと呼んでいるこの香草も、もしかすると違う名前で元の世界に存在していたのかもしれない。だが、シュウ達家族の誰もがこのような効能を持つハーブを見聞きしたことはなかった。そのため、元の世界になかった、あるいはあったとしても知らなかった物事に関しては、こちらの世界で呼ばれている名称のままで覚えていくしかなかった。それにシュウ達がトマトやピーマンとして認識している野菜なども、実は微妙に姿形や味などがズレていた。それらは、こちらの言葉ではもちろん違う発音で呼ばれていたが、自分達の中に蓄えられてきた知識や経験に類似したものがあれば――おそらく脳が情報量を抑え整理していくために――自動的にそれらを紐づけ、無意識に元の世界の事物と同じ概念としてシュウ達は理解していた。

 こちらの世界で安全な浄水は湧き水や井戸水だったが、それでも汲み置きしている間に傷んでくる。このアクリアを浸しておくことで水は長持ちし、また非常時ではあるが飲料に適さない河川の水などを加熱せずに飲むときなどにも利用された。おそらく殺菌作用の成分を含んでいるのだろうが、この世界で暮らす人々がそんなことを知っているはずもない。ただ先人の経験から連綿と伝え聞かせられてきた、この世界ではごく一般的な生活の知恵であった。

「今日はお城で何かあるみたいだったよ。ちょっと勉強したら、それで終わりになったんだ。だから、乗合馬車の時間にも合わなくて――」

 結局、歩いて帰ってきたんだと、シュウは伝えた。

「お城から?」

「たぶん一、二時間ぐらいのもんじゃないかな。時計がないから分からないけどさ」

 シュウは小学校の遠足で歩いたときの時間と距離の感覚から、それぐらいの時間だと推測していた。早歩きで帰ってきたので、遠足のときよりも長い距離を歩いているはずだった。

「お昼はまだよね。ごめんね、ママ寝てたみたいで、お昼の用意をまだしてないの。急いで何か作るから、ちょっと待っててね」

 そう言うと女性は立ち上がり、シュウの立つ流し台横の戸棚に手をかけた。

母の名はトウコといった。父親のハルヒコと同じく、その容姿は同年代の女性と比べるとずいぶんと若く見られた。

「ママさん、別に急がなくてもいいよ。パパさんに石ケンと着替えを持ってきてって頼まれてるんだ」

「パパ、まだ井戸のところにいるの?」

「ううん……。あ、そうだ! ママさん。井戸の水、出たんだって」

 シュウは井戸の周りを取り巻いていた村人達の熱気を思い出し、まるで自分のことのように興奮した口調でそのときの様子を話し出した。

「あら、そう。よかったわ。ずいぶん長くかかっていたものね」

「パパさん、川に行って体を洗うって。服も泥だらけだったから、ついでにそれも洗おうと思ってるんじゃないかな」

 言ってしまってから、シュウはしまったと思った。むすっと母親が表情を変えるじゃないかと、顔色をこっそりとうかがった。

「洗濯もしてくれるなら大助かりだわ」

 にっこり微笑むと、トウコはしゃがんで棚の下の段から石ケンを取り出した。

「井戸ばっかりじゃなくて、元の世界に帰ることももっと頑張ってくれたらいいのにね」

 そう小さく呟くと、トウコは奥の部屋へと向かっていった。

 シュウはもう一杯コップに水を注いだ。水差しが空になり最後の一滴がコップに落ちる。水面にささやかな波紋が広がった。

 シュウは流し台近くの床に置かれた大きな陶器製の容器のふたを開けた。中には汲み置きの水が溜められていた。容器の底にはアクリアのハーブが沈められていた。シュウはひしゃくを使って水差しに水を満たしていった。

 母が戻ってくるのを待つ間、シュウはコップの水を少しずつ口に含みながら今いる部屋を何ともなしに眺め回した。

 ずいぶんとひかえめな生活になってしまったと思う。

 玄関を入ってすぐのこの部屋はいわゆるリビング・ダイニング・キッチンに相当する。とは言うもののテレビなどあるはずもなく、食事をしながらその日にあったささやかな出来事を報告しあうことぐらいしか団らんと呼べるようなものはなかった。

 唯一の救いといえば、ハルヒコやシュウの立場のおかげで城から本を借りてこられることぐらいだった。歴史や地政学などこの世界の知識を蓄えていくのに有用な本はもちろん、伝記や英雄譚などの読み物、そして絵がふんだんに載った絵本など、様々な種類の書物が城にはそろっていた。それ以外の娯楽が限られているということもあったが、妹のカナも借りてくる絵本をいつも楽しみに待っていた。だが、そんな限られた娯楽であっても、夜遅くまで本を読み続けることはできない。ランプに使う油も限られていたからだ。

 台所も質素なものだった。もちろん、こちらの世界では一般的なものであったが、水道などあるはずもない。流し台で使われた水は地面に掘られた溝を通って外にある排水溜めに流れていく。煮炊きはガスではなく耐熱レンガでできた、かまどで行う。かまどの火口は二つ。パンなどを焼くためのオーブンもあった。煙突によって家の外に排煙されるので、煙に悩まされることもほぼなかった。また、冬になればこのかまどは部屋を暖める暖炉代わりにもなった。

 部屋は決して手狭ではなかったが、最初に抱いていた村長の家というイメージからは少し肩すかしをくらったというのが本音だった。だが村人達が暮らす家はもっと質素なものだったので、自分達が恵まれた環境にいることはシュウにも理解できた。こんなふうに感じてしまうのは、元いた世界の生活にまだ未練が残っているからなのかもしれない。それに、この世界で初めて生活した場所が城であったことや、今も足しげくその城を訪れていることも一因なのかもしれなかった。

 家には他に二部屋あった。一つは今、母が父親の着替えを取りにいっている寝室で、大人二人が並んで寝られるベッドが二台置かれていた。木製のベッドフレームの底板には皮紐が縦横に張られ、その上に羽毛を詰め込んだマットレスが載っている。柔らかすぎて最初は戸惑ったが、慣れてくると心地良く眠れるようになった。ベッドに関しては、この世界のものでも違和感なく使うことができた。後になって分かったことだが、このベッドは庶民には手の届かない高級品だった。一般的な人々は藁を詰めたマットレスを利用していたし、さらにそのようなマットレスでさえ手の届かない人々は藁の上に直接シーツを敷いて眠っていた。

 ――幸せとか、恵まれているとか、比べるものがあるから分かるのかな。

 ああ、でも幸せは違うか……。

 もう一部屋はこの家でもっとも大きな部屋だった。本来ならここが村長の居室になるべき部屋だった。元々この家は一時的に建てられたもので、村の発展とともに立派な屋敷が建築される予定であった。元村長は地方貴族の末弟でまだ独り身であったため、とりあえずこの仮住まいの家が用意されたのである。シュウ達が使っている台所や寝室は使用人のためのもので、元村長はこの大きな部屋を寝室兼書斎として利用していた。また外への出入りができる大仰な扉も設けられていた。

 今は机やソファ、ベッドなどの家具は運び出されており、貴族の子弟が生活していた当時の面影はない。殺風景な部屋の中央には十名近くが一斉に作業できる幅広の簡素な机と椅子が置かれており、壁には後からしつらえた棚が一面に並んでいた。ハルヒコはこの部屋を村の集会所として開放していた。村のみんなと相談したり祭りの際に会食したり、また女性陣が集まってお菓子を作ったり裁縫を教えあったり、そんなふうに村人達が自由に談笑しあえる場所にしたいと夢をふくらませていた。それとハルヒコが抱いていたもう一つの夢は、この場所を子ども達が自由に学べる学校や図書館にすることだった。棚にはまだ一冊の本もなかったが、タバコや薬草をリュッセルの町に卸しにいったその足で、子ども達が楽しく読めそうな本を何冊か買ってこようと考えていた。この世界では本も庶民には簡単に手に入る代物ではなかったのだ。

「シュウ。じゃあ、これをパパに持っていってくれる」

 トウコが寝室からハルヒコの着替えとタオルを持ってきた。シュウはそれを受け取り、その上に石ケンと庭でもぎ取ったトマトをのせた。

「じゃあ、行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。帰ってくる頃にはお昼ご飯、用意できているから」

「うん。でも急がないでいいよ。のんびり行ってくる」

 そう言うとシュウは玄関の方に向かった。

「カナは庭にいるのかしら?」

 トウコはシュウを呼び止めるように問いかけた。

「うん、いつものように一人で遊んでるよ。お人形さん相手にいっぱいおしゃべりしてる」

 ハルヒコが村の子ども達に文字や計算を教える日には、その勉強が終わった後、カナは村の子ども達と一緒によく遊んでいる。しかし、普段はカナと同じくらいの年齢の子ども達には仕事があり、シュウがいないときなどは一人でよく遊んでいた。

「カナも、何も文句も言わず一人で遊んでくれて、本当に助かるわ」

 シュウはもう一度行ってきますとだけ言うと、扉を開けて出ていった。

 庭ではまだカナが花壇に向かって遊んでいた。

「カナ、ちょっと出かけてくる」

「えー、またお出かけー?」

 大げさにそんなふうに言って振り返ったカナの顔は、しかし、残念そうな表情はこれっぽっちも浮かべてはいなかった。

 ――本当に一人で遊ぶの、楽しんでいるのかもしれないな。

「帰ったら、一緒に遊ぶ?」

 シュウが何気なくそう言うと、カナは心底嬉しそうに明るい笑顔をぱっと咲かせた。

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