第9話
「大丈夫か」
口づけをされ、囁かれ、抱き締められて、霞むような意識の中で、うっすらと目を開けました。
乱れていた寝間着は整えられ、夕殿はいつもの浄衣を着ていました。
「雪也?」
声を出すのも辛く、僕は小さく頷きました。
「疲れただろう?水を飲んだ方がいい」
下肢に残る違和感に、本当に契りを交わしたのだと実感し恥ずかしくなり、夕殿の見つめる双眸から逃れるように、僕は視線をそらしました。
僕にはできぬと思っていました。身体を重ねる心地好さを知らぬまま逝くと、ずっと、思っていました。
夢の、よう。
夕殿の身体が離れ、僕は自分の身体を抱き締めました。
夢のよう。
現で夕殿を想い、夕殿の腕に、その身体に抱かれた、なんて。
顎を掴まれ上向きにされて、口づけと共に僕は、水を含まされました。
こくりと飲む水が、喉を潤して。
「まだ要るか?」
「………うん」
もう一度。
「無理をさせた、すまない」
「…………ううん、僕が」
僕が、望んだのだからと。
最後まで言えず、咳込みました。
夕殿が僕の身体を横向きにして、背中をさすってくれました。
「じきに満開になる」
満開に?
血桜の、こと?
咳がおさまり、僕はまた夕殿に口づけをされました。
夕殿が待っているそれを、僕は待てるのでしょうか。
待てずに、逝くのでしょうか。
「雪也」
ふうっとまた、目の前が暗くなりそうになった時です。
緊張した、夕殿の声。
「起きられるか」
「夕殿?」
強引に僕を抱き起こし。
もう一度、口づけをして。
「駄目か?起きていられるか?」
「どうしたの?」
「誰か来る」
「………え?」
誰か。
誰?
夕殿は僕を抱き上げ、僕を囲炉裏の部屋の角へ座らせると、囲炉裏の揺れる焔へと指を鳴らして、焔を消しました。
ゆら、と漂う、薄闇。
僕は息を潜めて、何事もなく時が過ぎることをただ、祈りました。
戸が開いて、隙間から入る松明の灯り。
「居ないか?」
「居るだろ、煙のにおいがする」
「異形の者とは言え、人には手を出さぬ。恐れることはない」
ひそひそと、聞き覚えのない男の声が聞こえました。
誰が、何をしにここへ?
異形の者が、鬼が人には手を出さぬと知りながら、何をすると。
恐ろしくて。
恐ろしいのに、息苦しく、座っていることもままならず。
僕は夕殿の背中に凭れ、早く行ってしまうことを願いました。
ぱちん。
夕殿の指が鳴り、松明の灯りが消えました。
男たちの悲鳴。
やはり居るぞ、探せ、という怒号。
薄闇。
外から足音がいくつも聞こえきて、また松明の灯りが部屋に灯りました。
一体、何が起こっているのか。一体、何人の人が来ているのか。
僕を探しに来たの?
僕を探しに来たと言うのであれば、僕が出て行けば夕殿は何もされない?
そう思い、僅かばかりに残った力で、立ち上がろうとした時でした。
「鬼よ、どこだ!?どこに潜んでいる!?早く出て来い!!出て来れば薬師の倅は里に連れて行ってやる!!」
誰かが大きな声で叫び、僕の身体がびくりと震えました。
「鬼の角は高値で売れるらしいな。いくらで売れるか楽しみだ」
角?
何を、言っているの?
「角を折られた鬼は死んでしまうそうだが、なあ?」
そして、笑い声。
何、を。
この人たちは、何を。言って。
息が苦しく、寝間着の胸元を掴んで、僕は堪えていました。
僕が出て行けば終わる話なら、すぐにでも僕は行くことを選びます。けれど。違う。
この人たちの狙いは、夕殿。夕殿の、角?
夕殿、逃げて。
僕が居なければ、夕殿は容易く逃げられるはずです。
だってそうでしょう?夕殿には不可思議な力があるのです。僕さえ居なければ。僕が、足手まといで。
僕は夕殿の背中を、行けと、押しました。
どうか。
どうか僕を置いて逃げて。僕はもういい。もういいのです。
夕殿に出逢えた。命を救ってもらい、色々な願いを、我が儘を聞いてもらえた。想いを告げられた。身体を繋げられた。
もう、いいのです。
もう、いいから。
行って。
暗くて見えぬ、緋色の眸が僕を捉え。
僕は夕殿に抱き締められました。
さよなら。
心で別れを告げました。
ありがとう。
心で礼を言いました。
貴方が好き。
夕殿が、好き。
心でそう告げて。
告げて。
告げた、のに。
ほわり、と。
ほわり、ほわり、と。
てのひらほどの大きさの焔が、部屋中に、あらわれました。
いくつもいくつも、あらわれて。
「ここから出て行け。でないと焼け死ぬぞ」
低く怒りに震える声が。低く哀しみに震える声が。
夕殿。
逃げて。
くるくると回りだした焔に、そこに居た何人もの男たちが恐怖に戦いていました。
夕殿がたん、っと高く弧を描き僕の側から離れ行きました。
逃げて。
お願い、そのまま逃げて。
「出たな、化け物!!」
赤く燃ゆる夕殿の焔が男たちの持つ刀や斧、鎌などをうつし。
僕は。
僕は。
僕のどこにそんな力が残っていたのでしょう。
ひとり、またひとりと。
夕殿はひらりひらりと身体を舞わせながらその攻めをかわし、手首を叩きつけ、持っている鋭利なものを落としていきました。
夕殿を守るように焔はくるくると回り、時に威嚇をするよう男たちの側に行き、大きく燃え盛りました。
逃げて。
早く、逃げて。
大きな鎌を持った男が夕殿に襲いかかり、こちらに背を向けた時です。
考えるよりも先に、身体が動きました。
僕の何処にそんな力が残っていたのでしょう。
間に合って。
飛び出した、夕殿の背後。
「………っ!!」
「雪也!?」
「薬師の!?」
振り向いた夕殿の身体から、何かが吹き出したような感じがしました。
どさどさっと人が倒れる音。
そして………静寂。
何が起こったのか、僕には分かりませんでした。
ただ。
ただ。
「雪也………雪也、雪也」
ずるずると、夕殿を辿って僕は崩れていきました。それを留めようと、夕殿が抱き寄せてくれました。
緋色の眸からはらはらと落ちる涙が僕の頬にかかり、まるで僕が泣いているようかのようでした。
背中から僕を貫いたのは、一人の男が持っていた刀。
一瞬の隙をつき、一人の男がその切っ先を夕殿に向けて、間合いを詰めるのが見えたのです。
危ない。
それは刹那。
ほんの、刹那。
鋭利な切っ先は僕を背中から貫き、夕殿に触れることなく止まりました。
痛い。熱い。焼けるように。
「雪也…………雪也?」
無事で良かった。
夕殿が無事で良かった、夕殿を救えて良かった。
ここはもうきっと危険なところ。どうか早く逃げて。
「逃げて………」
痛い、痛い、背中から、腹から、痛い、熱い。
逃げて。
呼吸は早く、苦しく、吸っても吸っても、楽にはなりません。
声を出すことも、それ以上は、できず。
僕の身体から、何かが流れているのが分かりました。
血?
目の前がぐらりと揺れて、夕殿の顔もはっきりと見ることができません。
「雪也!!夕ちゃん!!」
一樹、さん?
揺れる意識の中で、一樹さんの声を聞いた気がしました。
「雪也!?………夕ちゃん行け!!早く行け!!花がすべて開いた!!」
雪也。
呼ばれて、夕殿の唇が、僕の唇に重なりました。僅かに流れ込む、何か。
もう、いいよ。
もう、僕は、いいから。
僕は唇を離しました。
夕殿。早く、ここから逃げて。遠くへ逃げて。
貴方が無事で良かった。
貴方が無事で。
………良かった。
「雪也、見ろ。咲いた。血桜が咲いた。満開だ」
浮かんだり沈んだりする意識の中で、夕殿の優しい声が聞こえたような気がしました。
ああ、でもまた、沈む。
雪也、雪也。
呼ぶ声。夕殿の、僕を呼ぶ、声。
浮かぶ。
身体がもう、痺れて、感覚がなくて。
いよいよ僕は、最期の時を迎えると、思いました。
「雪也、美しいぞ。真っ赤だ。見たくはないか?」
頬を撫でられ、唇が合わせられました。
夕殿?
真っ赤?何が?
血桜?
月の明かりに導かれ、開けた戸の向こうに見えた血桜、そして夕殿の姿を、僕は思い出しました。
見たい。最期に。
見たい、よ。
重い瞼を必死で持ち上げて、それだけでもう、はあ、と息が、漏れました。
「雪也、願え。お前の願いは何だ?」
夕殿の声が聞こえました。
何?
苦しくて、楽になりたくて、短い呼吸を繰り返しました。
「雪也、俺の声が聞こえるか?」
聞こえる。
夕殿に口づけをされ、僕は頷きました。
苦しい。痛い。
「願え。血桜に」
願え?血桜に?
微かに見える、藍色の夜空いっぱいに浮かぶ赤い花。
夜なのに見えるのは、この花が自ら光っているから?
手にとって見たくて、鉛のように重い手を伸ばしました。
震えているのかいないのか、それさえも、もう、僕には分かりませんでした。
願い。僕の、願い。
願ったら、叶う?
なんて、そのようなことを考える浅はかさに、涙が出そうでした。
「僕、は」
けれど。
もし、叶うと言うのなら。もし、叶えてくれると、言うのなら。
僕。
僕、は。
「僕は、生きたい」
聞こえたでしょうか。
僕の声は、届いたのでしょうか。
誰に?
誰に届けば、誰に届かせれば、この願いは叶えられるのでしょうか。
「夕殿と、共に、生きたい」
生きたい。夕殿と、生きたい。生きて、いたい。
緋色の、焔のような眸、その眸と同じ色の浄衣をまとう、頭に二本の角を持った。異形の貴方と。
舞う。
ひゅるりと、ひゅるうりと、風が舞って。
それに舞う、血色の、花びら。が。
一斉に。
「き、れい……………」
「雪也」
一斉に、風に吹かれて、舞い散って。
ひらひらとひらひらと。
無数に舞い散る、舞い落ちる、赤い花。
夕殿に抱かれて。夕殿の腕に抱かれて。
赤い花に見送られて。
嗚呼。
僕の命も、舞うのでしょう。
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