P.latirostris(2)

「いつにする?」


 約束のルールその二。

 勝った方は――負けた方を“食う”こと。


「今ここで、なんて」

「まさか」

 何とかひねり出した冗談を、シマは笑って流す。

「そういうことをするにも“心の準備”ってやつがあるだろ、お前にも――もちろん、俺にもさ」


 心だけではない。

 一次変態を遂げたばかりの身体はまだ脆弱であり、“そういうこと”には耐えられない。誰だって知っていることだ。俺だって知識としては知っている。


 シマは俺の前に三本指を立ててみせた。

「三週間後、で、どうだ」

 俺はゆっくりと頷いた。どのみち敗者に拒否権などない。

「もう入学式も過ぎてるかな」

「ああ? ああ、そうか。お前、四月から大学行くっつってたんだもんな」

「その日なら、まあ、平気だと思う」

「何があるのか知らねえけど、その日だけは絶対開けとけよ」

「シマは」

「ん」

「お前はいいのか?」

 そう訊ねると、シマはどこか自嘲気味なトーンで返した。


「その日なら大丈夫だ。つか、いつでもいいんだよ、予定なんかねえ。なんもかんもパァになっちまった。どうせオレなんて暇してるんだからさ」


「……」


 そういう意味で言ったのではなかった。


 けれど俺は言い直さなかった。


―――


 その夜、ケータイに、シマからメッセージが来た。“大人”になってからもあいつはあいつで、少なくとも性格は変わっていない。変わり始めたのは身体だけ。それは本人も同じなようで、送られてくるメッセージからもその辺りの困惑が見て取れた。


「身体いてーし、メシ食いづれーし」

「そういえば、関節がやたらに柔らかくなってるんだよ。今のうちにストレッチとかして、固くならないように慣らしておけってさ」

「明日は親戚そろってお祝いとかやるんだと。別にそんなことしなくてもいいのにな」


 俺には相槌を打つことくらいしかできなかった。


「ちょっと席外すわ」


 それを最後に、立て続けに送られてきたメッセージが途切れたので、俺も風呂に入ってくることにした。


 湯船の中で、俺の頭は夕方に見たシマの身体を思い出す。

 メスになりつつある身体――と言っても、実のところ、パッと見てどこかが大きく変わっているというわけでもない。ただ、ちょっとしたシルエットの違いであったり、肌の細かさであったり……そして何より本能が、シマがそれまでと変わった存在――即ちメスであるということを認識させていた。


 風呂から出て再びケータイを手にする。未読が一件。無言のまま添付された画像。


 そこには、ジャージの下だけを身に着けて半裸になったシマの身体があった。

 鏡の前で自撮りをしたのだろう、顔の部分はかざしたケータイで隠れている。その身体はすっかり筋肉が落ちていて――薄く膨らんだ胸、くびれた腰がはっきりと写っていた。


 全身が、ぞく、と総毛立つ。

 そんなもん見せんじゃねえ、と、俺はほぼ反射的に打ち込む。


 ややあって、返信。立て続けに二つ。


「こんなんなっちまった」


「早くレスしてくれよ。オレがばかみたいだろ」


―――


 あいつは俺の知っているシマだ。

 そして、もうすぐ俺の知らないシマになろうとしている。


―――


 翌日と翌々日は、大学入学前のガイダンスやら健康診断やらで忙しい日になった。

 その間も、俺はどこかぼんやりとしていた。


 あの画像を何度も見返していた。そこに写るシマの身体を見るたび、例えようのない感情、これまであいつになんて決して抱くことのなかった(当たり前だけど“気色悪い”だろ?)感情が、俺の頭の知らないところからむくむくと湧き出してきていた。


 こんなんなっちまった――とはシマのメッセージ。

 わかっている。何より、その変化に戸惑っているのは本人なのだ。だけど。


 その夜、俺はもう一度ベッドの中で画像を見た。


 朝になると、シマの手によって画像は削除されていた。


―――


 ヤッたことがある、ない、と騒ぐのは、せいぜい高校二年までの戯れだった。


 俺くらいの年齢になると、たいていの若年は何らかの形で成年と行為を済ましはじめる。そして周りの大人達も、積極的にそれを奨励している。子孫繁栄のため、一つでも多くの種を残すこと。そうしないと、人口はどんどん減ってくる。


 だから俺みたいなのはけっこう珍しかった。

 性格的にどうこうという話ではない。俺にだってヒト並みの感覚はある。けれど、そんな中でも俺は自身の身体を守り続けた。「やっぱり一回は味わっておかないとな」とか「とりあえず何でもいいから経験しとかねーとヤベーぞ」なんて他の友人の忠告を無視ながら。

 実際、過去にチャンスそのものはいくらかあった。バイト先の先輩を泣かせてしまったのは苦い記憶だ。思えばアホなことをしてしまったな、と思わなくもない。


 本来ならここまで意固地になる理由もない。けれど何故か、俺はあの“約束”をずっと拡大解釈し続けていた。童貞を捧げることになるのか処女を捨てることになるのか、一体どっちになろうが、相手はシマ以外考えていなかった。

 思えばケッタイな誓いだ。もちろん本人に伝えたことなどなかったが――本音を言えば、それ以外に他者との関係を結ぶビジョンなんてものがまったく見えなかったのだ。


 果たして、俺の立場は前者になった。つまり“食われる”側だ。


 ああ、くそ。


 あいつは今何をしているんだろうか。

 あいつの身体は今どうなっているんだろうか。


―――


 その日、シマから数日ぶりのメッセージが来た。


「今週末、“歌海老”行かねえ?」


―――


 受付のボードに名前を書き込む。

 つい数週間前には“若2”だった。それが今回から“若1・成1”になった。


「もう電車なんかも成年料金なんだぜ、参っちゃうよな、カネねえのに」

 残念そうに呟くシマを見る。たった一週間が過ぎただけなのに、シマの身体はいよいよメスらしくなりだしている。骨格の変化もハッキリしてきていた。

「そんなに変わってるか? オレの身体」

「まあな」

「自分じゃ気付かないんだよ。何しろ毎日見てるからな。節々は相変わらず痛ぇしロクなもんじゃねえ」

「どのくらい続くんだ?」

「個人差あるけど、もうすぐ収まるってさ。特にオレの場合は他よりも変態が早いから、そのぶん長めらしい」

「そんなもんなのか」

「ああ、そういえば下着とかそのへんも変えたんだよ。オレはまだいいよって言ったのに、外行くんだからちゃんとしろって親がうるさくてな。で、着けてみてアレだけど、むちゃくちゃ面倒くさいなコレ。見るか?」

「止めろよ」

 久々に聞いた声もまた、かつてのそれではなかった。


 そうして二人で部屋に入り、順番に曲を入れる。お互い五曲ほど歌ったところで、根を上げたのはシマの方だった。

「……声が出ねえし!」

 忌々しげに言って、シマはドリンクバーのカニコーラ(カニ風味のコーラ。一時期流行ったが、最近あまり見ない)を飲んだ。低音が出ないらしい。骨格が変われば声帯も変わる。終始、シマは身体の変化に困惑していた。結局、それから残り時間はほとんど俺が歌った。おかげで俺も声がガラガラになった。

 あっという間に俺のレパートリーも尽きてしまい、二時間歌うところを一時間半で切り上げ、残りの三十分をダラダラと過ごす。

「この前さ」

「うん」

「ヘンな画像送っちまったの、悪かったな」

「なんだっけ?」

 俺はいかにも“覚えてない”とシラを切った。

「覚えてない、ってか」

「ああ」

「嘘つけ」

「……まあ、嘘だけど」

「いや、悪いのはオレだからいいけど。あんまり、ああいうことはするもんじゃないんだってよ。大人になるとさ。そういうのはキッチリしろって」


 いつの間にか、向かいに座っていたはずのシマは、俺の隣に来ていた。

 カニコーラが注がれたタンブラーを両手で持つシマの指は、細く白く、節張ったものになっていた。

「大人になったから、こうしろ、ああしろ、でも、これはするな、あれはするな、とにかくちゃんと大人らしくしろ、ってさ。そんなことばっかり言われてるんだよ」

 俺は横目でシマの顔を見た。いつものカラオケ、いつもの遊び。ほんの数週間前まで向かいのソファにふんぞり返って笑っていたはずのシマは、今、俺の横で頬杖をついている。メッセージのやり取りでは見えてこなかったシマの顔がすぐ近くにある。大人としての横顔。否定しようのない、メスの顔。

 さらに視線は下にうつる。服装のセンスに疎いシマの、そこらへんで買ってきたとかいうパーカー。曰く、どんどんサイズが合わなくなっているらしい。そのパーカーの下にあるメスの身体。メッセージログから消されたあの画像が脳裏に思い起こされる。俺の、オスの本能が否応なく反応する。


 相手はシマだぞ、と自分に言い聞かせる。


―――


「大人になるって、面倒くさいよ」


「そうかな」

「オレ、まだまだ先だと思ってた。だから予備隊の若年士官になるって進路も決めたのに。こうなっちゃって。何の準備も出来てないのに、あれよあれよと全部変わってく」

「でも俺に“勝った”だろ」

「うん。“勝っちゃった”」

「……」

「“約束”とか勝ち負けとか、そういうことを言っていれば、大人になる未来なんて先延ばしに出来ると思ってた。あと二年、あと一年遅かったらまだ良かったのに」

「そのうち、俺が先になっちまったりしてな」

「それも嫌だよ。“約束”さえあれば、オレ達いつまでもこのままでいられるって思ってた。お前もそうじゃなかった?」

 俺は答えられなかった。

 答えなくても、そんなこと、とっくにお互い分かっていた。


「あーあ。本当に。面倒くさいな」


―――


「再来週まで、遊ぶのとか、止めておこうか。お前も、大学の準備とかあるだろうし」

 別れ際、シマはそんなことを言った。俺は頷いた。

「メッセは?」

「メッセはオッケーにしよう」

「それはいいのか」

「でないとオレ、ちょっと持たないかもしれないし」

 そう言って、シマは歯を見せて笑った。精一杯の笑顔、という感じだった。


 そうして俺達は別れた。

 次に会うのは、かつて交わした“オス同士の約束”の決着を果たす時だ、と。


―――


 夜、シマからメッセージが一つだけ来た。


「今日は色々ごめんな」


 それきり、いつまで経っても次は来なかった。


「また遊ぼうぜ」

 俺はそう返した。返してすぐに今日のことを思い出して、やっちまった、と思った。


「ああ。またな」


 結局、シマから帰ってきたのはそれだけだった。

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