第6話 センチメンタルラブ

 湯船の水面に鼻からそっと近づけた。

沈み込んでいく顔のパーツは水面を揺らし凹ませそして顔をすっぽりと覆った。


 「わたしの顔を仮面に…。」

 いつも即答の傍人は言う

 「顔の型をとりましょうか?」

 わたしはイエスとは言い難かった。


 わたしが生まれて、三十路を過ぎ、父母に愛着を失っていた。

 「本当の親じゃない!」

 そう一人叫んでめくりあげたアルバムは、くっきりと"赤ちゃんだった頃のわたし”と父が写っていた。否定したくて後ろに捲っていったとしても途切れることのない父と母の普遍的な微笑み。赤子から幼児、少女へと成長していく自分とともに。ただ、確かに言えたことは“わたしには父母と同じ普遍的な幸せを与えられなかった”ということ。


 「…そして、そのわたしの顔の仮面を、木の仮面で覆って欲しいの。」

 「あぁ、本当の心を浮き彫りにする伝統の仮面ですか。」

 ひとつ、瞳の光量を溢すとまたこちらに向いてわたしを諭した。

 「人の心は、お嬢さんが欲しがってるリモコン操作でうまく運ぶ精密機器とは

  違うんです。…きっともう今までとは同じではないのです。」

 そして惑星に存在することを愛しむように息を吸い込んで続けた。

 「お嬢さんの気持ちももう思う様にはなりませんね。針でチクリと刺した指の痛み   

  のようには簡単には解せない思いを抱くんでしょう。」


 わたしは思い浮かんだ無表情の仮面の像に、自問自答しながら文字を並べ続けた。傍人なんていない。きっとわたし。だってわたしには、親以外、なぁんにもないのだから。

ここ10年、ほとんど、いとこの実家にも足を運ばなくなったし連絡するのも躊躇する。わたしには自分しか心を暖めてくれる人なんていなかった。


 先日、

「(従業員の)みんながどんな態度でくるか。」

 という友達のLINEのメッセージにぎょっとした。それは、友達が微熱を出して今月2度目の休暇をとっている時のLINEだった。

(えっ、休まれたから人手なくって現場の人は困ったんじゃないの?)

わたしは違和感を抑えきれなかった。

友達からは前々から職場の人が無視するとか冷たいとか愚痴を言っていた。わたしも一般のバイトは何度も経験があるが、やっぱり一緒に働く人がキツイなと思うことはあった。だから友達にも同情したしかわいそうだと思って話を聞いていた。でも、同時に友達も悪いよねと思っていた。一般就労で月に1回~2回熱で数日休まれることがったら、みんな迷惑するだろうから。友達も統合失調症で体調崩しやすいなら障害者雇用を探したほうがいいと、そう伝えたこともあった。

 「熱なのに、コロナ陰性ってわかったら夕方シフトに入れないかってLINE来て、無理ですって答えたら返信ないから職場まで電話したの。そしたら電話先のみんな電話を出ては他の人に変わってって感じでたらい回しされて最後はリーダーにもういいですって怒られて電話を切られちゃったのよ!」

 友達は微熱だったし、人手が足りないと出勤してって言われることもあるよね、どこの職場でも、休むとすごく迷惑になってわたしも怒られた。でもわたしは休んだことも申し訳なかったって反省したし、だからその結果、障害者雇用を選んだんだ。友達の口から職場の悪口が延々と続き、申し訳なさとか、自分はどのように変わったらいいのかとかそんな話は出なかった。

わたしは、そんな友達のことを良くないとは言えなくて喉を掻きむしった。一筋キズが出来た。

 「どうして私には送り迎えしてくれる人がいないのよ!」

 「お金がないない。なんでみんなは値段も気にせず高いものが買えるのよ!」

 友達の今までの愚痴に、同情し、有給休暇使って精神科通院の送り迎えを時々してあげると言ってあげたり、お金をいくらかあげたり、食事を何回かおごってあげたりした。運転免許のない彼女にいつも車を出しているわたしも、障害者であまり運転はしないように生活している身だ。そんなわたしにシートベルトも付け忘れるほどの気遣いのなさで、フロントガラスの日よけを外すのを手伝ってもらっても嫌そうで、そして自分の行きたいお店しか行ってくれない。そうでなければ嫌だと言い、わたしの気持ちも考えずにすぐ不満をもらした。

 わたしはもう限界だった。人と人とは支え合って生きるもの。給料を頂くならそれだけの敬意を職場に払うべき。でも合わないなら辞めてもいいけど(わたしも転職ばかりだったし)、自己分析できずに理想を追う友達と一緒にいても仕事がうまくいかなくってお金を請求してくるのが関の山だ。


 わたしはふと思い出した。

楽しいはずだから、夢を見ることができるからと、足を運んだ広いコンサート会場、しかし、決して魔法にかかれなかった。周りは知らない雑踏で不用意に私の視界を遮り身体にも触れ、とくに興も感じず、隣にいる友達といわゆる心触れ合う会話も何もなかった。わたしは数多くの客席に小さくぽつんといるのか、それとも舞台の袖に紛れ込んでるのか分からない胸中になる、すなわち、アイドルでもアーティストでもないわたしは、まるで周りの観客とは別物の醜い見せ物のようだ。隣の知らぬ人は恋人を携え、身体に身につけるファングッズの多さは懐の潤い具合でもあり、わたしとは違う普遍的な社会的地位と幸せを持っているのだろう。どうして自分だけ馴染めないのか分からない。可愛くて素敵な衣装も身につけて笑顔をつくっているのに、わたしには人生を失敗したという烙印が身に沁みている、知らず知らずに。それを否定したくて、そして一人は恥ずかしく苦しくてすがっていつも友達といる自分は、もう憧れと将来の安泰を約束する普遍的なレールには戻ることはできない。

 コンサートに何回か一緒にいった友達とは破綻していた。わたしの仕事の愚痴の件でもめてブロックして終わった。そして今度は同じ病を患う友達。一般就労できずに転々として苦労し、やっとの思いで障害者雇用で働けるようになったわたしは、友達の不幸で同情できる点や何か足らぬところを補てんしてさえすれば、友達と一緒にいることを満足できるであろうことも考えられる。友達への同情の余地は探せばないわけではないのかもしれない。

 だけど、世界って不気味。

 「私は真面目に生きてるのになんでこんな目に遭うのよ!」

 と友達は言い放ったけど、私も自分にそう思うふしは多かったのに、あえて言葉にしてはいなかった。自身の身体を使ったり実験用動物で検証したりして医療や革新的製品を生み出す人と、そういった研究を恐れ怯えるだけの自分とはあまりにも物事の考え方が違う。そんなわたしには革新的な発明の発想も得ないし、だけどもわたしもその恩恵にすがりたい。価値観や考え方は多様で複雑で、何かわたし、真面目に一生懸命生きてきたようで間違いが多かったのではないかという反省の思いは消えなかったのだ。そしてまた、この間やっと恐怖を抑えてみたサスペンス映画は、奇妙だった。子と親の近親相姦を描いていたが、こんな恐ろしい主題を幼い子供に演じさせるなんて。世界はわたしの常識では、はかれなく、わたしの見える視点だけでは、はかれないと思いぞっとした。これはただのフィクションだとも言い難い。人は空想だけでは限界があると思う。故事を集めたらしい本当は恐ろしいグリム童話とういうものもあって、つまり世界は一点も曇りのないまっさらな情景だけではおさめることはできないのだ、と。

友達との別れと、そして自分の嫌とか好きとかいった煩わしくも感じる心のうだうだを、社会に溶け込もうといたずらにかき消すのではなく、そんな自分の心に耳をもう少し傾けて生きていこうと、そうやってまた、絶望した世界をもう一度信じることにした。


 人の手によって完成された仮面の行く末を見つめる視野はくぐもった。

本当を見つけきれずに隠した表に理由なんて宿りようがなかった。

ただ、わたしが存在していることと重ね続ける時の流れを愛しているに過ぎなかった。

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