P.nipponensis(3)
ようやく引っ越しの日取りが決まった。
水道ガスの解約やら、各種の面倒な手続きやら、決まった途端ににわかに忙しくなった。その間にも、窓の外は猛暑だったり、時々にわか雨が降り注いだりと、季節が移り変わっている。
変わっていくもの。変わらないもの。変わらないと思っていたもの。変わらざるをえないもの。それらが僕のまわりにつきまとう。
―――
雑務に追われ、疲れて寝てしまったある夜、あの子が夢に出てきた。
僕達は裸になって、部屋の中でお互いに身体を預けながら静かな時を過ごしていた。テレビもつけず、外で降りしきる雨の音だけを聞き、お互い啄むように小さく言葉を交わしあい、くすくすと笑っていた。何を話したかは覚えていない。他愛もない話だったように思う。僕がそれらを認識するより先に、夢は儚くほどけていった。
目が覚めたのは午前三時。何時に寝たのかは定かでなかったが、冷房はとっくにタイマーが切れていて、身体中が寝汗にまみれていた。
床の上で寝てしまったことでの身体の痛み。そして同時に猛烈な劣情感に苛まれ、シャワーを浴びながら僕はそれを一人で処理する。やり場のない情動の残滓を頼りに、淡々と、念入りに、まさぐるように、機械的に。
―――
あの頃。先に大人になっていたあの子は、僕の変化をとても喜んでくれた。
それから、大人になるための色々なことを教えてくれた。普通、こういうことは高校の保健体育で教わるのが一般的だ。でもその頃の僕達なんてマトモに聞いてなんかいなかった。
体調のコントロール。身に着けるものの選択。単なる座学ではなく、いざ自分がそうなって初めて分かることはいくらでもある。だからあの子のアドバイスはとても有り難かった。もっとも、服装まわりだけは僕にとって本当にどうにもならなくて、彼女は結局「貴方はスタイルがいいから、シンプルな服装でいいよ」と言ってくれたけど(その時はホッとした気分だったけれど、今にして思えばいくらか呆れられていたのだろう)。
体調を崩した時も、この部屋でずっと看病してくれた。僕は彼女に頼ってばかりだった。あの子は心身ともに“大人”そのものだった。元々がしっかりした性格だったからこそ、先に成年を迎えてもきちんと対処できたのだと思う。これが逆なら、僕はきっとしどろもどろで何も役に立たなかっただろう。
ともかく、僕達は変化を乗り越えて、それでも二人で居続けた。
――でも、私達の“愛し方”は変わっちゃうね。
あの子はそう笑っていたけど、僕達にとってそれはちょっとした笑い話で、些細な問題でしかなかった。この関係はいつまでも続いていくものだと信じていたし、ずっと変わらないと思っていたからだ。
―――
排水溝に流れていく体液を見つめながら、脱力感に身を任せてへたりこむ。情けなさと諦めと安堵感が入り交じったそれらを、僕は手早くシャワーで洗い流す。
あの夢は、きっとこの部屋の残り香みたいなものだったのだろう。
それきり、僕はしばらく夢を見なくなった。
―――
ところで、あの子が僕の身体に残したものがある。
僕の耳に空いたピアスホールがそれだ。
大人になったら一緒に付けたいと思っていたの、と、あの時、彼女は珍しくワガママを言った。手に持っていたのはやけに物々しいピアスガン。なんだか拷問具みたいだと顔をしかめたら、あの子はちょっとむくれてしまった。
痛みはほんの一瞬だった。それで僕の耳には穴が空いた。職業柄、日常的に着けることは出来なかったけれど、オフの日には二人で付けて出掛けていた。
お揃いのピアスは、当時の僕らにどこか特別な繋がりをもたらしていた。
――負った傷ならやがて元に戻る。
でも空けたピアスホールは戻らない。
あらゆる物事が過去に戻ることがないのと同様に。
翌日。僕は小物が詰まった段ボールのひとつを解いて、中からアクセサリの入ったケースを取り出した。どれくらい前に買ったものだか、僕が選んだものだか、彼女が選んだものだか、何も分からないピアスがいくつか。キャッチだけがどこかにいってしまって使えなくなってしまったものもある。使えるものを適当に拾い、念のため煮沸消毒をして、それを空いた穴に片っ端から付けていく(確か当時は調子にのって、耳たぶだけでなく、側面の軟骨なんかにいくつも空けたものだ)。
鏡の前に立ち、長い髪をかき上げて確かめる。センスも何もなく、適当にぶら下がったピアス。これがいわゆる“大人らしさ”の形なのか僕には分からない。鏡に映っているのは、ただ外見ばかりが変わっただけの“何か”に過ぎない。
僕は自嘲しながらピアスをアクセサリケースに戻し、冷蔵庫に残る最後の缶ビールを呷った。
―――
――シマは、たぶん大人に憧れている。
親や兄弟ではなく、それ以外の“大人”という存在を気にしている。あらゆるヒトがそうであるように、僕だって彼のようにオスだった頃はあるし、何となくその気持ちは分かる。だからなのかどうなのか、シマのアプローチに対して、僕は“衝動的に”応えてしまった。
ならば――外見だけでもそれらしく振る舞うことが彼に出来るせめてもの礼儀だろうか――と、僕は柄にもなくそんなことを考える。
―――
そうして忙しく奔走しているうちに、あっという間に引っ越し日が来た。
引っ越し当日は相変わらず茹で上がるような暑さで、テレビでは熱中症注意報とやらが出ていた。そんな中でも引っ越し業者は時間通りにきっちりと来て、きっちりと仕事を始める。
引っ越し業者のメンバーの中に、シマの姿を見つけた。彼はアシスタントで、物を運ぶというよりはクッション材の張付や梱包材のまとめなんかの雑務をやらされていた。“若さ”なんて言葉を使いたくもないけれど、単純な腕力だけなら他のメンバーよりきっと彼のほうが上だ。でも荷物運びはそれだけではダメで、経験だとかコツだとかのほうが重要らしい。実際、正社員と思われる成年メンバー達の手捌きはひときわ見事だ。僕なんかが悪戦苦闘しながら積み上げていった段ボールや家具を、彼女達はひょいひょいと運び上げていく。
シマは僕の姿を見るなり、何か不思議なものでも見るような目つきをした。
これで三度目。いいかげん見慣れてほしいものだと、僕は彼を見返す。
「ほらシマくん、そこの養生終わったら、クルマから毛布取ってきて」
「あっはい」
忙しく動き回る成年メンバーに促され、シマはもう一度だけチラリとこちらを見て、それから仕事に戻っていった。
すいすいと鮮やかに、部屋から荷物がなくなっていく。この部屋で過ごした思い出も、いくばくかの名残惜しさも、例えようもない感情も、段ボールに梱包されて事務的に片付いていく。
やがて荷物のほとんどがトラックに積まれると、リーダーを思しきメンバーが二十分の休憩に入る旨を僕に告げた。“あと一踏ん張り”すれば全部終わってしまいそうなものだが、時間ごとに休憩を挟むのがルールなのだという。
「お疲れ様です。これ、よろしければ皆さんで」
「ありがとうございます」
僕は差し入れの缶コーヒーを人数分渡す。彼女達は礼を言って、外に止めたトラックに戻っていく。
すっかり空っぽになってしまった部屋の隅で、僕は自分で持っていく分の段ボールにもたれかかり、ケータイを取り出す。メッセージが二件。
「ブラック」
「オレ、飲めないんですけど」
僕が手渡したのは全てブラックコーヒーだ。
「飲めるようになりなよ」
「頑張って飲んでますけど」
ちょっとした意地悪になってしまったかもしれない。ブラックを飲めるようになるのが大人の条件……なんてことを言うつもりもないけれど。
また返信。続けて二件。
「その格好」
「どうしたんですか」
やっぱり来たか、と思った。
仕事中、たぶんシマはずっとその質問を我慢していたのだろう。
―――
シマを驚かせてみたかった、というイタズラ心が働いたのは事実だ。
数日前、僕は引っ越し作業の隙を縫って美容室へ行った。伸ばしっぱなしにしていた髪を切り整え、ウェーブをかけ、ライトブラウンの色を入れた。それから街に行き、洒落た色のカットソーやらサラサラとした素材のロングパンツやら……やたら僕の背丈を気に入ったらしい店員に勧められるまま買っただけのような気もするが……そういうものを揃えた。結局、まだ袖を通していないものすら出てきてしまい、衣類の段ボールをひとつ増やす羽目にもなった。引っ越し前にする行動としてはだいぶ不適切だ。
ともかくそんな感じで、僕は“外見だけでもそれらしく振る舞って”みたわけだ。それから――耳には、ピアスも付けている。
メッセージのやり取りは続く。
「ボタンさんがそういう格好すると思ってませんでした」
「私もこういう格好くらいするよ。大人だから」
「大人」
「それで、どう」
「どうって」
「この格好」
ややあって返信。また二件。
「いいと思います」
「引っ越しの日にする格好じゃないと思いますけど」
―――
「シマくん。この荷物、お客様のクルマにお運びして」
「わかりました」
休憩が終わり、引っ越しも最後の一仕上げ。自前で持って行く分の段ボール二つをクルマに積む作業。
「そちらは重いですから、大丈夫ですよ」
僕はあくまで“客”としてシマに声をかける。
「いや、え、いえ、オレ……自分がお運びします」
案の定、予想外の重さに手こずるシマの背中を見て、僕の顔には少々意地の悪い笑みが浮かぶ。
「ぐ……」
重さと緊張でぷるぷると震えているシマに、僕は続けて応える。
「私が運びますよ」
「……すみません」
「じゃあシマくん、もう一つの方をお運びしてあげて」
段ボールを持ち、外に出て駐車場へ向かう。
期せずして、僕とシマは二人きりになる。
「何入ってるんですか、それ」
シマは不満げに漏らす。
先程とは打って変わって、いかにも若年らしい、いつものシマ。
「トレーニング器具」
「こっちは」
「仕事道具。壊れやすいものもあるから気をつけてね」
「はい」
駐車場の端にある僕のフルサイズSUV(Shrimp Utility Vehicle)まで行き、後部ハッチを開けて積み込む。重い段ボールが積み込まれ、クルマのサスが沈む。
「すごいクルマっすね」
シマはもう一つの荷物を積み、それからまじまじとSUVを見て、若年らしく目を輝かせる。
「燃費も良くないし、維持するのもけっこう大変だけど、色々便利だからね。仕事柄、多めの荷物を積んで運転することもあるし」
「ボタンさん、もしかして、探検家とか?」
「秘密」
「身体鍛えてるし、なんか仕事道具とか言ってるし、そういうのかなって」
「どちらかといえばインドア派だよ、私は」
炎天下の作業でかいた汗を上着の袖で拭い、シマはこちらに向き直る。
「あの」
「うん?」
「引っ越すの、隣の県なんですよね」
「そうだよ」
「結局、あれから会えなかったし……それで、オレ、夏、まだ、暇なんで」
「うん」
「……その、遊びに行っても、いいですか」
振り絞るようなシマの問いかけに、僕は無言でケータイを取り出し、目の前にいるシマ当てにメッセージを打ち込む。
シマはすぐにポケットから自分のケータイを出し、メッセージの内容を確認する。
「これ……」
「新居の住所」
ぱっとシマが顔を上げ、何かを言いかける。
「シマくーん! 養生剥がすの手伝って!」
それを遮るように、アパートの向こうからお呼びがかかる。
「……だって。もう一仕事あるみたいよ」
「あの、オレ」
「うん」
「今度、行きますから」
そう言って、シマは駆け出していった。
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