P.eous(5)
寒気が居座る曇天の低い空。
ポーチの中で温くなったペットボトルの緑茶で喉を湿らせ、冷たく乾いた空気を吸い込む。鼻がツン、と痛くなる。
「ええと。じゃあ今は」
「傷病年金は貰ってるけど、さすがにそれだけじゃ余裕がないから、コールセンターとか事務とかのアルバイトをしたり。身体を動かさなくていい仕事に限るけど、ちょっとずつ働いたりはしてるよ」
「なんか無責任ですね。それだけ一生懸命戦ったのに、怪我したら『後は一人で頑張って下さい』なんて突き放されて」
「そういうものだよ。みんなそう」
「あ、いや……その、なんか、ごめんなさい」
「いいよ。それに、僕は今の状況でもそれなりに満足してるの。よく眠れるようにもなったしね。お酒だって、飲まなくても良くなった」
「……僕?」
「なんだかんだ、色々あったからね、“僕”は。もう何かを取り繕うことも無いし、自然に生きようって思って。だから――けっこう気に入ってるんだよ、今は今で」
デパートのショーウィンドウにイベントの飾りがきらめく。
向かい側では、低い唸り音をたてて路線バスが目の前を横切っていく。『忘年会も歌って飲んで!カニ食べて!』『エビカニ食べ放題』『カラオケ“歌海老”駅から五分』。車体には原色系のラッピングが施されている。カラオケなんか、もう何年行ってないだろう?
「信号、青になりましたよ」
「うん」
行き交う雑踏の中、こつんこつんと、アスファルトを叩く杖の音が響く。
―――
一昨日、オレはアマネに“するべきことではないこと”をした。
「――そんなに言うなら、オレより大学の友達にでも頼ればいいだろ」
言ってから、しまった、と思った。
あいつが、その手の人付き合いが苦手な性格だって分かってるのに。
分かっているのに何でそんなことを言ってしまったのか――あいつはオレよりもずっと頑固で、その実、誰にも気付かれないように気を張っているような性格なのに。
で、一方のオレはどうだ。こんなに自分勝手に振る舞って。
―――
駅前広場(ウネウネとした銀色のオブジェがある。『海老の舞い』というらしい)で待ち合わせ。どれだけ時が過ぎても、どれだけ環境が変わっても、どうもオレはこの場所に縁があるらしい。
数年ぶりにあったボタンさんは、澄んだ雰囲気を身に纏っていた。
「シマくん、ずいぶん可愛くなったね」
オレの顔を見て、ボタンさんは笑った。
「笑っちゃいますよね。こんなんなっちゃって」
「そうでもないよ。僕には、ちゃんと大人になったように見える」
「中身は変わってないですよ」
「そう?」
数年前はオスとメスの関係だった。今はメス同士。
「そうでなけりゃ、悩んだりしてません。今でもガキみたいなものですよ」
オレもアマネも変わった。変わらざるをえなくなって、それで変わった。
そしてボタンさんは、オレ達とは違う意味で……変化を受け入れていた。
みんな人生があって、身体も、環境も、生き方も、変わって。その中でオレ達は出会って、別れて、共に歩んで、時にはすれ違って、また出会ったりもする。
待ち合わせ場所の駅前を離れ、喫茶店に向かう途中でボタンさんの現状を聞いた。二年前に警察予備隊(現:保安隊)を除隊したきっかけは、戦場で負った怪我のせいだったのだという。その頃、北方で“天敵”と大規模な戦闘があったと――当時はニュースでずいぶん流れていたのを覚えている。そこで何があったのか、ボタンさんも詳しくは話さなかったし、オレも聞くことはしなかった。ともかく彼女はその時に負った怪我で右半身が少しだけ動かしづらくなり、今はアルバイトをしながら日常を送っているらしい。会話ログにあった“メッセージが打ちづらい”というのは、つまりそういうことで。
「奥に座れます? 手、貸しましょうか」
「大丈夫。あ、杖だけ持っててもらえる? ごめんね。ありがとう」
数年前に強く記憶に残っていたあの筋肉質な身体は既に落ち、シルエットは細くなっていた。それでも彼女は彼女で、オレが知るボタンさんそのものだ。
「あ」
ボタンさんがこちらの顔を見ながら何かに気付く。何となく恥ずかしくなって目を逸らすと、その目線の先は顔の横にあった。
「空けたんだ、ピアス」
ああそうか、と、オレは右耳につけたピアスに触れる。最初は確か、親に言われて空けたものだったっけ。服を選ぶのは億劫だけれど、こういうアクセサリは嫌いじゃない。今でもいくつか持っていたりするし、こうして付けたりもする。そういや、はじめてピアスを空けた耳を見せたのも、ここで……あの時は、アマネと会った時だったか。
「似合ってるよ。シマくんらしい感じがする」
「オレらしい、ってなんですか」
「……なんだろうね?」
一方、長い黒髪の隙間からのぞくボタンさんの白く小さい耳には――いくつかのピアスホールがあって――けれど、そこには何も付いていなかった。
ボタンさんはオレが初めて見た時から大人だった。
大人になれば、それ以上に大きく変わることなんて無いと思っていた。
でも実際は、そう簡単なものでもないらしい。
―――
「何か食べないの? 大盛のカニクリームパスタとか」
「いやあ、さすがにその」
「冗談だよ。ごめんね。僕も前はいっぱい食べられたけど。今は動いてないから、もうすっかり」
「そういうものなんですか」
「君も食べられる内に食べたほうがいいよ」
「や……最近、ちょっと体重とか気になってきて」
目の前に二人分のアイスコーヒーが運ばれてくる。
「寒いのにアイスコーヒーだなんて」
「そういうボタンさんこそ」
「何でだろうね。熱いものをちょっとずつ飲むっていうのが、焦れったくて仕方ないのかも」
「それ、わかります」
「どうせすぐ冷めるのにね」
「前は普通に温かいのを飲んでたんですよ。でも、そのうち――いつからでしょうね。なんか、そういうのが面倒になっちゃって」
―――
「それで」
「はい」
「君のことだから、もう答えなんか決まってるんでしょ?」
思えばこの実直さと明け透けの無さが、オレが慕うボタンさんの“本質”なのかもしれない。こっちも大体の経緯は既に話してある。オレとアマネの関係のこと、オレがメスになった時のこと、そしてアマネもメスになった後のことまで。
そういえば、前にこうしてボタンさんと会った時も――オレはアマネの話ばかりしていたっけ。
「まあ、その、言われた通りで。答えなんて、決まってるんですけど」
「うん」
「それを実行に移せるかどうかはまったく別で」
「うん」
「で、結局、オレはそういうモヤモヤを誰かに話したかった、話せる相手が欲しかっただけで」
「それで僕に声を掛けた、と」
「いやホント……なんていうか……よりによって、なんですけど……」
昔、オスだった頃。オレはボタンさんに“食われた”。
その記憶を抱えたまま、数年後、今度はオレがアマネを“食った”。
立場を変えて、それは不思議な繋がりになった。
時が経って、オレ達は全員メスになった。
そんな中でオレは今、こうして“食った”本人に自分の思いを打ち明けている。
問題は時が解決するなんて言われるけれど、それはきっと間違いだ。今までの問題は解決するかもしれないけれど、いつの間にか隣にはまた新しい問題が現れる。
「不思議なものだね」
柔らかな表情で、ボタンさんはこちらを見つめている。
「何から何まで、まるで繰り返すみたいに繋がってる」
そして、続けて彼女はこう言った。
「昔、僕の傍にもそういう人がいたんだよ」
―――
それからボタンさんは昔のことを教えてくれた。
オス同士だった頃から一緒だった“友達”。時が変わって、その関係はオスとメスになり、やがてメス同士になって。
「なにもかも、今の君と同じ。偶然にしては出来すぎてると思わない?」
でも、ある日。
「今でも覚えてる。“貴方が何を考えてるか分からなくなっちゃった”って。あの子が最後に呟いた別れの台詞。それっきり、もう会ってない。……で、その後に引っ越ししようって思い立って、そこで出会ったのが、君」
「そういえば……確かに“友達がいた”ってのは聞いた気もしますけど……でも、あの時、そんな話までは」
やけに乾いた喉に、アイスコーヒーが滲みていく。
「わざわざ言うつもりもなかったしね」
ふと顔を見上げると、ボタンさんが目を細めてこちらを見ていた。
「恋人と別れた後で、それで自棄になって“捕まえて食べた”のが君だったなんて。そんな事、あの時の君に言えるわけないでしょう?」
それは――蠱惑的な“メスの顔”に見えた。
―――
今となっては“時が解決した”問題。
今となってはどうしようもない過去の話。
「最初に君の話を聞いた時に勘付いたの。ああ、これは昔の僕と同じだ、って」
「だから」
「そう。だから、君と話しておかなくちゃって。ただのお節介だけど」
「ビックリしたんですよ。急に話そうなんて言ってきたから」
「さっき、僕が“言われた”っていった台詞、覚えてる?」
「“何を考えてるか分からない”って」
「ここまで言えば、分かるかもしれないけど」
「いや……さすがにオレだって気付きますよ。というか、もう分かってるんですよ。“言いたいことは言わなきゃ伝わらない”って。単純な話で。そこから逃げて、余計なこと言ってケンカ腰になってる場合じゃないんだって」
「そうだよ。時が解決してくれるなんて思ったらダメ。言いたいことがあるならハッキリ言うこと」
「あいつとオレと……いつまでも“このまま”でいいって、ずっと思ってたんですよ」
「それなら誰も傷つかないからね。勇気を出すことだってしなくてもいい。けれど、本当は違うんでしょう?」
「はい」
「傷つくかもしれない。望まない答えが返ってくるかもしれない。でも自分から、はっきりと伝えること。それがきっと“大人”の姿なんじゃないかな。気付くだけじゃなくて、言葉や、かたちにするの」
「なんか、当たり前の事なんですね」
「まあ、そう言う僕も、本当は君を糾弾するほど偉そうに言えないんだけどね。自分自身で、もっと早く気付くべきだった。そうすれば、あの子を失望させずに済んだかもしれない。何を考えてるか分からない、なんて言われなかったかもしれない。……それも、今はもう“時が解決してしまった”問題だけど」
「――でも」
「?」
「もしも、あの子と僕がうまく行っていたら」
「……」
「そうなったら、きっと、あの夏の日に、君と会ってはなかった」
―――
今となっては過ぎ去ってしまった夏の日の思い出。
あの時、打ちつけられた熱を帯びたままオレはメスになり、そしてその熱を――ある種の“復讐”を果たすように――アマネに移した。その例えようのない感情を……オレがアマネに抱いているように、ボタンさんは、オレにも。
「君の事はずっと覚えていたよ」
「それは、責任感、で?」
「そうかもしれない」
数年ぶりに出会ったボタンさんは熱を吐き出しきった姿になっていた。
だけど、その瞳の奥には――あの頃の熱がまだ燻っているようにも見えた。
「もし僕が“あれからもずっと君の事を想い続けていた”って言ったら、どうする?」
ふたつの、空になったグラスに残った氷が、重なるように鳴る。
「今でもたまに夢に出るの。明日死ぬかもしれない、縋るものもないあの場所で、ただ一つ残っていた一夏の記憶。そうして戦いが終わって、こんな身体になって。仕事も、クルマも、拠り所も、何もかも無くして。そんな中で残ったのが、あの夏に過ごした君との思い出だったとしたら。それを今日に至るまで……自分から声も掛けられないまま……“伝えたいことも言えないまま”ずっと想っていたとしたら?」
―――
「なんてね」
―――
会って話した時間としてはほんの一時間程度だった。
グラスの氷も溶けきらないその一時間が、オレにとっては永い刻のように感じた。
―――
帰り際。
思い出したようにボタンさんは言う。
「アマネさん、って言ったっけ」
「はい」
「シマくんは、その子のどこが好きなの」
「考えたこともなかったんですけど。ずっと一緒にいたから」
「顔?」
「は?」
「その子って、きれい?」
「まあ、きれい……だと、思いますよ。大学とかでもきっと目立つだろうなって」
「じゃ、顔が好きなんだ」
「いやいやいやそういうわけじゃ」
「今だから言うけど。あの時、僕は単に君のことが可愛いと思っていたんだよ。こうして大人になっても、相変わらずシマくんは僕の好きな顔をしてる」
「な、何を言ってんですか」
「……君だって、そう思ってあの時“私”に声を掛けたんじゃないの?」
「い、いや、それは、その」
「そう。君の、そういう、慌てたような表情が好き」
―――
「だから」
「はい」
「君が好きな……そんなきれいな彼女なら、他に取られる前に引き寄せておかなくちゃって思わない?」
「そりゃあ、そうですけど」
「ね。単純な話、でしょ」
―――
まったく単純な話だ。
オレはあいつのことが好きで、それで他に取られたくなかったのに。
―――
それから、オレとボタンさんは何もしなかった。
食事に行くようなことも、他に行くようなこともなく。
じゃあね、と手を振って、ボタンさんは雑踏に消えた。杖
をついてゆっくりと歩き出し、あっという間に行ってしまった。どこでも目立つはずの高い背丈が、その後ろ姿が、みるみる小さくなっていくのを、オレはずっと見ていた。
きっとまた迂闊な行動を重ねてしまったのだろう。
ボタンさんはそんな“大人らしくないことをした”自分勝手なオレに応えてくれた。
だから……いつか、オレはあの人にも、ちゃんと謝らなくちゃいけない。
―――
夜にケータイを開くと、ボタンさんからのメッセージが残っていた。
「もし」
「君たち二人が上手くいったら」
「その時は」
「また」
「今度は三人で」
「会えるといいね」
「僕に言い残したことがあるなら」
「その時に、ちゃんと言ってもらうから」
参ったな、とオレは頭を掻く。
ボタンさんのような“大人”には全部お見通しだった、ってわけだ。
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