第8話 …みだれてけさはものをこそ思へ

「秋ちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく」 紀友則  


 去年の初夏から立ち上る夏の暑さから逃れずにいた。

ウクライナの動乱に天秤にかけられし人の命、そして上がる物価高、その前から続くコロナウィルスの猛威。

戦乱は終わりを見せない。

聞き分けが良い体で同情しても取り返せない人間の憎悪にむせかえった。

爆撃のニュースを見るたびにギラギラと焼き尽くす灼熱地獄が目の前で思い浮かび、わたしの頭は熱くなり思考停止した。

今年も日本人に愛でられし様々な種類の桜が、それが摂理として、順に咲いては、やがて舞い散り、青い若葉を芽吹かせてみせた。

それでも、わたしは、何故か季節の移ろいに刹那の情愛を抱くことさえ不自由で、まるで重い鎖に繋がれし如く。少し傷心した心は、まだ去年の夏のまま立ち止まっていた。


 ウクライナの戦争のことも、もちろんショックだった。

コロナウィルスの猛威も、出口の見えない不安をかきたてた。

それだけでなく、今年は、今年は、新入社の女性社員が入ってくる。

私は統合失調症という障害を抱えていた。だから健常者と同じように根を詰めて仕事をさせられない立場にいて、それが寂しく辛かった。

何度か、仕事をもっとしたいと話したが、

 「余裕を残して仕事に取り組めた方がいい。」

 と上司に言われていた。就労定着支援の支援員さんは、

 「フルタイム勤務が体調を崩さずにできてすばらしいです。」

 と言っていた。

(そうだよね、統合失調症の私は、フルタイム勤務ですら体調を崩さないか心配になるよね。)とわたしも理解した。理解しやすいほど、職場でも気を遣ってもらっていて支援員さんからも必要な時は相談に乗ってもらえていた。

 新入社の女の子は、わたしとは違う障害を持った女の子。

実際、やっぱり研修の時から、求められていることは私とは違うと思った。休み休み仕事をし、勤務時間も4時間から徐々に延ばしていったわたしとは違い、最初からフルタイム勤務だ。

精神障害を抱えてしまい自己の理想通りに生きられなくなったわたし、には、プライベートで心を打ち解け合える存在はいなかった。だから、より一層、会社に仕事を求められることが、孤独なわたしの心のよりどころとなっていた。

統合失調症であること、

そして心を通わせ合える人がいなく孤独であること、

それは、わたしが必要とされなくなる日があるのではないかと過度に恐怖状態にしていた。


 ○○年 5月17日、

私は、新入社の女の子に心の中で“牡丹ぼたん”と名付けていた。ふんわりと幾重に花びらが重なったような柔らかにぽんと咲いたひとりのlady。その魅力がわたしの毎日にちょこっとずつ足跡を残し始めていた。まるで花びらの絨毯をひくように・・・。

その新しいときめきに、キラキラと心が揺れ、そして、今まで相談できず抱えていた孤独をそっとメールにしたため、障害者福祉の支援員さんに送った。

孤独を理由に人を愛せないのは嫌だった。


『越えることのできない夏を、今年、1年ぶりに通り抜けていこう』

わたしは息を吸い込み前へ進むと決めた。

我が身を、夏盛りに鳴き、命の定めを見に受けてその後、大地に眠りゆく蜻蛉に憑依させようとした。

そうして涼しさを求めて日陰を目指せば、それはゾッとするほどの哀色で、思わずビクリと身体を反り返して見つけたのは、秋の夜のような色の桔梗きちかう

きちかう、昔、桔梗をそう呼んだらしい。


 誰かに伝えたい、聞いてほしい昔話、などない。

ただ、夏になれば幼少の時に暮らしていた家で、桔梗が咲いた。

 

 「これはなんだろう。」

 とバルーンのようなつぼみを指で遊ばせば、開いてはいけない哀しみの色が広がり、わたしは、大人ではない自分を知った。

そこから和室につながる小さな障子窓が見えたが、それは掛け軸の下にあり2歳児くらいの子供がやっと通り抜けられるほど小さい。

狭くて、もう10歳を目の前にした児童には使うことができない。

大人でもない、子供といえど大きくなった自分の無垢ないたずらを桔梗はそーっと吸い込んで、そしてはじけ飛んだ。


 「ご飯をお味噌汁に入れて食べるものだよ。」

 どこからか声が聞こえて、そして振り向けば、クラスメイトの男の子が、お味噌汁のお椀に白米をいれているところだった。正気に戻って自分の手元を見れば、そういえば自分はお味噌汁の中に幾粒かご飯を入れて食べていた。はたりと肩を落とした。(いけないことだったのかな。彼の傍にいる女の子が汚いと言ってたのかな。)わたしは学校の給食の時間が、きっと、嫌いだった。

クラスで掲示係になってみれば、つい、かわいい子、かっこいい子の投票企画してしまう呑気なわたしで、

例のお味噌汁の男の子の投票用紙にはカッコいい男の子の欄に、"多津加たづか 海里かいり”と彼自身の名前が書かれていた。

(そういうキャラだったかな。)と首をひねったが、考えてみれば誰かが

 『(月菜が)自分がかわいいと思ってこんな企画をする!』

 とクラスメイトの女子(男子も)が気を悪くしていたかもしれないことに想像が及んだ。人に心が置けない自分にゾッとした。情に棹させることなど皆無で自分の世界しかない己が窓ガラスに映って、そうしてそれは単なる幻のようにふっと消えた。自分は、15歳になる前に学校からいなくなっていた。


 


 『時には誰かを・・・

  知らず知らずのうちに

  傷つけてしまったり・・・

  (中略)

  犯した罪を知る』

 聴いてみたい歌の歌い出しだった。


お店かテレビかで聞いたことがあるサビが耳に残っていて、その歌を歌っているのがKing Gnuであることを知ったときに、YouTubeで検索した。

 わたしは口ずさんだ。

 『・・・真っ白に生まれ変わって

  人生一から始めようが

  首の皮一枚繋がった

  どうしようもない今を

  生きていくんだ』       King Gnu『白日』より

・・・

・・・

 

 わたしは、ハッとした。


思い浮かぶのは、障害者雇用で働く前に、

統合失調症の陽性症状のままアルバイトや派遣を転々とし、そのたび、喧嘩したりイライラしたりしていた。

多少パワハラもいじめもあったけど、被害妄想のせいで喧嘩もした。

自分にも非があることは紛れもない事実だった。

そんな事実を、真っ新にして、やり直したとして、

自分がしてきた失敗は消えることはない。

人を傷つけたかもしれない、迷惑をかけてた現実は、

 「そんなことはなかったんだ!」

 と見過ごすことはできないのだ。


 「肩、凝ってる。」

 「・・・?え?」

 ふっと声が過り、横を見れば・・・、いつかの昔の常のようにニコリと微笑む亡き兄が立っていた。

 「ごめんね、

  形・・・、」

 「は?カタチ?は?」

 兄はうつむいてまたわたしの目を見た。

 「お父さんは、形さえ整えたらなんでも許される、

  さらに言えば許されたいと思っているんだよ。」

 「え?何、ディスってるの?」

 「・・・誰しもが良心を持っている。与えられた権利に対して責任を負わなければならないことをお父さんも知っている。」

 わたしは、うなずいた。

 「責任を理解していたからこそ、仕事で役職を持てたんだよ、父さんも。

  だけど、父さん曰くの、子供の頃から自分の父が(つまり月菜の祖父)母(月菜の祖母)の親戚に裏切られ事業に失敗して人を信用できなくなり、吞んだくれになって仕事をしたりしなかったり怒鳴ったりした不遇な経験は、"どうして自分ばかりこんな目に遭わなければならないの”という憎しみに変わり、形は整えても人を心底信用し愛することができなくなってしまったんだよ。」

 「わかるよ。月菜もそれをわかって父を慕ってきたんだよ。

  でも、月菜を触り更に、謝罪できないのは・・・

  GAME OVER!!」

 「隙あればいやらしい性的な目で見る癖も直らないね。」

 

 捨て言葉とともにわたしは現実に返った。

誰もいない部屋で、ウォークマンが Every Little Thingの『STAR』を歌っていた。

『…何ひとつできなくて 優しくなれずに

 『ごめんね』と、つぶやいた♪』

優しい歌だった。


 「ながからむ心も知らず黒髪の

  みだれてけさはものをこそ思へ」 小倉百人一首80番、待賢門院堀河

 そうして、また新しい日を迎え、アラームぴったりに起きた。

朝方差し込む薄ら日差しのなかで、ベッドから髪を持ち上げクシャっと掻き上げた。

わたしは、会社を、就労定着支援事業所を、病院を、

そして、あの、麗しき、三明さんを、

“愛していた。”


  

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