第5話 はつかで実る身の上
(はつか大根の種を食べちゃった)
家庭菜園の隅の小さな一角に、真新しい葉が生え始めていた。50cm四方にまんべんなく種を植えたはずなのにまだらに生えていて、どうしてだろうと思っていたら、鳩がちょんちょんと畑をつっついているのを見てしまった。
わたしは
「はつか大根を育てたいから畑を少しちょうだい。」
と母に言った。
「プランターにしたら?」
と言われたが、
「少しのスペースでいいから。」
とわたしはねだった。
始まりはわたしを見つめた若い社員さんの存在でも、思わず好きと口走りたくなる端麗な社員さんのせいでもない。愛想がいい人でも、ムードメーカーでもない。もしその可能性があるなら、きっとわたしはもう既にホームベーカリー——パン焼きメーカーを購入済みだったと思う。
「黒パンが食べたいよ。」
いつかのマッチングアプリの知らぬ人がわたしにねだった。わたしはどこのパン屋さんならその品揃えがあるか調べたし、
「ポークボールのグレービーソースとピザね。」
と更に頼まれれば、本屋でレシピを探しては買った。
見たこともない。芸能人や知人の誰にも似ていない淡白なアジア人風の顔。それに幾多の思慕を重ねることができるだろうか。相手はマッチングしたわたしにすぐにメールの交換を求めてきてわたしは、
「いいえ。」
と拒むことができなかった。
そんな彼は初日はわたしに配慮してか友人関係を装い、だが、3日目には恋人同士が抱き合うような——わたしにしてみれば卑猥な画像を送ってよこし、
「私たちは恋人だよね。」
と迫った。それを読み上げたわたしの頭に抜ける音は、
"三十有余歳、思われ人ナシ、友達、ほとんどイナイ”と鳴った。
そうして彼に甘んじて数週間で
「事業に失敗した。お金を貸して欲しい。」
だった。
「アナタ、日本人でしょ?同じアジア人として…それに日本の過去の罪を悪いと思わないの?」
彼は躊躇する間を与えないようにわたしに攻撃した。通帳を指さすわたしの手が震え、振り子のように左右を探し、そうしてやっと答えが導き出せたのは
「わたしは"精神障害者”です。」
という自己評価。二週間も悩んだ末にだった。
7つ24時間を数えるのが2回分、わたしは心と自尊心を無重力状態のように宙に泳がせ手中から抜けていた。そんな長い時間の囚われごとだった。
「うったえてやる。」
という暴力に似た脅しに、警察へ自分の潔癖を伺わなければ、自分の元へは帰ってこれない、長い長い逃避行だった。
もしも、企業経営しているような立派な、しかも広大な国土を領有する国の貴人に、愛されたならわたしという廃人と化した汚れた人生を拭い取ってくれる光をいただけると信じたかった。今の自分から逃げたかった、そんな時間だった。しかし。それはただの甘言で、相手は便利になったIT技術を使った詐欺者だった。詐欺師は偽物の身分証明書も偽装された企業サイトも用意していた。もしかしたら、誰かを騙して手に入れた技術を使いまわしているだけで取り柄などないのかもしれないことまで想像するのが難しいほどのわたしだった。
わたしはそう、病んでいた。
(そうね、ロシア人に似ている。)
想像力を働かせた時に、ピンクとオレンジが過ってわたしを照らした。いずれも子供と乙女に優しい色で、いつかの個人経営の美容院で初めて染めてもらった時のブラウンもピンクがかっていた。鏡の前でわたしは、
「まるでロシア人みたいだ。」
と小さく叫んでしまったことが思い出された。
社員さんの白髪交じりの髪のこげ茶を、わたしは再びそう呼んだが、もう時代は、またわたしを置いて残酷な爪を尖らせ今またわたしを刺し始めていた。
(…77年前なんて知らない!!
中身など知れない最新のスマホを
さようなら。
赤色は小学生になったばかりのわたしでさえ実らせた赤い小さな大根に姿を変えた
「はつかで出来るだいこん。」
と甘い響きは永遠でもなく。
得手もない、不得手は忘れたい。
35を数えたわたしは、奥さんの名前がちらつく社員さん…たちに何も想像も及ばなく、“カッコいい”とか“耳に温かい声”だとか短絡的な評価をした絵切手にして切り取った。そうして赤丸が育つ“はつかだいこんの種”に貼り付けてそうっと土の下に沈み込ませた。
「いくら身近で親切な社員さんに情事を想像できなくても、それに値しない自分であっても…それで生きていくんだって割り切っても、」
社員さんが気まぐれに女という性別にくれた一輪の笑顔を思い出されたとして
「統合失調症や向精神薬と妊娠の本で本棚の隙間を埋めて現実を見つめたとしても…。」
『お金ならたくさんある、一緒に住んで幸せな家庭を築こう。』
と言って、人生を失敗して栄誉どころか自立さえできないわたしに、社会的な地位までちらつかせたマッチングアプリの知らぬ人に
「思わず身をゆだねてしまう…孤独や不名誉な人生から藁をもつかまんとして逃げたくなってしまう弱い弱い自分なの。」
わたしはもう敗戦していた。日本というアイデンティティを探し掴むために幾多の図書館や格式と伝統ある神社まで訪ね大学の卒業論文を書こうとしたけど、奇妙で恐ろしい殺し合いという戦争という名の人間の闇の世界の妄想に心を蝕まれその中で悲鳴を上げ、ついに調べがつかずに中退した。ましてや今回の戦争の真偽に拭えない心の穴があったとしてもそれはキチガイの上に抹消される迷いなんだろう。
鳩はいとも事なげに土をついばんでいた。それこそ、児童用自由画帳の挿絵や童話などの中で“ひょうひょうと鳩は豆を食らう”の語り伝えのごとく、自我に素直に、わたしの顔など、その罪を許す証人のごとく端にとらえたかのようなご様子で。“わたしが憧れたのはカラスよ”という本人にとってしか意味のない議題は、それこそお気楽なのに知的で緻密なその羽の柄で言いくるめて、そして畑は少し不揃いに生やし並べた葉でにっこりと笑った。
自分の分だけの貰いは十分にあった“はつか大根”の一角と、自分の夕飯にものぼる予定の父母が育てている夏野菜。銭をこまごまと数えるような生活苦では鳩を夕飯に上げたいと願うだろう貧しさにピンと胸を張りつめるもそれは記憶さえない自分の生まれる前の祖父母の時代の話。鳩がちょいと盗んでいった足跡はかわいらしいだろうが想像上でしかなく、畑はそれこそ何事もなかったかのうように
——あなた(の場所)は、健常者で社会的な地位もあり人格を肯定してくれる人間関係さえもあり、さらに言えばそれが当たり前で普遍的な世界、
——わたしは、この生まれつき持ち合わせた一軒家でひとりぼっち。親と心も通わない。
庭、つち、柔らかい、暖かい。
ベタベタッと食糧を得ようとわたしが慎重に、でも思いっきり掘り返した後の指先に絡みつく。そしてわたしの指先の跡を泥が囲う。わたしの人型が、あったらしい。
——わたし、わたしには、、痕も残さず分け合う友達——鳩とカラスと何んとかがいる世界、ひとりぼっちで、人間になり損ないに見えるけれど
「来週、お肉…
とーりーさんがお皿に乗ったようなハンバーグをたべにいくの、
友達の分にポカリも必要だわ。」
夏ほどに太陽が近づき始めた6月、梅雨始めのぶ厚い雨と日差しの交互攻撃に、負けずと歩くだろう友達に、そっと自分の分の雨宿りも兼ねて···その隣を確保するためのスポーツドリンクの差し入れをメモした。そして
「苦い、にがい。」
とわざわざ赤丸大根の葉の方を生で一緒に齧るわたしだった。
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