P.nipponensis(7)
翌日。僕達が目を覚ましたのは昼過ぎになってからだった。
僕もシマも色々なものに“まみれて”いて、まともに外に出られる状態ではなかった。順番にシャワーを浴びて、それから近所にある銭湯に行ってもう一度汗を流した。
帰り道、シマと一緒に近所の商店街を歩いた。
一人きりで歩いた時には何もかもが未知の世界だったのに、二人で歩けば、そこにあったのは単なる小さな商店街だ。時代から少し取り残された、シャッターの目立つアーケード街。銀行、スーパー、美容室、喫茶店。生活に必要なものを確認してまわる。僕が先頭に立って歩いていても、実際はシマの“付き添い”で自立できているような、そんな気分だ。
夕方になっても気温はまるで下がらず、ひとしきり歩けば二人ともまた汗をかいてしまった。銭湯は最後にすれば良かったですね、とシマに言われ、僕は力なく笑う。結局、行き当たりばったりで、先の流れも何も考えていないのが、僕という人間だ。
―――
その日の夜。コンビニで買ってきた食事を済ませた後、僕は、明日はどこか行こうかと誘った。途中の本屋で買ってきたガイドブック(まさか自分の住んでいる場所のガイドブックを買うことになるなんて思わなかった)によれば、クルマで数時間ほど飛ばせば海があって、海鮮が美味しいという有名なレストランや、見晴らしの良い場所もあったりするらしい。
「一緒に付き合ってよ。一人じゃなかなか行きづらいから」
そう言うと、彼は頷いた。
僕はもうシマの前で、それらしく振る舞うのを止めた。シマもまた僕がそういうものだと認識するようになった。一度そうしてしまえば、まるで憑き物が落ちたように気が楽になった。僕はどこかで“ここにはいない架空の誰か”の目をずっと気にしていたのだろう。
「大人なんて面倒くさいんだよ」
僕は彼の前でまたそう口にした
それは、本心に他ならない。
―――
一人ではちょうどいい部屋。二人では狭い部屋。
そこに僕とシマは薄手の布団やタオルケットを敷いて寝た。
「家から連絡来てないの?」
「むちゃくちゃ着信入ってます」
「帰りたいなら、今からでもいいけど」
「まあ……心配かけるのは心が痛みますけど」
「何かあれば、私のことを悪者にしていいからね」
「そのつもりならもう逃げてます」
「“友達”は?」
「意外なことに、一回電話があったきりなんですよね。多分あいつのことだから、オレがバカなことをするなんて考えてないと思ってるんでしょうけど」
「信頼してるんだ」
「いい友達ですよ、あいつは」
「じゃあ、もう寝ようか」
「はい」
冷房にタイマー設定をかけ、灯りを消す。
昨日とは違って、部屋の中は涼しく過ごしやすい。
だから僕達も、穏やかに横になった。
もう昨日のようにセックスをするつもりはない。僕もシマもはっきりと口にはしなかったけれど、あれはもう一回きりで、それで決着がついたということにした。僕はシマを捕食し、シマは僕に捕食された。ただ“そういうもの”に過ぎない。そうやってお互いにその関係性を飲み込んだ。それ以上のことはない。僕とシマは……たぶん、少なくとも、恋人なんかではないのだから。
―――
隣で寝息を立てるシマの顔をしばらく見た後、僕は暗い部屋の中でケータイを取り出す。メールが一件。職場の上司からだ。
本文はずいぶんと長いものだった。それでも以前に来たものとは別で、僕なんかでもわかるように具体的かつダイレクトに書かれていた。
僕が本部に再招集されたことは現場にも伝わっているらしい。その上で、上司は休職明けの僕に何をやらせようとしているのかを事前に与えてくれていた。
僕はシマを起こさぬよう立ち上がり、ケータイと、ミネラルウォーターを一本取って外に出る。外は相変わらず蒸し暑く、玄関のドアを開けた瞬間に温い風に見舞われた。
内容をかいつまんで言えば、やはり僕は再び現場に駆り出されるらしい。
今年に入ってから状況が変わったのは知っている。おそらく警察予備隊の支援を任務として、国警本部の直轄で再度出向することになるだろうと。
つまりそれは――僕に、またあの“天敵”達と戦え、ということだ。
既に警察単体として対処できる範囲はとっくに超えている。だから治安維持という名目の拡充戦力、準軍事組織としての警察予備隊も創成された。けれど彼らはまだ体勢が整いきっていない。故にそうした“あれやこれや”の理由で、僕のいる部隊(Shrimp Assault Team)はたびたび予備隊との共同戦に駆り出され、コキ使われている。
もちろんその度に少なからぬ被害も出る。まだうまく機能しているとは言い難いし、対処は常に後手にまわっている。こんな限定的かつ防衛的な状況で奴らとマトモにやりあっても勝ち目は薄い。
それでも僕達は限られた仕組みの中で動き、戦うしかない。
人間が、人間らしく、平和に生きていくために。その社会を守るために。
そしてその役目は……僕達のような“大人”がすべきことだ。
僕はケータイを閉じ、水を飲んでから部屋に戻る。
じっとりと流れた汗が室内の冷房によって冷やされていく。
シマは起きる様子もなく、安らかな顔で眠ったままだ。その顔をしばらく見つめ、僕はもう一度眠りにつく。さっきよりも、少しだけ彼と近い距離で。
そうして二日目の夜は穏やかに過ぎていく。
何もかも“ずっとそのまま”ではいられない。あらゆるものは突然に終わり、そして突然に始まる。自分が招いた事態なんてごく一握りで、大抵はどうしようもない運命の因果だ。身体も、心も、仕事も、関係も、環境も、勝手に、目眩くように変わっていく。
それに気付いた時、今過ごしている日常がたまらなく愛おしくなる。
いつまでも布団にくるまっていたくなる、こんな夜のように。
時が経てば朝になるとわかっていても。
―――
「今日、どんな服着ていけばいいと思う?」
「オレに選ばせるんですか」
「いつもの服でもいいし“大人らしい服”でもいいし」
「そりゃ……大人らしい服着てるボタンさん……いいって思いますけど……」
「わかった。でも、この前たくさん買っちゃって箱の中にしまってあるんだけど、何選んでいいかわからなくなっちゃって」
「オレだってわかんないですよそんなの」
「何でも良いから選んでよ。私、それ着るから」
「大人なのに選べないんですか」
「そうだよ。私、大人なのに選べないの」
―――
「あと3kmだって」
「けっこう早いですね。まだ昼前なのに。ずっと運転してて疲れません?」
「ぜんぜん。クルマを運転するのは好きなの。何も悩んだりしなくて良くなる時があるから」
「そうですか。って、あ、それ……いつの間に買ったんですか」
「さっきコンビニに寄った時、ちょっとね」
「オレが聞くのもなんですけど、煙草って大人になると美味しく思えるんですか?」
「今ならそうかなって考えて久々に買ってみたけど、やっぱり美味しくないね」
「ですよね」
―――
目的地に着き、三十分ほど並んでから目当ての店に入る。海鮮丼とエビフライ定食(ちなみに後者が僕だ)を頼んでから、窓の外に広がる海を二人で眺める。
「大盛りじゃなくて良かったの」
「ボタンさんは?」
「正直、大盛りにしておけば良かったかなって、ちょっと後悔してる」
「オレもです」
海が見えるレストラン……と言うか、実際はかなり年期の入った定食屋だ。それでも観光客は多く、繁盛しているようだった。
「人間の祖先って、海から来たらしいですよ」
「この星じゃ陸よりも海のほうが大きいのに、どうしてわざわざ狭い陸に上がったりなんかしたんだろう」
「敵がいたから、仕方なく?」
「それも“あった”のかもね」
「……?」
「なんでもない。……でも、もしかすると違う理由かもしれない。海で過ごすのに飽きたから、とか」
「それで、衝動的に?」
「そう。衝動的に。仕方なく出てきたって理由よりは、そっちのほうが前向きだって思わない?」
出てきた料理は美味しいわけでも不味いわけでもなかった。
まあこんなものかな、なんて言いながら、僕達は店から出た後もまたしばらく海を眺めていた。
真夏の海辺は、相変わらず茹で上がるように暑かった。
―――
夏の一日はそうして淡々と終わっていく。
「やっぱりオレ、ここに来てよかったのか、よくなかったのか、悩んでるんです」
帰り道。助手席のシマは小さく、しかしはっきり聞こえる声で呟いた。
「昨日はああ言ったけど……みんな心配してるだろうし、あとあいつのことも、約束も……それから」
「それから?」
「ボタンさんに対しても、オレはたぶん、誠実に応えられなくて」
シマは、僕なんかよりある意味ではよっぽど大人なのかもしれない。
そんなことを口にはしないけれど。
「誰も気にしてないよ」
「……」
「君はこのまま帰って、また日常に戻ればいいの。全部過ぎればまた元通りになるし、言いたくないことがあれば言わなければいい。みんな気にしない。私もそう」
僕は少しだけ嘘をついた。
「でも」
「それって子供の特権だから」
シマはそれきりしばらく黙って――それからこう続けた。
「ボタンさんだって、大人っぽくないのに」
「うん」
「全然理解しきれなかったんですよ。ヘンなひとだなって。大人だったり全然そうじゃなかったり、行き当たりばったりだったり、かと思えばまた大人みたいなこと言い出して――こうやって話せば話すほど、そんな感じで」
「よく分かってる。私はそういう人間だもの」
僕はそう言って笑った。
シマは少し不満そうに膨れていたが、やがて僕と同じように笑った。
「だけど本当は、変わらなくちゃいけない」
「大人になると?」
「そう。人間、身体が変わると大人になる。身体が変われば勝手にそう成ってしまう。いつかは変わってしまう。だからむしろ今はいくらでも好きにしていいの。元に戻ったっていい。悩んだり考えたりしていい。忘れたっていい」
「さんざんあれだけ好きに“やって”おいて、その答えはズルいですよボタンさん。気にしなくて良いから、って、はいわかりました、って、オレ、素直に言えると思います?」
「言ってよ。大人の前ではそう言えばいいの」
「とんでもないですね」
「大人は面倒だって、ずっと言ってるじゃない」
「オレ、そんな面倒な生き物になりたくないなって思っちゃいますよ。特にボタンさんみたいなのには」
「それでいいんだよ」
「ズルいな」
「ごめんね」
「そうやって謝るのも、やっぱりズルいですよ」
「うん。そうかもね」
―――
夕方。僕達は街に帰り、駅へと戻る。
「時間が経って――それでもまだ気にしてくれているなら、また連絡して」
「はい」
「今度はそっちから誘ってよ。呼んでくれればきっと行くから」
「……はい」
「……もし忘れたって、それはそれで、私は気にしないからね」
「……」
駅前のロータリーに横付けしたクルマの中で、僕とシマは言葉を交わす。
言葉の端々に嘘が出る。何よりも離れがたかったのは僕の方だ。シマがドアを開けて出て行けば、僕はまた一人になる。僕もまた“変わらなければいけなくなる”。僕達の……僕の夏が終わってしまう。
「さ、もう電車の時間だよ」
それでも僕は、そう言って彼を促す。
これが終われば、僕は変わる。
酒も煙草も“大人らしい服”も、何もかもを置いて、再び仕事に戻ることになる。
日常が終わり、また別の日常が始まる。
覚悟が出来ているかと言われれば、僕は――いや、それでも、僕はそうするしかない。その変化を受け入れるのも、きっと大人の在り方なのだから。
「最後に一つ、いいですか」
「うん」
「あの、ボタンさんの仕事って」
僕は財布を取り出し、あの日から今まで裏返していた身分証を表にする。
それをシマに見せ――そして彼の問いに答えた。
「みんなを守る“大人らしい仕事”」
―――
僕はいつかまた、胸を張って、シマと会えるだろうか。
シマはいつかまた、僕のことを思い出してくれるだろうか。
もし本当に忘れていても。
それでもいい。
だけど。
だから。
いつか来る日まで、僕は――。
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