P.latirostris(3)

 あれから数日が経った。

 雨の日がしばらく続いたが、大学の入学式は一転して快晴になった。


 同期はまだほとんどが若年だった。その後のガイダンスだとかいうので在学生が出てきたけれど、それも八人ほどいた中で成年は二人。

 だいたい二十から二十四くらいが変態のタイミングとして一般的だというが、それでもここ最近は全体的に少し遅くなりつつあるらしい。


「若年でも成年でも、学びの場に区別はありません。身体がどうなろうと、精神は同じなのですから」

 成年の“先輩”が言う。いかにも真面目で、品の良さそうなヒトだった。


 先生を除けばほぼ若年しかいなかった高校に比べ、俺を取り巻く状況は一気に変わった。若年と成年が入り交じり、同じキャンパスに集う。それが俺の新しい世界。

 大人になんてなりたくねえよな、なんて言っていても、時間は問答無用で過ぎていく。


―――


 さらに数日後。歓迎ムードはすぐに終わり、びっちりと組まれたカリキュラムに沿って授業が続く。もう少しアバウトで自由度のあるものかと思っていたが、スケジュールはほとんど高校と変わりがないようだった。変わったことといえば制服を着なくて良くなったことくらいだ。


 食堂で昼飯を食っていると、上級生と思しき一団がテーブルを囲んで、ゼミがどうとか卒論がどうとかと話していた。若年と成年の割合は約半々に見える。

「いや、ギリッギリ。もしこのタイミングで“来た”らマズいんだけど」

「僕、それ食らって単位落としかけたからね」

「提出延期の言い訳にならないの?」

「ならないならない。実際、私ならなかったもん」

「マジで?」

「一年生の時の二月頃だっけな、私けっこう早めに来たから。あの教授、『いつ“来て”も良いよう備えておくのも学生の努めです』なんて言っちゃって。必修科目の期末レポートでそれやる? って感じで」

「分かったら苦労しないっつーのな」

「で、その後もしばらく身体ガッタガタになるわけでしょ」

「あれ辛いの?」

「辛い。むっちゃ辛い。特に最初のほう」

「だから実家帰ったんだよ僕。それまで一人暮らしで適当な生活してたから。ガッタガタで何も出来なくなっちゃって」


 彼ら彼女らは、互いの区別なくフランクに会話しているように見えた。


―――


「大学。キレイな大人とかいた?」


 ある日の夜、シマからメッセージが入っていた。

 何の意図で送ってきたのか、それを図りかねて、しばらく返信できずにいた。たくさんいたよ、とか言えばいいのか、そんなでもなかったよ、とか言えばいいのか。


 ――特には。


 ただそう返した。それっきりシマからの返信は来なかった。


―――


 あの先輩、頼めばヤらしてくれるらしいぜ、とか。

 いつどうなるか分からないんだから今のうちに楽しむべきだ、とか。

 あのヒト、産むために休学してたんだってよ、とか。

 一回関係作っておいてその後も続くのがベスト、とか。


 何となく席を作った若年同士のグループで、色々な事を聞いた。大学はそういう場でもある。“関係”の坩堝。ヤったとかヤってないとか、だいたいそういう話になる。噂には聞いていたが、その手のエネルギーは予想以上だった。食われて食って、互いの尻尾にしがみつきあう自然の摂理。


 親睦会。サークルの飲み会。誘われたことは誘われたが、俺は全部断っていた。


 そうして一週間も経った頃、俺はすっかりどのグループにも属さなくなり、誰とも会話をしなくなっていた。


―――


 約束の日を翌週に控えた土曜日。

 シマから、メッセージではなく、通話不在の履歴が入っていた。通知は三十分前。


 五分ほど迷って、こちらから掛け直す。


「何してたの」


 第一声で驚いた。

 最後にあったのはたった一週間ちょっと前なのに、シマの声はまったく変わっていた。


「別に。何もしてないけど」

「そうか」

「どうしたの」

「いや、こっちも何か用があるってわけじゃないけど」

「?」

「なんか、お前の声が聞きたくなってさ」

「痒いこと言うなよ」


 ――声が聞きたくなってさ。

 そう言うシマの声色は丸く小さく、ガラスの鈴が鳴るような声だった。


「大学、忙しい?」

「高校とほとんど変わらねえの。朝一から夕方まで全部授業」

「もっとジダラクなものかと思ってた」

「ジダラク?」

「そう、ジダラク。昼まで寝て講義に遅刻したり、そういうの」

「俺もジダラクやりたかったけど、無理だよアレじゃ」

 自分で言っておいて気に入ったのか、しばらく俺とシマはジダラク、ジダラク、と言い合った。

「オレもすっかりジダラクな生活ばっかりやってる。本当は今ごろ士官寮に入って、朝から晩までみっちりしごかれてるはずだったのに」

「ああ……あ、悪いな」

「何が?」

「いや、別に」

「ともかく――何もかもゼロからはじめるようなことになっちゃって、先の事なんてさっぱり分からなくて。今は自分の身体のことでさえ分からないのに。これからどうするか、なんて」

「なるようになるよ」

 心にもない返事を返す。

「みんなそう言うんだ。なるようになるって。大人って、そんなもんなのかな」


―――


 話してみればいつものシマだ。その後はテレビの新番組とか、ニチアサとか(期待の新作『シャコライダーW』だ。実に十年ぶりの続編になる)、そういう他愛も無い話が続いた。趣味の話をはじめるとテンション高く一気に話題を吐き出すところや、その後少し我に返ってこちらの理解を気遣うようなところ。何もかも、いつものあいつだった。


 そのギャップに、俺は困惑する。


「あのさ」


 ひとしきり話し終えた末に、あらたまった様子でシマが言った。


「週末、大丈夫だよな?」

「うん」


 そうしてお互いに少し沈黙した後、シマは続けて言葉を繋ぐ。


「オレ、一つ、お前に隠してたことがある」

「……」

「当日までに、言おうか言うまいか迷ってたんだけど」

「それ言おうとして電話掛けてきたんだろ」

「あのさ。お前、ちょっとは、オレの葛藤とか気持ちとか、そういうものをな」

「今さら何なんだよ。隠し事の一つや二つ、普通にあるだろ」


「……うん。そうだな」

 か細い、メスの声。


「あのさ」

「うん」


「――オレ、実はオスの時、一回だけ、他の大人とヤッてるんだ」


―――


 高校一年の夏。シマが行方不明になったことがあった。


 家庭でケンカがあったとかそういう事情でもなく、ある日突然失踪した。すぐに警察が来て学校やら家やらに聞き込みが入ったが、もちろん誰も原因なんて分からなかった。警察の聞き込みも一度きりで、その後に詳しい調査があるわけでもなかった。


 ひょっこりと帰ってきたのは数日後のことだ。参ったな、親にも先生にもこっぴどく怒られてさ、なんてシマは笑っていた。

 何が原因だったのかは言わなかったし、何をしてきたのかも言わなかった。俺は“喋りたくないことなら聞く必要はない”と言って何も聞かなかった。


 ――あいつにとって“良い友達”でありたかった。だから問いたださなかった。問うてしまえばその関係が崩れてしまうと思ったからだ。だから何もかも平然と受け入れるフリをしていた。本音を言えば、あんな“あからさま”な隠し事などして欲しくはなかった。当時はそうしてしばらく悩んでいた時期があった。


 でも結局、そのうちにお互い有耶無耶にしてしまった。

 時間がその思いを薄めてくれたわけだ。


―――


「そうなのか」


「ずっとそのことを後悔してた。やっちゃいけないことをやって、お前を一方的に裏切ったことになってたんじゃないかって」

「そんなことないだろ」

 お互い童貞で居続けよう、なんてのは“約束”のルールに含まれているわけではない。だから別にルール違反には当たらない。

「あん時、せめてお前にくらいは言っておけば良かったって、心のどこかで引っかかってて。だから、今言った」

「……」


「ごめんな」

 それはケータイごしの――耳を澄ませないと掻き消えてしまいそうな――不安げで儚げな呟きだった。


「引っかかり、取れたか?」

 俺は“良い友達”として、その告白を“平然と”受け入れた。


「……取れた気もするし、取れてない気もする。やっぱり、分からないな」


 今さら、何を言えるわけでもない。


―――


 通話の最後に、週末まで俺とシマは一切の連絡を取らないことにした。


―――


 通話を切って、ケータイをベッドに放る。


 あいつは変わりはじめている。

 ほんの数週間で。身体の変化なんてほんの些細なことだけで。

 変化は受け入れなければならない。俺達はいつか大人になる。それは自然の摂理で、当たり前のこと。みんなが通る道。だから大人になっても、俺達の関係は全然、まったく変わらないものだと思っていた。だけど甘かった。


―――


 大学の授業を淡々とこなし、浮かれる同期に乗ることもできず、割り切ることもできず、振り切ることもできず、腹をくくることもできず。


 そうして何もかもが曖昧なまま、約束の日は来た。

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