P.nipponensis(2)

 二日酔いが襲ってくると、この世の全てを呪いたくなる。自分がこんなことになってしまったのも、引っ越しなんて面倒なことをしたのも、前後不覚になるまで飲み過ぎたのも、全て世の中のせいにしたくなる。

 もちろん、誰に言われるでもなく、それらは全部僕自身のせいに他ならない。

 分かった上でこうして毒づいている。


 水を多めに飲み、二日酔いに効く(らしい)インスタントのシジミの味噌汁を口にして、またスポーツドリンクを飲む。睡眠とアルコールで干からびた身体に水分を注ぎ込んでいく。

 それからダンベルを取り出し、ワンセット。続けて腕立て伏せ、腹筋、体幹トレーニングもワンセット。ひたすら無心で自分の身体を追い込む。音楽もテレビもつけず、ただ己の筋肉が締め上げられる感覚と向き合い続ける。その目的は“いつか戻る日のため”。


 けれど、それは単なる建前のようなもので。

 つまるところ、僕はただ余計なことを考えたくなかっただけなのだ。


―――


 ふと気付くと、部屋の隅には空のペットボトルが転がっていた。昨日の夜、あの若年――シマから貰った炭酸水のボトルを持って帰ってしまっていたらしい。


 細かいところは思い出せないが、何を話したかは覚えている。彼のことも聞いた。高校二年生。夏休みを利用した、引っ越し業者の短期アルバイト。稼いで何をしたいというわけでもなく、単に社会勉強として働き始めたという。健全だ。僕なんて、同じ年の頃は何をしていたかも覚えていない。


 一目見た時から、僕の事が“気になっていた”のだという。


 あのコンビニで再会したのはたまたまのこと。初めてのアルバイトで初めての仕事場で、初めて見た客。それがまさかヘベレケになって道端に座り込んでいたなんて、向こうからしてみれば運命というよりタチの悪いジョークの類だろう。色々と気を遣われただけのような気もするが――ともかくまあ、僕は彼に好意を持たれたらしい。

 そう思われるのは悪い気分ではない。誰だってそうだ。


―――


 夕方頃、傍らにあったケータイがメッセ―ジの着信を伝えた。


「昨日は無事に帰れましたか?」


 ああ、と僕は唸る。アドレスの交換をしていたことなんてすっかり忘れていた。


「大丈夫」

「シジミ汁、飲みましたか」

「飲んだ」

 炭酸水と一緒にコンビニ袋に入っていたシジミの味噌汁。あれはシマのアドバイスによるものだ。


 ややあって、また返信。


「昨日あそこにいたこと、秘密にしてもらえると」


 一瞬何のことだか分からず、それからまた、ああ、と独り言がこぼれた。

 喫煙は成年になってから。

 酒も煙草も、身体の変化に影響を及ぼすとかなんとか、色々と言われている。だから若年の間は禁止されている。とはいえ、僕だって若年の頃、寮の先輩に誘われて興味本位に手を出したことはあった。それなりにカネもかかるし、あの子はそういうのを嫌うから、寮から出た後は吸わなくなったけれど。


 誰だって一度は大人の真似事をしたがる。やってはいけないと言われればやりたくなる。僕がそうだったのだから、彼もたぶんそうなのだろう。

 そもそも僕にその秘密をバラすような人間関係があるわけでもない(職業柄どうするべきだったのかは別にして)。僕は彼のことを何も知らない。身体に悪いからダメだ、とも言わない。何も知らない相手に忠告をするほど僕はお節介ではない。


 僕はただ「わかった」とだけ返した。返事はそれから来なかった。


―――


 僕の行動原理はいくらか“衝動的”らしい。


 でも、これは僕だけなのだろうか。

 僕以外の皆は、きちんと考えて、納得して、その先の始末まで考えた上で行動しているのだろうか。

 このあたりはきっと「大人だから」という話ではない。若年も成年も関係ない。例えばそう、彼は……シマはどうか。昨夜、酔っ払った僕をコンビニの前で見つけ、そして声をかける時、悩みに悩んだ末に声をかけたのか。それとも“衝動的”な行動の末だったのか。メッセージのアドレスを交換しようと切り出す時は、どれくらい悩んでから行動に移すことができたのか(僕は酔っ払って覚えていないが)。


 考えても答えが出るわけではない。もし僕に“考えるだけで物事や他人のすべてが理解できる能力”があるのなら、そもそも今だってこんな殺風景な部屋でケータイを片手にビールを飲んでなんていない。


 確かに僕はいつも衝動的だ。思えば、実家からは早々と出てしまっていたし、つくづく面倒だと思っていた職にもいつの間にか就いてしまっていた。人生で重大なことらしい引っ越しもさっさと決めてしまったし、部屋の片付けだって、ぽんぽんぽんと悩むことなくあっさり終わってしまった。その前だって、僕は――。


 ああ。

 それでも“別れ”を切り出したのは――あれは僕ではなく、あの子からだったか。


―――


 翌日、引っ越し業者から連絡があった。やはり夏はスケジュールが詰まっているらしく、予定日は少し先になってしまうとのことだった。

 職務に復帰する目処も立ってはいない。この隙間みたいな時間を、この一人でいるにはあまりに広く片付きすぎた部屋で、もう少しだけ僕は過ごし続けなければならない。


 だから僕は、また“衝動的”な行動に出た。


「週末、お昼でも」

 ただそれだけのメッセージをシマに送る。


 返事が来たのは、その日の夜だった。


―――


 出来心といえば出来心だ。

 つい“引っ掛けて”しまったものの、何を着ていけばいいものか。

 最低限の衣類を残してほとんどは段ボールの中に収めてしまった。

 慣れた相手とばかり会う生活が続いていたから、あるのはせいぜいシャツとジーンズくらいなものだ。


 ――貴方はスタイルがいいから、シンプルなものでいいよ。


 あの子はそう言っていた。かつて親や友人からは「服装に気を遣わないと大人になれない」と言われていたから、そう言われるのはいくらか楽だった。その分、あの子はいつも服装に気を遣っていた。だから僕も、いつかその“おしゃれ”を学んでみようかと思っていたけれど、とうとうその日が来ることは無くなった。


 結局シャツとジーンズでいいか、という結論になった。長く伸びすぎた髪も……まあ、いつものようにシュリンプポニーにまとめてしまえばいいだろう。


―――


 週末。駅前広場(ウネウネとした銀色のオブジェがある。『海老の舞い』というらしい)で待ち合わせ。前日に深酒をして寝坊したので十分遅れ。待ち合わせ場所についてみると、彼は既に待っていた。

「あ……こんちわ」

「ごめんね、お待たせ」

「や、オレも、さっき来たばかりなんで」

「うん。じゃあ二人で遅刻?」

「はい……そういうことですかね」


 それから二人で歩き出す。今日の名目は――この前に介抱してくれた礼、ということになる。食べるところで知っている場所なんていつもの料理屋しかなかったが、この前に行ったばかりでまた顔を出すのもなんとなく気が引けた。

 結局、昔、あの子の勧めで入ったことのある洒落たカフェに行くことにした。食べ盛りには物足りないかもしれない、と言うと、シマは「全然大丈夫です」と応えた。


 シマは僕の少し後ろを歩いてついてくる。週末の昼は人通りも多く、たびたび僕は彼とはぐれていないかと後ろを振り返る。振り返ると目が合って、そのたびに彼は目をそらしていた。

 信号で止まり、僕とシマは並ぶ。


 改めて見ると、シマの背丈は確かに若年の平均身長よりも小さい。


 というよりも。

「あの」

「うん」

「背、大きいですね」

「192cm」

 僕の身長が無駄に大きいだけなのだが。


―――


「この前はありがとうね」

「いえ」

「普段からあんなに飲んでるわけじゃないからね。あの日はたまたま」

「オレ酒飲んだことないんで分からないんですけど、酔っ払うとどうなるんですか」

「視界がグニャグニャになって、思考もグニャグニャになって、何もかもがどうでも良くなるの」

「それくらい気持ち良くなるんですか」

「逆。全部を呪いたくなるくらい、気持ち悪くなる」

「じゃあ何で酒なんか」

「なんでだろうね」


―――


「お酒も飲んでないのに、どうしてシジミの味噌汁が二日酔いに効くなんて知ってたの?」

「親が教えてくれたんですよ。二日酔いにはシジミのオルチニンが効くって」

「よく飲むの?」

「いえ、全然。親もまったく飲まないです。酒も、シジミ汁も」

「じゃあ、ただの豆知識?」

「はい」

「……」

「実際、効きました?」

「たぶん効いたんじゃないかな。二日酔いにカニミソが効くって言われて食べても、きっと効いたと思うよ」


―――


 店に入り、二人で窓際の席に向かい合わせで座る。僕はメニューを手に取り、前回食べた料理がないか探す。あった。カニパスタだ。メニューを閉じ、シマに渡す。

「もう決まったんですか」

「好きなの食べていいからね」

 前に来た時、あの子は何を食べただろうか。少し考えたけれど思い出せない。


「こういうところ入るのって、初めてで」

「私も普段は入らないよ」


 窓の外は炎天下だが、店内は冷房が効いている。


「オレ、この“季節のパスタ”にします」

「ラージサイズじゃなくていいの」

「いや……あ、じゃあ……ラージサイズで」


 向かいに座るシマはどこか落ち着かない表情で目線を彷徨わせている。

 僕は気付くと左腕で頬杖をつき、シマのことをじっと見ていた。

 こういう行儀の悪さを、あの子にいつも注意されていた。

 自分ではだいぶ改善したつもりだったのだけど、また戻ってしまったようだった。


「?」

 シマが僕の視線に気付き、こちらを見返した。視線はそのまま下にうつる。

「けっこう、鍛えてるんですね」

「うん」

 僕の腕を見ていたらしい。

「ボタンさんって、もしかしてスポーツ選手?」

「秘密」

「背は高いし、鍛えてるし。だから、バスケとか、そういうのかなって」

「少なくともボールを使う職業じゃないよ。自慢じゃないけど、私、ボールを投げるのはどんなスポーツでもヘタなの。テニスでもバスケでも」

 これは事実だ。走ったり跳んだりするのは得意だが、僕はいわゆるスポーツの“コツ”が分からない。ある種の運動音痴なのだと、当時はよくからかわれた。

「オレ、野球やってたんですよ、中学の頃まで」

「へえ」

「親友と二人でバッテリー組んでて。オレがピッチャーで、そいつがキャッチャー」

「仲が良いんだ」

「けっこう有名になってたんですよ。それで調子乗ってて、地区予選に出たらボッコボコにされましたけど」

「予選に出ただけでも、良い経験になったんじゃない?」

「まあ……そうですね」

「今はやってないの?」

「興味なくなったわけじゃないんですけど、高校に入ったら、いつの間にか」

「そうなんだ」

「だから、すっかり筋肉も落ちちゃって」


 自分達にはこれしかない、これをやっている時間が一番楽しい、なんて思ってることでも、時間が経つとうっすらと消えてしまう。スポーツや趣味に限ったことじゃない。人間関係でもそうだ。薄情や飽き性というわけではなく、それが普通のこと。


「先に野球辞めたのはオレのほうだったんです」


 でも。


「アイツはもしかしたら野球辞めたくなかったのかもしれない。でも辞めたんですよ。その時、一緒に」


 スポーツでも人間関係でも、それらを乗り越えてなお続く関係性があるというなら。

 きっとそれは――。


―――


 運ばれてきたパスタを二人で黙々食べる。カニパスタに浸るくらいのオリーブオイルをかける僕を、シマはなぜかずいぶんと驚いたように見ていた。そんなに不思議な食べ方だろうか。


 食べている最中、ようやく思い出した。

 あの時、あの子は季節のパスタを食べていた。二人で「意外と量が多いね」なんて言いながら食べて、結局あの子の分もパスタも少し僕が食べたのだ。


 いつもそうだ。食事の量も、成長も、僕のほうが上だった。

 でも先に大人になったのは、あの子のほうだった。


―――


「――なんか、すいません」


 食事を終えると、シマは僕を見つめながら謝ってきた。

 黒目がちな瞳。幼さの残る顔立ち。

「せっかく食事に誘ってもらったのに、オレ、さっき自分の話ばっかりしちゃって」

「謝らなくてもいいよ。君の話を聞くのは面白かったから」

「でもボタンさん、思い詰めたような顔してたから」

「私、いつもそういう顔してるってよく言われる。全然気にしてないから大丈夫」


 見抜かれていた。そして嘘をついた。

 本当は、こちらがシマに謝るべきだったのだろう。

 こんな場所でさえ、僕はかつての記憶を重ねていたのだ。


 いくら衝動的な誘いでも、それなりの礼儀は必要だ。

 でもその心構えが出来ていないのは、むしろ僕の方で。


 それからいくらか雑談を交わし、僕は伝票を持って席を立つ。


「オレ、自分の分、出しますよ」

「こういう時に奢るのは、大人の役目だから」

 なにが大人だ、と僕は心の中で自嘲する。


 そして、店を出てからは特に寄るところもなく、僕達は自然と駅の前で別れた。

「ボタンさん」

 去り際、背中から声をかけられる。

「うん?」

「オレ、今、部活もしてないんで。夏、暇なんで、だから」

 ゆっくりと、一つずつ選ぶように、シマは言葉を繋いでいく。

「もしボタンさんさえよかったから、また……」


「うん。わかった。またね」

 だから僕も、シマにそう応えた。

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