P.nipponensis(5)
降りしきる驟雨が車内にリズミカルな音を響かせている。クルマのワイパーがせわしなく動き、目の前の視界は開けてはまた雨に煙っていく。
信号が赤から青に変わり、アクセルを踏み込む。
大排気量のエンジンが唸りを上げ、重たい鉄の塊を加速させる。
助手席に座るシマが、半袖から伸びた腕を軽く擦った。
「冷房消そうか?」
「すみません……濡れっぱなしのまんまクルマに乗っちゃって」
「いいよ。どうせ古いから、汚れたって大して変わらないし」
シマは渡したタオルで肩や首を拭く。その仕草は、どこか子犬を思わせた。
「傘、持ってくれば良かった」
「この時期、天気は不安定だからね」
出かける時には既に黒い雲がかかっていた。
案の定、昼前に突然の雨。最寄り駅の出口から僕がクルマを止めていたロータリーまで駆け込む間に、彼は一瞬でずぶ濡れになってしまったようだった。
―――
週末。約束通りにシマが遊びに来た。
引っ越しのアルバイトは昨日で最終日だったのだという。
「オレ、それなりに体力もあるほうだと思ってたんですけど、やっぱりプロは違うなって。あんなにひょいひょい運べないですよ」
アルバイト代だけでなく、彼なりに良い経験になったようだった。
「結局は慣れだよ。最初は無理だと思っていても、やっていくうちに身体が覚えるから」
「もっと身体鍛えないとヤバいかもなあ」
「トレーニングしたいなら色々教えられるよ。でも、いくら鍛えても実際に動かせるかどうかは別だから」
「ボタンさんって」
視界の隅で、シマがこちらをしげしげと見ているのが分かった。
「うん」
「いや……何でもないです」
引っ越しでも仕事でも、実際にやってみないと分からないことはある。僕だってそれなりに体力に自信はあったけれど、最初は相当に苦労した。必要なのは体力ではなくて気力だと気付くのに、あの時、そう時間はかからなかった。必死に追いついて、必死にしがみついて、そしてふと後ろを振り返ってみれば、一緒に入った同期は僕を含めて数人しか残っていなかった。
にわか雨は通り過ぎ、やがて雲間から太陽の光がのぞきだす。気温は再びぐんぐんと上がる。行きがけにコンビニに寄り、軽食と飲み物、そしてビールを調達して車内に戻る。
「ボタンさん、お借りしたタオル、どこに置いておけばいいですか」
「そこらへんに置いておいていいよ」
「でも濡れてますから……ここかな?」
シマが助手席のダッシュボードに手をかける。
しまった、と僕は気付く。アレをクルマから出すのを忘れていた。
「ああ、そこは」
僕が止める間もなくダッシュボードが開く。
と同時に、中に収めていたモノがシマの膝へと落ちていく。
「痛っ」
「ごめんね、それは――」
ごとん、と重い音がして、シマの足元に僕の“道具”が転がり落ちる。
シマは慌てて落ちたそれを拾い上げようと屈んで――そこで動きを止めた。
「ええと。ボタンさん」
「うん」
「もう一回聞きますけど……ボタンさんって、もしかして」
「秘密」
僕はシマの台詞を遮った。
あれは収めておいた“護身用具”だ。隠すつもりもなければ見られてマズいものでもないのだけれど――さりとて、見せびらかすようなものでもない。
―――
「――すごい。見事に何も変わってない」
昼過ぎ。僕の部屋に入るなり、嘆息混じりにシマは呻いた。引っ越しの当日、荷物を降ろしてからまったく解かれていない段ボールの山を見て、シマは半ば呆れ気味だった。これがダメな大人の姿だ。こんな大人もいるということも、彼にとってはきっと“良い経験”になるだろう。
シマが手伝うと言ってくれたので、僕達はそのまま二人で段ボールの整理にかかる。仕事用のあれこれが入った箱を除けば、特に見られて困るようなものはない。というか、それ以外は何処に何をしまったか覚えていない。
「……」
一箱目の開梱で、シマは中を見るなり少し硬直して、再びゆっくりと箱を閉じる。
「これは……ええと……そこに置いておきます。後でボタンさんが整理して下さい」
「何が入ってたっけ」
僕はその箱の中身を確認し、それから水性ペンで段ボールの横に『下着』とメモをする。
食器。衣類。小物。トレーニング器具。中身を確認しては段ボールにメモをして(そもそも本来は箱詰めの時点でやっておくべきことなのだが)仕分けをしていく。箱詰めの際にだいぶ処分したのと、元々趣味らしい趣味もなかったから、いざ初めてしまえばそれほど時間はかからなかった。
「あ」
再びシマが声を上げ、またばつが悪そうに箱を閉じる。
中身は衣類だった。それも最近揃えたものだ。引っ越し直前、ショップの店員に促されるまま買って、袖を通してもいない“大人らしい”服。すっかり忘れていた。結局、ああいう格好をしたのはあの日だけで、今日も僕はラフなシャツとジーンズ姿のまま。
いっそこんな半端なモノなど捨ててしまおうかと思いつつ、僕はそれらに『衣類』とメモをし、タンスの傍に移動させた。
―――
夕方。少し早かったが、荷物整理も終わってしまったので食事に出ることにする。
さすがに一日食べていないと、僕も空腹になってきた。
「親には、友達のところに遊びに行って、夕飯も食って帰るって言ってあるんで」
目的は決まっている。以前に見かけたきり、入るのに踏ん切りがつかなかった店だ。
「じゃあ、ちょっと外で待ってて。支度するから」
そうして彼がドアを閉めたのを確認してから、僕は『衣類』と『小物』の段ボールの前に立った。
そして数刻後。
「ボタンさん。それ」
玄関のドアを開けた僕の姿を見るなり、シマはまた何か不思議なものでも見たような目をした。
「まあ――外に出る時くらいは“ダメな大人の姿”のままだと良くないかと思ったから。変じゃない?」
「変じゃない、です」
「よかった」
―――
新居から徒歩十分ほど。シャッターの目立つアーケード街の一角。
果たして、初めて踏み入れた店は“当たり”だった。
古くからある個人経営らしい無国籍料理屋。店内はそれほど大きくもなく、壮年のオーナーが一人で切り盛りしていて、僕がペスカトリアンだと告げると色々工夫して作ってくれた。前の店とは違ってオーナーはとても寡黙だが、料理の腕は確かだ。特にツナのキャセロールとポップコーンシュリンプがいい。
「美味しいよこれ。食べてみて」
「けっこうコショウ効いてますね。ケチャップなくてもいいくらい」
「こういうのがビールのつまみになるの」
「つまみって、そういうものなんですか」
「そう。塩っ辛いもの食べてお酒を飲むの。身体には良くないかもしれないけど」
ここはまた来れるな、と安堵しながら、僕はビールを呷る。
缶でないビールなど久しぶりで、それは暑さでくたびれた身体によく染みた。
「肉だけ食べないのって、何か理由があるんですか?」
手元にあるロールキャベツとバッファローウィング、そしてライムジュースを飲みながら、シマは料理を比べ見る。
「特に無いよ。宗教的なものでもないし。ただ昔、たまたま事情があってそういう食事が続いたの。そうしたら体調が悪くならなかったから、それでいつの間にか普段でも食べなくなっちゃった」
「もっと深刻な理由があるものかと思ってました」
「単なる好き嫌いみたいなもの」
「大人なのに?」
「大人なのに」
―――
「そういえば、アイツも牛乳が飲めないんですよ」
「お友達のこと?」
「あとアスパラと、トマトと、貝類全般。とにかく、むっちゃくちゃ好き嫌い多くて。オレには信じられないくらい。放っておくと野菜とかも残しまくるんですよ」
「よく知ってるんだ」
「そりゃあ、小さい頃からの付き合いなんで……って、またどうでもいい話しちゃいましたね。すみません」
「仲が良いんだね、その友達って」
「腐れ縁みたいなものです」
「大事にしたほうがいいよ」
「はい。実際――本人の前じゃ言いづらいですけど」
僕はジョッキに少しだけ残ったビールに目をやり、二杯目を注文する。
「ボタンさん」
「うん」
「それ……」
シマは少し遠慮がちな表情になり、僕の手元にあったビールの残りを手に取ろうとした。僕はそれを制し、テーブルの向こうにいる彼の口元に人差し指を置く。
「ダメ」
「一口、どんな味か飲んでみたいなって思って」
アルコールを入れたわけでもないのに、シマは顔を真っ赤にしながら呟く。
「煙草もお酒も、それが大人になるのに必要なものじゃないから」
僕は自分のことを棚に上げ、そんなふうに返した。
―――
大人なんて、成りたくてなるものではない。
時が来れば身体に変化が起こり、自分のこころとは関係なく“成ってしまう”。
ずぼらで、不確かで、その意味さえ理解出来ないまま、僕はそういう宙吊りの状態でここまで来てしまった。
身体の変化が起こって数年。
社会的にも大人としての立場に就いて、それも数年。
それでも僕はやっぱり成りきれていない。
だからシマは僕を参考にするべきではない。僕なんかが彼に応えてあげられることなんて、ほとんどない。それどころか、シマを利用し、それらしく振る舞うことで自尊心を保とうとしている。僕は決して“良い大人”なんかではないのだ。
―――
「今日はありがとうね」
「いえ、全然」
「これからどうするの。まだ時間は早いけど」
「あんまり遅くならないうちにそろそろ帰ろうかなって」
「そう?」
「はい」
「明日は? もう学校はじまるの?」
「まだ来月まで休みです」
「そっか。私も、君にお礼がしたかったんだけど」
「さっきまた奢ってくれたじゃないですか」
「あれはお店に入るのに付き合ってもらったお礼」
「それで充分ですって」
「何か出来ることはないかな」
「や、本当、大丈夫ですから」
「セックスでもする?」
「え……」
「……?」
「あ……いや、オレ、そんなつもりじゃ」
「そうなの?」
「や、別に、嫌ってわけじゃなくて。わけじゃない、んですけど」
「うん」
「でも、オレ……」
新しい街の、歩き慣れない商店街の夜。
生暖かく湿気った風が、僕とシマの間を吹き抜けていく。
「――とりあえず、家に戻ろうか。荷物も置きっぱなしでしょ」
僕は少しだけ歩む速度を緩め、ぎこちなく歩くシマの背中を見つめた。
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