P.nipponensis(1)

 部屋の片付けをしていたら、あの子の使っていたコップを見つけた。


 コップには可愛らしい金魚のイラストが書いてある。金魚は……多くの動物は生まれた時からオスとメスが決まっているのだという。生まれた時にオスであればずっとオス。メスであればずっとメス。そんな単純な生き物ならどれほど良かっただろう。


 彼女が出て行ってからもう二週間――それとも三週間か。時の流れは曖昧に、緩やかに、しかし確実に物事を過去へと摺り下ろしていく。

 僕はコップを手に取り、燃えないゴミの袋へと放り込む。


 ――貴方が何を考えているのか、もうわからなくなっちゃった。


 あの子は泣きながらそんな事を言った。僕は、そうかもしれない、と返した(気がする)。それは正しい。何を考えて生きているのかなんて、自分自身でさえ理解していないのだから。


 二人暮らしの残滓をゴミ袋に詰め込み、部屋の隅へと追いやる。そして冷蔵庫から缶ビールを取り出し、呷る。


 大人になってもずっと一緒にいようと交わした約束は、些細なことで、あっという間に崩れ去った。

 別れとか、未練とか、後悔とか、僕達はきっと“変わってしまうこと”を恐れていた。それらは見えない闇のようで、当時の僕らは、それがひどく大きく、苦いものに思えていた。なるべくならそんなものは味わいたくなかった。


 あの子は今どうしているのだろう。

 未練とか後悔とかで、潰されているのか。

 それとも、とっくに他の拠り所へと辿り着き、変わったことを受け入れたのか。

 あるいは――僕のように、こうして酒に逃げているのだろうか。


―――


 ともかく、この部屋は、一人で住むには大きすぎる。


 だから僕は、引っ越すことにした。


―――


 朝。干からびそうな夏の日差しとチャイムで目を覚ます。

 手元の時計を見る。10時。引っ越し業者が見積もりに来る予定だったことを思い出す。僕は散らばっていた空き缶をゴミ箱に放り込み、寝癖のついた髪を少しだけ梳かし、ヘアゴムでひとくくりのシュリンプポニーにまとめる。そろそろ切った方がいいだろうか。


 ドアを開ける。この暑い中、律儀にツナギを来た引っ越し業者が三人。

 内訳は成年が二人。若年が一人。


 三人を部屋に入れる。リーダーと思しき成年の一人が指示をし、もう一人の成年が棚やら段ボールやらを見てメモを取っていく。残る一人の若年は、部屋の隅で所在なさげに突っ立っている。

「はい。この量でお見積もりさせて頂きます」

「貴重品……ええ、そちらの段ボールですね。これはご自分でお運びになられるとのことで。はい、承知いたしました」

「あの箱はとても重量があるようですが。ああ、トレーニング器具ですね」

「それでは日時のご希望を――最近は夏でもお引っ越しされる方が多いので、ご希望は第三希望まで――」


 下見はほんの三十分で終わった。


 その最中、どうにも視線が気になった。

 視線の主はあの若年だった。夏の間のアルバイトといったところだろうか、日焼けした健康そうな肌と肩幅の広い身体……。


 それから、彼の背は少し小さかった。


―――


 どんな気分でも、決まった時間になれば身体は自然に動く。

 日課のトレーニングをワンセットこなして、シャワーを浴びる。

 あの子がいた頃は、お手製だなんていって、レモン入りのドリンクをくれたものだ。あれからしばらくはピッチャーが冷蔵庫の中にあったが、それも昨日シンクに捨ててしまった。


 冷蔵庫の中が空っぽになったこと気付いたので、食事ついでに駅前の小料理屋へ飲みに出かける。

 平日は客も少なく、僕はいつものようにカウンター端の席に座る。いつものビールと、いつものツマミにシュリンプカクテル。引っ越す事が決まったと告げると、オーナーは少し驚いているようだった。

「これから貴方、何処で食事を取るのかしら」

 チリソースにつけた剥きエビを口へと放り込み、ビールで流し込む。引っ越した先のことなんて何も調べてない、と伝えると、オーナーは呆れかえったような顔をした。僕はいつも、会う人にこういう顔をさせてしまう。あの子もよくそういう顔をしていた。

「ふつう、引っ越しってもっと重大なものよ。人生が少しだけ変わってしまうきっかけになるような――ね」

 僕は重大なものを重大だと思えないのかもしれない。それほど太い神経と度胸を持っているか、もしくは単にムシンケイで迂闊なだけか。まあ、確実に後者だろう。


「あの子とケンカした時も、別れたって言った時も、貴方は同じような顔をしていたわね」


 目の前にアンチョビのピザが置かれる。


 ――確かに、この店の代わりを探すのは容易いことではない。ペスカトリアンの僕にとってここは何を頼んでも安心できる店だった。もし見つからなくても、頼むメニューを選別するか、さもなければこんな些細な主義など捨てれば良いだけ。でもそんな器用な性格であったなら、僕は今頃もっとマトモな人生を送っている。

 タバスコをかけ、ペッパーミルで黒コショウを挽き、たっぷりのウスターソースとともに食べる。

「一人じゃ食べきれないんじゃない?」

 あの子はいつも、大きなアンチョビが乗ったほうを僕にくれた。今は、ピザでもサラダでも一人占めだ。僕の指定席があるように、かつては隣も指定席“だった”。ほんの数週間前まで。

「そう。その顔。全然、ムシンケイを装って、気にもしていませんなんて顔をしておいて、実際はどうしようもないくらい傷ついてる。話を聞いて欲しくてたまらない、何があったか聞いて欲しい、って。まあ、聞いてあげないけどね」

 僕は最後の一つになった剥きエビでチリソースをすくいとり、口に入れる。

 ビールを飲み干し、二杯目を頼む。牡蠣のアヒージョと“カニカマ”も追加する。


「でね。そういう時、貴方は絶対に“飲み過ぎる”のよ」


 この店は、どうも僕のような客をもてなす気がないらしい。

 料理が美味くて、雰囲気がよくて、嫌なオーナーのいる店。


「本当に引っ越すつもり?」

 今さらそんなことを言われたところで、もう荷物もまとめたし、業者に見積もりも頼んでしまった。


 ビール。ビール。ジン。ライムジュース。

「まあいいわ」

 そしてジン。またジン。


「いつでも、帰ってきていいからね」


 オーナーの言う通りだ。いつもの調子で頼みすぎて、食べかけの皿ばかりが増えていく。すっかり冷めたピザの一切れをつまみながら、僕はオーナーの言葉を脳ミソの片隅でぼんやりと聞いていた。


―――


 引っ越しを決めたのが単なる衝動だというなら、衝動だろう。衝動以外の何者でもない。あの子もきっとそんな僕に愛想を尽かした。後先のことを考えていなくて、衝動的で、何を考えているか分からない大人もどき。もし同じ性格の相手がいたら、僕ならきっと一年も持たない。


 つまるところ僕は大人になれていなかったし、大人の真似事をするにも下手くそだった。大人になることの意味が分からないまま、こんな出来損ないが生まれてしまった。その結末がこれだ。変わっているようで、何も変わっていない。


―――


 ふらつく足でバス停から降り、アパートまで歩く。単なるアスファルトのはずの地面は波打っていて、敷かれた歩行者用の白線がぐにゃぐにゃと歪む。あれだけ飲んだのにひどく喉が渇くのは、連日続くこの熱帯夜のせいだけではないだろう。


 どうにか最寄りのコンビニまで辿り着き、店内に入る直前に力尽きた。背中からは汗が噴き出し、全身に力が入らない。駐車場の隅に置かれた灰皿の傍にへたり込み、猛烈な吐き気と戦う。


「……大丈夫ですか?」


 灰皿の傍にいたヒトに声をかけられる。薄暗がりで見えづらかったが――それはどうも若年のようだった。

「あ」

 何かに気付いたように、彼は慌てて持っていた煙草(半分も吸っていないようだった)を灰皿に投げ込み、僕の前にしゃがみ込む。

「……何か、買ってきましょうか」

 いまどき殊勝な若年だな、と思った。

 もし僕なら、こんな酔っ払いなど無視している。


―――


 日に焼けた肌をした、背の低い若年。


 彼が買ってきてくれたのは、ペットボトルに入ったレモン風味の炭酸水。

 あの子が作った“特製ドリンク”とは似ても似つかない、人工的な香料の味。

 だけども、それは乾いた喉へするすると染みこんでいく。


「あの」

「……」

「この前、引っ越しの時、会いましたよね」

「……」


―――


「オレ、シマっていいます」


 こんな不審きわまりない酔っ払いを相手に、何故そんな言葉をかけたかは分からなかった。それでも、名乗られたからにはこちらも名乗らないといけないだろう。470mlの強炭酸水を、刺激と共に一気に飲み干す。喉と脳ミソが潤いを取り戻す。

 僕は頭を上げ、彼を見る。


 黒目がちな瞳。少し丸い、幼さを残した顔立ち。短く切り揃えた髪。


「“私”の名前は――ボタン」


 夏の熱帯夜。午後11時。コンビニの前。


 僕はこうして、彼と出会った。

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