P.nipponensis(6)

「お店、美味しかったですね」

「そうだね」

「今度は一人でも入れます?」

「うん」

「良かった」

「でも次に来るのは先のことになるかもしれない。残念だけど」

「え?」


 ――また来ようと思っていても、来られなくなるかもしれない。


 すっかり忘れていた。いや、忘れたわけではない。忘れようとして、頭の隅に追いやっていた。この新居だって、せっかくシマに片付けてもらったけれど、来月以降の状況によってはしばらく帰ることがないかもしれない。もし帰って来られても、ただ寝るだけの場所と化すだろう。


 そして、あの部屋に迎えてくれる人はいない。

 一人で住むのにはちょうど良い部屋。二人で住むには狭い部屋。


「……ボタンさん?」

「なんでもないよ。大丈夫」


 ああ、そうか。


 僕は寂しいのだ。

 だから“しらふ”でいたくなかった。


 これまでも、そしてたぶん、これからも。


―――


「私のところに来るってことは“そういうつもり”なんだと思ってた」

「ええと……いや、その。そういうんじゃなくて」

「いいよ。別に、だからどうしたって言うわけじゃない。――とりあえず、帰りにまたコンビニ寄ってもいい?」


 最初にシマと出会ったのも夜のコンビニの前だった。

 その時も僕は酔っていて、彼はそんな“ダメな大人”としての僕を見ていた。


 缶ビール。缶ビール。カニコーラ。缶ビール。ミネラルウォーター。缶ビール。

「そんなに沢山買って、冷蔵庫に入るんですか」

「入るよ。ビールしか入ってないから。入れ方にコツがあるの。よく冷えるスポットがあって、そこから出すたびに場所を入れ替えていく」

「……」

「でも、多く買い過ぎちゃったかもしれない。今飲む」


 コンビニを出て、駐車場で缶を一つ空ける。横ではシマが自分の分のカニコーラ(お徳用600mlペットボトル)を空ける。かしゅ、ぷしゅ、と小気味よい音が夜の住宅街にこだまする。ここは前の街よりも通りが少なく、だいぶ静かだ。


 僕らはオスとして生まれ、そして時が来ればメスになる。それはただ単に身体の成長における自然現象であり、本来はそこに若年や成年という“社会的な”意味はない。そういうルールさえなければシマだってお酒や煙草を喫んで良いはずで、僕だって社会的に責任や義務を負う“大人”である必要はないし、こんな幼い感情を抑え込むこともない。現実は違う。いくら疑問を呈したところで、社会はそうなっていない。だから僕達はそういう風に立ち回るしかない。若年らしく、成年らしくあることを求められている。


 でも本能の在り方は歪だ。そのルールとはいささか当てはまらないところがある。


 種を残すために……子を生むためには、若年と成年が――オスとメスが交わらなくてはならない。オスはメスに惹かれ、メスもまたオスに惹かれる。


 かつての僕達もそうだった。友情が愛情に変わり、そしてまた友情へと戻る。自然の摂理におけるヒトの関係性からすれば、メスは子を生み、後の人生は種の存続のため社会に尽くさなければいけない。メス同士で育みあっても、そこから来るものは何もないのだから(その意味では、今の僕はいかにも理想的だ)。


 シマは僕のどこに惹かれたのだろう。

 社会的に自立した大人としての僕か、あるいはメスとしての僕か。

 僕はシマの何を見ているのだろう。

 庇護するべき子供としての彼か、あるいはオスとしての彼か。


 寂しくて。社会に戻ることが不安で。

 そして、僕の中の“衝動的”なものが――ゆっくりと首をもたげはじめる。


「オレには、約束があるんです」

「お家の?」

「違います。そうじゃなくて」

「そうじゃなくて、何?」

「そうじゃないんです。でも……だから……」


 ボトルのカニコーラを手にしたまま、シマは葛藤していた。

 僕はコンビニの壁に背を持たれながら彼を見る。あの時と違うのは、僕はまだ座り込まず、立っていられるというところだ。身長192cmの視界では、シマの背丈は見下ろせるくらいの違いがある。黒目がちな瞳。少し丸い、幼さを残した顔立ち。短く切り揃えた髪。背が低くて、子供で、不完全で、それでも彼は大人に憧れ、考え、自ら意思を持とうとしている。


 僕はシマに惹かれていた。仕事、恋愛、人間関係がぶつ切りになり、虚無と不安を抱えた僕に、彼の存在はするりとそこに染みこんできた。何度でも言う。僕は彼を都合良く利用している。これが愛情というのかエゴというのか、そんなものはもうどちらでもいい。


 熱帯夜に温むビールを飲み干し、ゴミ箱に放り、僕は無言で家へと歩き出す。


 シマはやはり思い詰めた顔で、それでもまだ後ろからついてくる。


―――


「私にも“友達”がいたんだよ」

「そうなんですか」

「子供の頃から――オス同士だった頃からの、長い付き合いだった」


 あの子は先に大人になった。そうして僕達は一時的にオスとメスの関係になった。どんな会話をして、どんな風に愛を紡いでいたのか、僕はすっかり忘れてしまった。


 どうして今、そんなことを思い出したのだろう。


―――


 玄関の鍵を開ける。

 ちょっとポストを見てくるから、と言ってシマを先に入れる。


 シマが入ったのを確認して、僕はすぐに踵を返し、閉まりかけたドアの隙間に身体を滑り込ませる。後ろ手で鍵を掛け、玄関の照明をつける。靴を脱ぎ、コンビニ袋をその場に落とす。がらんがらんと、ビール缶の落ちる重い音が響く。

「ボタンさん?」

「……」

 小柄な、それでいて肩幅のある“オス”の背中。異変を察したシマが振り向こうとする隙を突き、そこをめがけ、腰を落とした体勢で勢いよくぶつかっていく。


「ちょ……」

 有無を言わさず、奥へとシマの身体を押し込んでいく。

「ぼ、ボタンさん! 何して――」

 咄嗟に抵抗を試みるシマ。単純な力はあるが、体勢は崩せない。引っ越し業者が荷物を持ち上げるコツを習得しているように、僕はこうして相手をねじ伏せる動きをその身体に叩き込まれている。腕を捻り上げ、膝裏に軽く足払いを決める。それだけでシマはすとんと床へ落ちる。この際、30cm近い体格差はむしろそれほど関係がない。すべては“コツ”だ。

 なぜ抵抗も出来ないままするりと落とされたのか分からず(僕も訓練でやられたことがある。それは本当に一瞬のことだ)突然のことに動転するシマに、僕は覆い被さるように体重をかけ、身動きを封じる。続けて、彼の履いていたジーンズのベルトに手を掛けて引き抜く。

「何、何を」

 シマの両手首をベルトで縛る。


 ――これでひとまず“制圧”が済んだ。

 僕は身体を起こし、仰向けに伏せられたシマを見下ろしながら、身に着けていた“大人らしい”服を脱いでいく。酔いがまわり、指先がうまく定まらないまま、ゆっくりと、一枚ずつ。ブラウスを脱ぎ、スカートのジッパーを下ろす。シマは僕の方を見ながら目を白黒させている。そうして僕は、下着だけを着けたままの身体になった。


「ねえ」

「……」

「少なくとも、私は“そういうつもり”だったよ」


―――


 衝動に身を任せるのは、大人のやることではない。

 わかっていても、どうしようもないことはある。


 それで僕の――。

 私の。僕の。私の。

 私の――。

 私の人生は、たびたびおかしくなった。


 私に、自分の衝動を止めることはできない。

 わかっていても、どうしようもないことがある。

 それを私は心の内に抱えてきた。


 そして、抑えきれなくなった。


―――


「ボタンさん。おかしいですよ」

「そうだよ。私はおかしくなってる」

「何を考えてるかぜんぜん分からないんですよ」

 あの子と同じことを言う。

「そうかもしれない。自分自身でさえ分かってないんだから」

「だったら、こんなこと」

 私は応える代わりに彼のシャツをめくる。

「オレ、オレには」

「……」

「違う。違うんです。オレには、約束が」

「友達との?」

「……オレは……あいつに……」

「“どちらかが先に大人になったら”?」

 シマが目を剥き、何か不気味なものを見るような目で見る。何故、と言いたげな顔。でも、私は彼が何を葛藤しているのか、言われなくてもわかる。


 身体が熱い。身に着けていた下着を取り払い、投げ捨て、剥き身の身体のまま冷蔵庫に向かう。敷き詰められた缶のうち“一番冷えたスポット”の一本を取り出し、タブを折る。


 私はたびたびシマが“友達”の話題を口にするのを聞いた。まるで自分のことのように楽しそうに話す――きっとシマにとっては大事なヒトなのだろう。二人の“約束”。ああ、かつて私達も、そんなものを交わしていたっけ。


 本能が疼く。私の中の捕食者が、耳元で何かを囁いている。

「わかった」

 せり上がってきたそれを冷えたビールで喉の奥へと飲み込み、シマの傍らにしゃがみ込む。

「じゃあ選ばせてあげる。君が断ればこれ以上はしない」

 打ち上げられた魚のように、彼の口は必死に空気を吸い込もうとしている。


「本当だよ。私は大人だからね」


―――


 何も問題はない。これはただの“予習”だから、と私はシマに囁く。

 ベルトの外れたジーンズを強引に脱がす。

 もはや抵抗はなく、そして結果は明らかだった。

 シマの本能は理性に勝り、私の本能もまたその理性を砕いた。


「君は約束を破ったわけじゃない。ただ――私に捕まってしまっただけ」


―――


 冷房をつける手間すら惜しい。

 暑くこもった空気が私達の肌をじっとりと茹で上げ、塩気のある汗を滲ませていく。肌を合わせれば、そこには不快なほどの湿り気があった。


 手首を縛られ、仰向けになったシマが、不安に顔を張り付かせたまま荒い呼吸と共に天井を見上げている。それでいい。冷静になってはいけない。何かを考えたら負けだ。私はシマに跨がり、絡みつく。彼は喉の奥底から絞り上げるような呻き声を上げる。そこにあるのは無慈悲なほどの体格差。けれども、私は遠慮などしない。それを考えるほど私も冷静ではない。

 熱くも冷たくもない、不思議な感覚が貫いた。その温度差を埋めるように、深く深く身体を沈ませていく。沈むほどに、幼さの残るシマの顔が紅潮して歪む。ああ、それだ。その表情。私にも覚えがある。感情が弾け飛ぶあの瞬間。私の中に巣くう加虐心を煽るのに、それは充分すぎるほどの表情だった。シマが呻き声と共に何かを言いかける。私はそれを制するように圧し掛かる。私よりも小さく、頑丈そうで、しかし脆そうなこの一匹のオスを、さらに加減なく押さえ込む。

 彼はさっきまで私のことを慕ってくれていた。心配してくれていた。でも今は違う。もう変わってしまった。私が一方的に変えてしまった。

 オスとメス、互いの身体と感情がすれ違い、摩擦を起こし、熱を発する。情動に身を任せ、私はいよいよ荒く貪っていく。ストロークを強めるたびに、呼吸が激しくなり、身体が奮えていく。暑さで吹き出る汗が弾け、床に滴る。打ち付け、さらに打ち付け――そうしてお互いが一度目に果てるまで、それほど時間はかからなかった。


 気付けば、シマの両手は冷たく鬱血をはじめていた。


 私はシマから自分の身体を引き抜く。汗と体液が纏わりつき、腿を伝う。その不快な感触を無視し、私はひたひたと玄関まで向かう。転がっていたコンビニ袋からミネラルウォーターを手に取る。続けて、部屋の隅にあった小さな段ボール(『仕事道具』)を空け、中から手錠を取り出す。

 床に転がるシマを見下ろし、ミネラルウォーターの封を切って飲む。乾いた喉を潤すように半分ほど一気に飲み、そして残りをシマの口に持っていく。無理やり口を空け、残りを流し込む。


 口から溢れた水が、頬を伝った。


―――


「どうして、手錠なんて」

「本物じゃないよ。そういうことにしておいて」

「あの。ボタンさんの仕事って」

「秘密」


 フローリングの床は固く、身体のあちこちが痛んだ。シマも同じだろう。

 両手を拘束させたまま立たせ、壁際に腰を落とさせる。

 私はそこに跨がる。私達は向かい合ったまま、再び繋がって交わる。茹だったシマの張りのある肌が、私に吸い付く。


 シマは私の顔を見ようとした。

 私に視線を合わせようとした。

 私に顔を近づけようとした。


「ダメ」


 私はそれを制するように、顔を背けさせ、シマの身体に正面から腕を回す。

 彼の腕は拘束されたまま。一方的に、ぴったりと身体を密着させ、そして顔と視線をすれ違わせたままシマの耳元で囁く。


「キスは――それは、私なんかじゃなくて、大事な人の為に取っておくものだから」


 私の耳にもシマの荒い吐息がかかる。着けていたピアスが揺れる。

 それを合図に、私はまたシマを強く抱いた。


 私達は繋がっていても、一つになっていない。シマは私に大人としての憧れを抱いている。でもその視線と心は私の方を見ていない。私もまた彼を利用してその身体を漁っているだけ。だからこれは愛情ではない。それでいい。それで構わない。それもまた、たぶんオスとメスの形だ。私は自分にそう言い聞かせる。

「ねえ、シマくん」

「……」

「私、うまく出来てる?」

 答えはない。

 私は残ったひとかけらの理性を飛ばす。


 打ち付ける。果てる。また激しく打ち付ける。

 組み伏せる。果てる。シマの本能が私の中に迸る。


 心の奥底にこびりつく情欲、本能、寂しさ、不安。黒く蠢くそれらを、粘つく汗と体液で塗り潰す。今の私はメスであって、決してシマが憧れる大人などではない。寄せて返す快楽に、私の口から思わず笑ってしまうくらいの嬌声が漏れる。私は笑いながらシマを食った。彼がどんな表情をしているのかは分からなかったし、確認しようとも思わない。でもそれでいい。今はそれでいい。

「ねえ、シマくん」

「……」

「ごめんね」


 私達は――私はそうして、決して交わることのない交わりを、何度も、噎せ返しながら、夜通し、何度も繰り返した。

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