PANDALIDAE

黒周ダイスケ

P.latirostris(1)

「先に大人になったほうが“勝ち”だぞ」


 なんて話をしたのはもう何年前だったか。子供っぽい、チンケな約束。


「“オス同士”の約束だからな」


 でも。

 俺はあいつと会うたびにそれを心の片隅で意識している。

 一度交わした約束をずっと守っている。心に留めている。


 一方のあいつはどうだろうか。

 もしかしたら向こうはとっくに忘れているかもしれない。

 俺だけが真面目にあの約束を意識しているだけかもしれない。


 だから俺はずっと聞かずにいた。

 だって、この後に及んで今さら口に出すのもバカバカしいし、恥ずかしいだろう。


―――


 大人になるなんて、小さい頃はまだ遠い出来事だった。「八年なんて、大人からすればあっという間の年月よ」なんて親は言うけど、当時の自分達には遙か未来のことだった。

 だから従兄弟がそうなった時も、ガッコーの先輩の先輩とやらがなった時も、あくまで他人事にしか思えなかった。それは自然の摂理で、当たり前のことなんだと。


 そうして数年。野球をやったりゲームをしたり、そんなことをしている内にあっという間に過ぎてしまった。もちろんその間にも、俺達二人はいつまでも“ともだち”同士だった。ケンカをして一週間会話をしなかったり、中学校の部活では噂の名バッテリーだなんて言われて調子に乗って、その後に地区予選でボコボコにされたりしたけど、まあ、それもこれもいい思い出だ。


 そう言えば、あいつもあいつで数日間も行方不明になって学校や親たちを心配させたりした。でも何も変わらなかった。ひょっこり帰ってきて学校や親からさんざんに怒られた後も、あいつは「“若年の至り”ってヤツだよ」なんて笑っていた。


 いつまでもずっとこういう日々が続くんだなんて思っていたら、いつの間にか高校を卒業する年にまでなっていた。


―――


 正直に言ってしまえば。

 言葉には出さなかったけれど、俺のほうが先だと思っていた。


 身長も成長も、あいつよりも上だった。身体の変化こそなかったけれど、十七歳を過ぎたあたりでその差はくっきりと現れていた。

 だから間違いなく“勝つ”のは俺のほうだろうなんて考えていた。


 ――そうして決着の日はやってきた。


 高校の卒業式から数日後。

 次の週末に遊びに行こうぜなんて誘った次の日、ケータイにあいつから二つのメッセージが来た。一つは素っ気ないキャンセルの知らせ。そしてもう一つには、ただこう書かれていた。


「悪いな。オレの勝ちだわ」


―――


 なんだ。あいつもちゃんと覚えてたんじゃねえか。


―――


 大人になる瞬間には、身体にある兆候が出る。

 その瞬間こそが即ち若年期の終わりであり、成年期への第一歩。

 厳密には“間年期”という期間があるが、十日ほどだ。それを過ぎれば、身体は成年になる。

 中学校の頃、保健体育の時間、さんざんに聞かされたこと。だけどその時はクラス中がそれを茶化していた。成年になるなんて遙か先だと思っていたから、みんな真面目に聞くことなんてしなかった。体育での更衣室では互いに裸になり、ふざけあってゲラゲラと笑い合ったりしていた。もちろん、俺も、あいつも、似たような感じだった。


 なんだよ、と独り言ちて、俺はケータイをベッドに投げる。


 一昨日、カラオケでオールをして、じゃあまたな、なんて言って別れたあいつは、たった数日で先に大人になった。


 つまり――“勝った”のはあいつで、負けたのは俺――ということだ。


―――


 人間、誰だっていつかは大人になる。そのタイミングが個体によって早いか遅いか、それだけのこと。自然の摂理。当たり前のこと。でも、俺達にとってはその些細なタイミングの違いが大事だった。


 あの頃の俺達は大人になんかなりたくなかった。

 今だってたぶんそうだ。変わることは何よりも辛く、面倒くさい。


 だから昔の俺達はあんな約束をしたんだろう。


―――


 間年期は身体の免疫やらなんやらが低下するらしく、基本的には病院に入って安静に過ごすことになる(昔はこのへんで命を落とすことも多かったと聞く)。


 あのメッセージを送ってきてから、あいつは電話もメールも寄越さなくなった。


 その間、俺は別の友人達と遊ぶことにした。“約束”のことを忘れようとしていたのかもしれない。


 ――大人になるっつったって、フツーはまだだろ。

 ――言うてあと二年か三年くらい後じゃね?


 ゲーセンで格ゲーに興じて、カラオケでさんざんに歌って。そうしてファストフード店でポテトをつまんでいると、彼らはそう言って笑った。


 そう。

 個体の差はあるが、十八年程度で大人になるのはきわめて珍しい。確率としては数パーセントだと言う。だいたいは二十から二十四くらいの間だ。

 だから俺達はまだノンキだった。

 だから俺もあいつも、まだあと数年はこんな感じで過ごせるだろうと思っていた。


 友人達と遊んでいる最中、俺はあいつのことを口に出せずにいた。言ったところで、あの時の保健体育の時間と同じように茶化されるだろうから。

 きっと俺は、あいつが茶化される様を聞きたくなかったのだ。


 結局、ノリが悪ぃな、と冗談交じりで言われて、彼らと遊んだのはそれっきりだった。


―――


 大人になるという感覚が分からない。

 自分の中でそれを受け入れられるものなのか。


 あるいは、その変化を受け入れたからこそ、大人になるのか。


 あっという間に時間が過ぎて、道ばたには桜が咲き始めた。


 俺は卒業後、地元の大学に通うことになっていた。

 一方、あいつは警察予備隊の“若年士官ルート”への入隊を決めていたようで、この前に遊んだ時は「しばらくは寮に入るし、あんまり遊べなくなるかもな」なんて言っていた。


 つまり……兆候が出た時点で、進路はパァだ。

 いつもそうだ。あいつはいつもタイミングが悪かった。


 そうして――その日の夜、俺のケータイにメッセージが来た。


「退院したぞ」

 と一言。

 おめでとう、と言えばいいのか、俺が返しあぐねていると、続けざまにもう一つのメッセージが来た。

 いつもそうだ。あいつはメッセージをいつも立て続けに送る癖がある。


「明日の夕方、暇か?」


 俺はまだ返信を紡げなかった。


 そんな俺の葛藤をよそに、あいつはポンポンとメッセージを飛ばしてきた。


「お前、四月から忙しくなるだろ」


 ……。


「約束、済ませちまおうぜ」


―――


 翌日。夕方。


 あいつは場所を指定してきた。

 小さい頃、俺達が秘密基地を作った裏山だ。遊ばなくなってからもう何年経っただろうか、久々に踏み入れる道は以前よりも狭く、短く思えた。


 脇道に入ってから十数分ほど行くと、鉄塔の真下に出る。下には管理会社が機材やらなんやらを納めておく用の倉庫があり、その付近はちょっとした広場になっている。

 小さい頃、俺達はここでよく遊んだ。暗くなるまで――ちょうど今くらいの時間だ――大人達の目を避けるように遊んでいた。ここにいる間、俺達だけが世界の全て。そんな錯覚を抱くような秘密の場所だった。


「よう」


 その機材小屋の傍らに、あいつは背をもたれて立っていた。左足を交差させて立つ癖。遊びに行く時の待ち合わせも、昔からあいつはそうやって待っていた。だからそれだけで、別の人間なんかじゃないというのが分かった。


「悪かったな、この前、遊びに行く約束キャンセルして」


 俺はなんと言えばいいのかわからなかった。ここに来てまで、俺はかけるべき声を紡げずにいた。


「まだ慣れないんだよ。ここに来るまでの間も、だいぶ息切れしてさ。この前まではダッシュで登ってくることだって出来たかもしれないのに。本当にこれがオレの身体だなんて、ちょっと信じられないくらいだ」


「シマ」

 俺は名前を呼んだ。

 呼び慣れたはずの名前なのに、それはどこか余所余所しげな響きになって虚空へ放たれた。


―――


 兆候が出てから、身体は十日ほどでまず“一次変態”を遂げるという。


「聞かされてたほど痛くはなかったよ。意外にさ」

 シマの身体は変わっていた。今まで見ていた“彼”の身体とは違う、よく知っているようで、まるで知らない姿。

「ただやっぱり慣れないんだよ。今日だって安静にしてなきゃいけないって言われてたんだけど。でもまあ“こうなった”からには、まずお前に見せないといけないと思ってさ。何しろ“約束”だからな」

 そう言って、シマは歯を見せて笑った。屈託無い笑顔。それは俺がよく知るシマそのものの表情だ。

 いつもそうだ。どんなに辛い時でも、シマはいつもこうやって笑う。


 約束のルールその一。

 先に大人になったほうは“勝ち”を真っ先に伝えること。


「つーわけで」

 シマは俺を見据えて言う。

「オレの“勝ち”だな」


「そうだな」

 俺はただそれだけ返した。約束なんてバカらしいとか、覚えてるわけないじゃないかとか、そういう風に言うことも出来たはずだ。でも、俺はそうしなかった。俺以上に、シマはずっと覚えていたのだから。


「じゃあ」

「うん」


「いつにする?」


 それはシマであり、シマではなかった。

 彼は――いや“彼女”は大人になり、その身体はメスになりつつあった。


 約束のルールその二。

 勝った方は――負けた方を“食う”こと。

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