P.nipponensis(4)

 引っ越してから数日が経った。


 少し狭くなった部屋。見慣れない窓からの景色。使いやすくなった洗面台。積まれたまま開封していない段ボール。

 外へ出て、通りを歩く。入ったことのない店。利用したことのないチェーンのドラッグストア。とりあえず野菜と魚介を扱う飲食店は見つけてはみたものの、まだ入っていない。

 この街で僕を知っている人間は一人もいない。僕も、この街の人間を誰も知らない。今の僕はまるで異星人のよう。ここにいていいのか、いてはいけないのか、それすらもあやふやで。


 何も海の向こうに引っ越してきたわけではない。元いた街にだって行こうと思えばいつだって行ける。でも僕を取り巻く環境は、生活圏は、確かに変わってしまった。それが引っ越しというものだし、それが僕の下した判断でもある。そして自分の行った判断には責任を持たなければならない。

 僕の頭の中で「だから重大なことだって言ったじゃない」と、あの居酒屋のマスターがけらけら笑う。行動が衝動的なのは事実だけれども、その結果を食らって動揺しないかと言われればそれはまた別の話だ。


 昔は寮に住み込んだり休日のたびに帰ったり、今にして思えばよくそんなことを繰り返していたものだ。今ならとても耐えられない。

 年を追って成長するのが人間というものというなら、僕は当てはまらない。陽の届かない海底で過ごし、少しずつ順応し、退化する生き物。例えるならばそんなところだ。


―――


「新しいところはどうですか」

「まだ慣れないよ」

「そういうの、大丈夫な性格かと思ってました」

「そんなことないよ」

 シマは僕を過大評価しすぎだと思う。それが彼の考える“大人”の在り方なのだろうか、そうだとしたら、僕はまったく応えることができない。

 彼は色々と自分の身の回りのことを話してくれていた。仲の良い友達とカラオケにいったり、引っ越しのアルバイトで稼いだお金をぱっと使ってしまったり、夏休みをしっかり過ごしているらしい。


「仲の良い友達は大事にしたほうがいいよ。そのままずっと友達でいられるように」

「そうですね」


 職場の同僚を含めて元々人付き合いの少なかった僕は、今回の引っ越しで人間関係をも置いてきた。その職場だって、一度距離を置いてもう数ヶ月も経っている。コミュニケーションとは程遠い生活。

 そんな中で、つい数週間前に会ったばかりのシマとこうしてメッセージのやり取りをしているのが唯一の“繋がり”というのも、よく考えてみれば笑ってしまう話だ。このメッセージアプリだって、彼が使い方を教えてくれなければきっと縁すらなかっただろう。


 こうして社会から離れていると、自分の価値が分からなくなる。

 僕は人からどう思われているのか、僕はどういう人間なのか。

 隠居生活なんてロクなものではない。


 そんな僕を、シマは好ましく思ってくれているらしい。


 寂しい――のだろうか。僕は?


―――


「周りの奴らは早く一人暮らししてみたいって言うんですけど、オレはあんまり思わないんですよね。親も、特に縛るようなことしないし。ちゃんとしたメシ食えるし」

「それは幸運なことじゃないかな」

「オレみたいなのが自由にジダラクやって一人暮らししたって、きっとメシ作るのも面倒で、たぶんそのまま餓死します」

「私が出来るんだから、君にも出来るよ。ご飯だって、ちょっと買い物すればいくらだって食べられる」

「ボタンさん、もうちょっとしっかりしてる性格かと」

「私がもし本当に“しっかりしてる性格”なら、目の前に積まれた段ボールだって今頃はキレイに片付いてるし、こんな時間ならもうとっくに寝てる」

「え、あの山を? まだ?」

「どの箱に何の荷物が入ってるかも忘れちゃった」

「ボタンさん、どうやって生活してるんですか」

「お金と横になれるスペースと冷蔵庫があれば、だいたい生きていける」

「ええ……」

「一人暮らしなんてそんなものだよ」


―――


「煙草なんて、どうして吸おうと思ったの」

「あれは……その。アルバイト先で吸ってる人がいて、半分くらい入った箱もらって。だから、自分も興味本位で。でももうあれっきりで」

「責めてるわけじゃないの。まあ始まりなんてそんなものだよ。私もそうだったし」

「ボタンさんも吸ってるんですか」

「おカネかかるし、止めた方がいいよって言われて、ほとんど続かなかった」

「おいしいものじゃないですしね」

「……早く大人になりたい、って思ってる?」

「え」

「そういうのに興味を示すってことは、そうなのかなって」

「どうなんでしょうね……まだ先のことで、全然。なりたいのか、なりたくないのか。……正直、面倒そうだなと思いますし」

「そうだよ。……大人って、けっこう、面倒だから」

「大人はいいなって思うけど、なりたいかって言われると」

「……君の考えは、正しいかもしれない」


―――


「……」

「ボタンさん、酔ってます?」

「……大丈夫」

「そろそろ、寝たほうがいいですよ」

「うん」


―――


 憧れと“自分もそうなりたい”かは別だ。


 はっきり言えば僕だってそうだ。若年でいた頃と成年になった今とで、劇的に良くなったことなんて少ない(酒だって、飲まなければ飲まないで……たぶん……きっと何とかなっていただろう)。否応なしに姿形が変わり、これまでの生活を取り上げられて、代わりに残るのは責任や義務。大人になるとはそういうもの。


 いつの間にか、僕はシマと直接通話をするようになっていた。

 彼と話す時だけ、僕はなるべく人生の先達者たる大人として振る舞う。

 言わば、それは僕が“大人である”ことを繋ぎ止めるためでもあった。

 僕はそのためにシマを利用していた。


 持ってきたトレーニング器具を取り出すこともなく、日課も忘れ、積まれたままの段ボールを空けることもなく、僕はそうして夜が来るたび彼と通話ばかりしていた。


 そんな生活をしている間に、あっという間にまた数日が過ぎた。


―――


 メッセージアプリを開く。


「今週末?」

「はい。今月最終週の土曜日で」

「駅に着いたら教えて。クルマで迎えに行く」

「ありがとうございます」

「またご飯でも奢るから」

「食べるところ、見つかったんですか?」


「見つけたけど、まだ入ってないところがある」

「まだ?」

「一緒に入って。一人だと入りづらそうだから」


 少し時間をおいて、返信。


「わかりました」


―――


 ある日の夕方。

 メールに気付いたのは、着信があってから半日も経った後のことだった。いつものメッセージアプリでなく、メールに未読がついていた時点で何となく予感はした。


『勤務復帰に伴う今後の打ち合わせについて』


 ついに来たか、と思った。僕はケータイから中身を開く。

 来月のはじめ、とりあえず一度本部に来いという内容だった。噂には聞いていたが、どうも“状況”が良くないらしく、それで僕にも声を掛けたらしい。色々と細かく、もってまわった事務的な言い回しになっていたが、内訳としては「本当はもっと隅に追いやっておきたかったが、とりあえず人手が欲しいので厄介者でもなんでも使えるものは使うことにした」と……そんなところだろう。


 ここで行けば、僕は復帰し、そしてあの場所に行くだろう。

 ここで断れば、僕は職務放棄と見做され、立場と職を失うだろう。


 あるいはそれでも良かったのかもしれない。気付かないふりをして、返信をせず、そのまま提示された期限まで無視し続ければ、ずっとこの生活でいられる。それだって、今の僕なら悪い選択肢には思えない。


 でも。

 とても残念なことだけど、僕は“大人”だった。そうあらなければならない立場に身を置いたのは過去の自分で、僕はそれらすべてに責任を取る必要がある。


 メールに返信し、それから冷蔵庫を開く。

 買い置きしていたビールは切れていた。


 買い出しに行くため、いつものシャツとジーンズを身に着けて玄関へと向かう。玄関にあった姿見に映る自分を見る。そこにいたのは中途半端な大人のメスが一人。格好ばかり大人で、その実、まったく成りきれていない何かの生き物。


 ――大人っていうのは、やっぱり面倒なものだよ。


 僕は、鏡に映る自分にそう話しかけた。

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