第8話
気がつくと僕は布団に寝かされていました。
部屋は薄暗く、物音ひとつ、しませんでした。
静かで。
静か、で。
「気分はどうだ」
「夕、殿?」
声の方へ視線を向けると、そこには夕殿が居て。
「みんなは?」
「帰った」
「帰った………?」
「俺が無理に雪也を連れ去ったと思っていたようだ。違うと分かって、何も言わず帰って行った。お前の弟がまた来てもいいかと、また来たいと、最後まで泣きそうな顔で言っていた」
草也、が。
父様と母様は、どうしているのでしょう。僕を心配してる?僕を探してる?
僕が。
僕が鬼に連れ去られたと思ってる?
夕殿以外の鬼は人によって狩られたと、夕殿は言いました。
不可思議な力があるのに、それを使えば人を払うなど容易いはずなのに、何故、その力で抗わなかったのか。
抗っていれば。
抗って。
争って。
怒りと憎しみとに支配されて。それが、続いて、続いて。
それをするより、鬼は。
異形の血のさだめだと、受け入れることを選んだのでしょうか。
それは、何と優しく。
何と、哀しく。
はっと。
僕は、夕殿を見ました。
「どうした」
もし父様と母様に、僕が夕殿の手に無理矢理連れ去られたと勘違いされていたら。
父様が、母様が、人を引き連れて夕殿のところに来てしまったら。
夕殿、は。
夕殿は、どうなってしまうのでしょう。
抗わず。
抗わずに?
「雪也?」
「もし、また、誰かが来てしまったら。もし、あの三人ではなく、他の誰かが来て夕殿を傷つけるようなことをしてしまったら」
残された時は、僅か。
その僅かに誰も来ないと、本当に言えるのでしょうか。
「その時は、その時に考える」
「でも」
「あと少しだ、雪也。お前はあと少しを生きることだけ考えろ」
「あと、少し…………」
あと少しで、僕は。
僕は?
夕殿が僕を見下ろして、唇が重ねられました。
流れてくる何か。
僕の口内から全身に行き渡り、僕の命を繋ぎ止めてくれる、何か。
もうあまり効かなくなってきた、何か。
「あと、少しだ」
僕の命が?
夕殿が言う、血桜が満開になるのが?
あと、少し。
あと、僅か。
「雪也は今のことだけを考えろ。今、お前は何をしたい?」
今?
今、だけ。
今、僕が、したいこと?
「もっと…………」
夕殿の、熱い頬に、触れました。
その手をすぐに、夕殿は握ってくれました。冷たいな、と。
「もっと、して。夢でしたような口づけを、現でもして。現でも、したい」
明日が来ることさえ、確かではない、僕。
その明日を、思うより、今、を。
「身体は辛くないか?」
「辛くても、いい」
辛いけど、いい。
揺れる緋色の、焔のような眸がじっと間近で僕を見ました。
「雪也」
低く呼ばれる、名前が、耳に心地好い。
近づく熱に、僕は目を伏せました。
夕殿の、ぷっくりとした、果実のような唇がそっと重なって。
僕は夕殿の背に腕を絡めました。
「お願い、もっと」
ほんの少し、開いた隙間に囁いて。
僕は、現で………夕殿と熱い熱い口づけを、交わしました。
口づけを交わし、熱く絡む口づけを何度も何度も交わし、夕殿がそっと、離れました。
「あの三人が、お前のためにと煮物を作って行ったぞ。柔らかく煮てあると言っていた。食べるか?」
「………うん」
何かが食べたいという訳ではありませんでした。
けれどせっかく作ってくれたのだからと、僕は返事をしました。
「運んで来る。待っていろ」
夕殿は目を細めて優しく微笑んで言いました。
怠い。辛い、息苦しい。動きたくない。
身体は悲鳴をあげていましたが、それ以上に。
「ううん、夕殿………。僕を連れて行って」
「雪也、少しでも横になっていた方が」
「嫌。夕殿と、ほんの少しも離れたくない」
それ以上に、離れたくないのです。
離れているその間に、僕を連れ戻しに誰かが来たら?
離れているその間に、僕の元に冥土への迎えが来たら?
あと少し、あと僅か、なら。
離れたくない。ほんの僅かな時間でも、離れたくない、夕殿を感じていたい。
「布団ごと抱える、落ちるなよ」
「え?うわっ…………」
くす、と笑って夕殿は、僕を布団ごと抱え上げました。
驚いて首にしがみつくと、夕殿は笑いました。
夕殿の笑い声に、僕も笑いました。
「ありがとう、夕殿」
僕の我が儘を聞いてくれて。僕の願いを、聞いてくれて。
笑って、許してくれて。
「俺がしたくてやっていることだ。気にするな」
そう言って夕殿は、僕を囲炉裏の部屋へ連れて行ってくれました。
ぱちぱちと、火の弾ける音。
夕殿は横座に座り、自在鉤に囲炉裏鍋をかけてあたためてくれました。
僕は客座に寝かされて、その様子を布団の中から見ていました。
ぱちぱちと、ぱちぱちと音をたて、焔はゆらゆらと踊っていました。
夕殿は椀に入れた煮物を箸で小さく切り、ほぐし、僕を起こして後ろから支え、匙と共に渡してくれました。
「ありがとう」
「無理はするな」
「………いただきます」
何故か震えが止まらない手で、僕はほんの少しだけ、三人が作ってくれた煮物を食べました。
震える手のことは、夕殿も僕も、何も言いませんでした。
時が、来る。
きっと、もう、それは近い。
僕が食べ終えるのを待ってから夕殿が食べ、片付けてくると土間へ降りて行く背中を、僕はぼんやりと、霞む意識の中で見ていました。
明日は、来るのでしょうか。
僕に明日は、やって来るのでしょうか。
夕殿。
僕が逝ったら、貴方は哀しんで、涙を流してくれますか?
それぐらいには、僕を想ってくれていますか?
そんなことを考えながら僕は、夕殿がこちらに戻って来るのを、待っていました。
夕殿はまた今日も僕の身体を拭こうと、湯の張った桶と手拭いを持って来てくれました。
今日は囲炉裏の部屋。
ぱちぱちと音がするそこで掛け布団を捲られ、寒くはないかと聞いてくれました。
僕は頷いて、夕殿にゆっくりと身体を起こしてもらい、自ら帯をほどきました。
「雪也?」
手が、ぶるぶると震えていました。
ぶるぶると、ぶるぶると。
「全部、脱がせて」
「雪也?」
「僕の身体を、見て」
夢ではなく、現で見て。
白く、細く、貧弱な身体。
背中に広がる痣。
夢でたくさん辿ってくれたこの身体を、最期に夕殿に見て欲しい。
「風邪をひく」
「いいよ」
「雪也」
「誰も知らない僕の身体を、せめて夕殿だけには見てもらいたい」
夕殿は、哀しそうに眉を寄せて、僕を抱き寄せて、唇を合わせてくれました。
ほんの少しだけ流れてくる何かに、ほんの少しだけ、楽になりました。
そして僕は、夕殿に着物も、襦袢も、すべてを脱がされ、また布団に寝かされました。
「細いな、お前は………」
「………うん」
夕殿はじっと僕を見下ろした後、丁寧に丁寧に、僕の身体を拭いてくれました。
口づけを、しながら。
身体中に、口づけを、しながら。
「気持ち、いい…………」
夕殿の熱い唇がもたらす感覚に、夢では分からなかった感覚に、僕は目を閉じて酔いしれました。
そして何故か、涙が、溢れました。
「風邪をひくから」
「ありがとう、夕殿」
寒くは、ありませんでした。
寒いどころか、身体の中から熱い物がわき上がり、それが夕殿を求めているようでした。
草が持って来てくれた寝間着を着せられて、横たえられ、夕殿はそっと僕に覆い被さり、口づけをくれました。
たくさん、たくさん、小さく啄むように。
「重くはないか?苦しくはないか?」
はあ、と。
熱い吐息が、夕殿と僕で交ざり合いました。
「………大丈夫」
夕殿の、緋色の眸が揺れていました。ゆらゆらと。
囲炉裏のぱちぱちという音に合わさって、それは本当の焔のように美しく、僕はその焔に、とけてしまいそうでした。
「雪也」
「はい」
「現でもお前と………契りたい」
低く囁かれ、深く口づけされ、僕の心臓が驚く程に跳ねました。
どくどくと、跳ねています。
「…………それは」
現で契ったら、現で身体を繋げたら。想いを遺すようで、僕は。
「嫌か?」
契る?身体を、繋げる?夢ではなく、現で。
想いを、遺すようで。夕殿に、貴方に。
でも。
遺しても、いいのなら。
僕は夕殿の首に震える手を、腕を絡めました。
「…………抱いて、ください。僕は貴方に、抱かれたい」
もう少し。
もう少しだけ。
もう少しだけでいい。
僕に。
夕殿と過ごす時間を、僕に。
夕殿はゆっくりとゆっくりと僕の身体を解し、ゆっくりとゆっくりと、僕の中に入りました。
あまりにも苦しいその感覚に、知らず涙が溢れていました。
「辛いか?」
身体は、辛い。
苦しい、息が、苦しい。
貫かれた痛み、圧迫感で呼吸が乱れ、意識が朦朧としました。
夕殿は何度も僕に口づけてくれました。僕の苦しさをなくそうとするかのように、何度も何度も。僕にその命を分け与えるように。
口づけ、て。聞こえたのは。
「分かるか?ひとつに、なった」
ひとつ、に。
「………うん」
ひとつに。
「お前の中はあたたかい」
ぎゅうと抱き締められて、頬を寄せられ、今度は違う涙が溢れてきました。
ひとつに、なった。ひとつに、なれた。
夢ではなく、現で。
僕も夕殿を、力の限り抱き締めました。
「もう少しこのままでいていいか?」
「…………うん」
「もう少ししたら、やめよう」
「…………え?」
「もう少ししたら、抜くから」
「それは、駄目。嫌だ、やめないで。夢のように、して」
「雪也もう、これ以上は」
「大丈夫。僕なら、大丈夫、だから」
何も着ていない、夕殿の逞しい身体がぴたりと僕について、熱く、脈々とした夕殿が僕に身体に交ざり、僕はその律動を感じたいと、全身で感じたいと、夕殿にお願いしました。
「お願いだから、このまま終わりにしないで」
「雪也………」
「ゆっくりなら、大丈夫。口づけしながらなら、大丈夫。お願い、もう、もうこれで最期。我が儘を言うのは最期だから、もう、本当に言わないから」
お願い。
それは懇願。
最期だから。もう、これで、最期、だから。
何度、最期、と、僕は。
もういい、これでいい、そう思うのに、夕殿と居るとその最期は最期にならず、欲深く次を求め。
「人とは、僕、とは、何て欲にまみれ、醜いいきもの」
震える手で、夕殿の唇に触れました。
もう一度会いたいと、最初は願っただけなのに。
「お前は綺麗だ」
「夕殿?」
「………お前は綺麗だ、雪也」
ゆるりゆるりと、夕殿が、動いて。
「……………っ!!」
身体の中のものが、すべて引き摺り出されそうな感覚に、僕は夕殿にしがみつきました。
遺しても、いいのなら。
夕殿、貴方に、遺しても、いいのなら。
溢れる気持ちが、知らず口を割って。
「貴方が、好き」
僕の心に、僕の身体に、貴方を遺して。
貴方の心に、貴方の身体に、僕を遺して。
「雪也、あと少し、だ」
あと少し。
あと、少し。
僕の命が、消えるまで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます