第7話
「今日はあたたかいぞ」
夕殿の声で目が覚めて、目が覚めたのに、身体が怠く、重く、動けないでいました。
昨夜の夢のせい?
夢の中の契りを思い出し、恥ずかしいと思いつつも、夕殿の腕の力強さ、胸の、身体の熱さに酔いしれる僕もいました。
今日も明日も明後日も。
僕が逝くまで。
………僕が。
その日はきっと遠くない。
その日は、近い。
「雪也?」
夕殿が僕の方へ歩み寄ってくる音が聞こえました。
「どうした?大丈夫か?」
膝をついて緋色の眸が僕を見ます。覗きます。
鋭い爪の手が僕の額に触れて、熱いな、と聞こえました。
「雪也」
息苦しく、少しむせた時に、僕は夕殿に唇を合わせられました。
胸の内側に、ふうっと吹き込まれる、何か。
それは身体中に染み渡り、僕の残り僅かとなった命に加わるのです。
「どうだ?少しはいいか?」
「うん…………ありがとう…………」
「まだ辛そうだな」
もう一度重なって、もう一度吹き込まれて。
夕殿。
多分もう、これ以上は無理。もう、誤魔化せない。
言えず黙って、口づけを受けました。
「今日はあたたかい。雪也、外を見るか?」
「………え?」
「お前は軽すぎるほど軽いからな。抱いて外に出てやる」
「見たい…………!!僕、外に出たい!!」
「では少しでも粥を食え」
「粥、を?」
「少しでいい。食え」
食欲は、ありませんでした。
けれど。
「いいな?」
「…………うん」
外に連れて行ってもらえるなら。
ほら、と差し出された腕にひょいと抱えられ、僕は囲炉裏のある部屋に連れて行かれました。
粥を入れられた椀を渡され、匙を渡され、夕殿が、後ろから僕を抱き抱えるよう支えてくれて。
「食わせてやろうか?」
「じっ………自分で、食べられますっ…………」
くっくと喉を鳴らして、夕殿が笑いました。
「一口二口でもいい、食えるだけ食え」
「………うん」
僕は夕殿に凭れるようにして、椀の中程まで粥を口にしました。
そして、もう無理と、椀をおろしました。
「もう、いいか?」
「うん。ごめんなさい、ごちそうさま」
「よく、食った。だから外に連れて行ってやる」
「本当………?」
肩越しにくるりと振り返ると、優しく、けれど哀しく笑う、夕殿が居ました。
きっと。
夕殿には不可思議な力があるから、きっと見えている。
そんな、顔。
僕の命の焔は、あと、どれほどと言うのでしょう。
「掴まれ」
「………うん」
僕は夕殿の首に腕を絡め、夕殿は軽々と僕を抱き上げました。
「雪也」
呼ばれて、唇を重ねられ、熱い何かを吹き込まれ。
「辛かったり、苦しかったり、寒かったら、言え」
「………うん」
ありがとう。
声が震えて、掠れて。
うまく、言えませんでした。
「あたたかい…………」
「だろう?」
夕殿に抱かれ、出た、夕殿の住む家の外。
空は青く澄んでいて、山は緑が濃くなっていました。
春が。
もう、春がくる。
空気が、春の色になっている。
目を閉じて、胸いっぱいに春を吸って。
夕殿の肩に、額を乗せました。
「辛いか?」
いつもに増して夕殿が聞いて来るのは、やはり何かが見えているから。
身体は、怠く、重く、あまり言うことを聞いてくれません。
「春を、吸ったの」
「春を吸う?」
「ありがとう、夕殿…………。春の空気は…………甘いね」
いつ以来の外だろう。
もう出られないと思っていました。
もう青い空の下には来られないと。
太陽の日差しを浴びることはないと。
「自分の足で立っても、いい?」
「素足だぞ?」
「うん、いい」
「立てるか?大丈夫か?」
「夕殿が支えてくれたら、多分」
夕殿がそっと、僕をおろして立たせてくれました。
僕の身体をしっかりと支えてくれて、けれど、足はしっかりと、地につけてくれて。
忘れていた、土の感触。
あたたかい、土の、感触。
「気持ちいい」
ずっとずっと遠い昔に、こっそりと出た庭先の感触が、よみがえりました。
見つかって怒られて、次の日に熱が出てしまったっけ。
あの時が、土に触れた、最初で最後。
「大丈夫か?」
「…………大丈夫」
ふわり。
風が、吹いて。
風が、流れて。
「かぜ………」
髪が、揺れました。
「寒くないか?」
「大丈夫………」
夕殿が、抱き締めてくれるから。
夕殿の身体は、熱いから。
「雪也、そろそろ入ろう」
「………あと、十、数えたら」
「雪也………」
空が、綺麗。青く、そして、雲は白く。
風が、気持ちいい。
春を連れている、甘い香りがする。
土の、日差しのあたたかさ。
これが、きっと………最後。
心の内で十まで数えて。
「数えたか?」
「ん、数えた」
夕殿が、あたたかい日差しの下で。緩やかな風の中で。
口づけを、してくれました。
生きたい。
貴方と共に。貴方の側で。
「あと少しで血桜が満開になる。それまでは」
「満開になると、どうなるの?」
「嘘か、真か」
「夕殿?」
「中に入ろう」
僕はまた、夕殿に抱き抱えられました。
僕は夕殿の肩に額を乗せて、目を閉じました。
もう、見なくていい。
「ありがと…………」
見なくて、いい。
僕はゆらゆらと抱き抱えられ、縁側に下ろされました。
「足を拭こう。座っていられるか?」
「うん、大丈夫。ごめんなさい」
「謝らなくていい。待っていろ」
ふわりと僕の頬を撫でて、夕殿が行きました。
あたたかな日差し。緩い風。
このまま、時が止まってしまえばいいのに。
そう思って、座って、ぼんやりとしていた時でした。
「誰だ!?」
夕殿の声。
からんと、何かが落ちる音。ばしゃんと、水が飛び散る音。
そして。
「兄さん!!」
「草也!?」
走って来た草也と。
「うわっ、ちょっと待てって」
一樹さんの、声?
「雪也!!大丈夫か!?」
「明宗!?」
何故、ここに。
何故?
「嫌………」
「兄さん」
「雪也」
「嫌だ、帰らない………嫌だ。何しに来たの?帰って!!今すぐ帰って!!」
「兄さん、落ち着いて」
「雪也、興奮するな」
「嫌、嫌だ、僕はここに居る!!夕殿とここに居る!!帰って!!早く帰って!!」
嫌。
苦しい。
帰って、来ないで、触れないで。
息が。胸が。
僕は夕殿と居たいのです。夕殿とふたりで居たいのです。
夕殿だけでいいのです。
僕を閉じ込めて隔離してひとりにする、あの家には、あんな家には帰らない。帰りたく、ない。
苦しい。胸が、苦しい。息が苦しい。
「あっちへ行って!!ここには来ないで!!」
「兄さん………」
「雪也、違う、連れ戻しに来たんじゃない」
「嫌!!触らないで!!近寄らないで!!」
草也が泣きそうな顔で僕に伸ばした手を止めました。
明宗が僕の手首を掴んで何かを言いました。
嫌、嫌、嫌だ。
離して、帰らない、帰りたくない。
苦しくて、苦しくて。
「雪也」
夕殿の低い声と、包まれる、熱。
僕は夕殿にしがみつきました。必死で。必死に。
夕殿の胸に顔を埋めました。
苦しい。
息が苦しい。胸が苦しい。
「雪也」
夕殿の熱い手が、僕の顎を持ち上げて、僕は夕殿に口づけをされました。
「兄さん!!」
「なっ…………」
草也と明宗の驚く声が、聞こえました。
ふう、と吹き込まれたものが、少し、僕を楽にしてくれて。
「大丈夫か?」
「い、や」
「雪也?」
「いやだ、ここに居たい。夕殿と居たい。帰りたくない」
涙が、溢れました。
ただ、ここに、居たい。
他にはもう何も望まない。望まないから。何も要らないから。
ただ、せめて、ここに。夕殿と。
「泣くな、雪也」
「ここに居たい。お願い、ここに居させて」
もうあと少しで、きっと僕の命は消えるから。
「雪也、すまん。驚かせた」
一樹さんの声が、して。
僕の身体はびくりと震えました。
「草也と明宗はおれが連れて来た」
「………え?」
「夕ちゃんが行くところは、ここしかないって分かってたから」
「夕ちゃん?」
一樹さん?
夕殿を知っているの?
驚いて、顔をあげて、夕殿を見ました。
「俺は………知らない。誰だ?」
「夕ちゃんはまだ小さかったからね」
「どういうこと?」
恐る恐る振り向いて、一樹さんを見ました。
短い髪を掻いて、一樹さんはいつものように優しく笑いました。
「おれには半分、鬼の血が入ってる」
「………え?」
「子どもの頃この辺りに住んでた。夕ちゃんともよく遊んでた」
半分鬼の血が?
信じられなくて、僕はまた夕殿を見ました。
覚えていない。
夕殿はそう繰り返して、大丈夫か?苦しくないか?と聞いてくれました。
「うん、大丈夫」
「寒くないか?」
「風が、少し………冷たい」
「部屋に入って話を聞こう。雪也、話を聞くだけだから」
「聞く、だけ?」
連れて行かれない?ここに居ていい?
すがるように夕殿を見ると、夕殿は大丈夫だと僕を抱き寄せてくれました。
夕殿がそう言うのなら。
僕は夕殿の浄衣をぎゅっと掴んで、うん、と、頷きました。
夕殿が僕の足を拭いてくれて、そして抱き抱えて囲炉裏の部屋へと連れて行ってくれました。
「雪也、横になるか?布団を持って来るから………」
「………大丈夫」
「雪也」
「大丈夫」
夕殿とふたりきりなら僕は、横になると言ったでしょう。
たったあれだけの外、日差し、ほんの少し自分の足で立っただけで僕はひどく疲れていました。
けれど。
僕の時間がもうあと少しと分かってしまったら、特に草に知られてしまったら。
僕は家に連れ戻されるかもしれない。
父様と母様は恐らく、僕を探しているだろうから。
そう思ったら、恐ろしくて、嫌で。絶対に嫌で。横になるとは、言えませんでした。
「じゃあこうしていよう」
夕殿が僕の後ろに座って、僕の身体を抱いて、凭れていろと、言ってくれました。
夕殿の熱い身体に包まれて。
「そのまま眠ってもいい。話は俺が聞いておく」
「眠ってしまっても、僕を家に連れて行ったりしない?」
「しない。約束する」
その言葉に、きっと嘘はないと、僕は思いました。
嘘は、ない。
では。
眠ったら、僕は。眠っても僕は、次に起きられるのか。目を覚ますことが、できるのか。
ひとつ消えるとひとつ増える、恐ろしさ。
怖くなって、ぶるりと身体が震えました。
「雪也」
呼ばれて夕殿を見ると、また唇を重ねられました。
草も一樹さんも明宗も、居るのに。
流れ込む何かに、少しだけ、楽になって。
「大丈夫だ。心配するな」
「………うん」
夕殿が、大丈夫と言うなら。
僕は身体の力を抜いて、夕殿に委ねました。
「夕ちゃんせめて接吻は、すると言ってからやってくれると後ろを向いたりできるんだが………」
「別に見られても構わん」
「いや、おれたちは目のやり場に困る」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「それは、すまない」
夕殿の声が、震動で伝わって。
熱と共に心地好く、芳しい夕殿のかおりと共に心地好く、僕は目を伏せました。
「兄さん、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
意識がふうと遠退いたり、戻ったり。
繰り返し、繰り返して。
「眠っていいぞ?」
「………ん」
夕殿の指が僕の髪をゆるゆると滑ります。
「夕ちゃん、先にひとつ、聞きたい」
「何だ?」
「ここには夕ちゃん以外に、鬼は居ないのか?」
張りつめた沈黙が、瞬時、流れました。
鬼の血が半分入っていると、一樹さんは言いました。
一樹さんは一樹さんの父様と二人で暮らしていると聞いていました。つまりそれは、一樹さんの母様が鬼だということ?
一樹さんには本当に、鬼の血が?
「居ない。俺だけだ」
「そうか………」
「俺も聞きたい。お前は本当に鬼の血が入っているのか?」
「入ってる。母ちゃんが青鬼だ」
「青鬼………?」
夕殿が、何かを考えるような声で呟いて。
「父ちゃんが鬼ではないからね、血が薄い。角も髪で隠れる」
角?
一樹さんにも、角が?
伏せていた目を開けると、確かめるか?と一樹さんが優しく笑って、僕の側に来ました。
「ほら」
僕の手を取って、頭の上の方に導きました。
指先に、ほんの僅かな尖りが、触れて。
「これ、角?」
「角だよ。夕ちゃんは二本角、おれは一本角だ。小さい角だからな、触れないと分からないだろ」
「うん………全然、分からなかった」
「おれの本当の名は一の鬼と書いて『かずき』なんだ。黙っててごめんな」
「ううん………」
手が離されて、僕はまた夕殿に全身を預けました。
一の鬼。
一樹さんが、鬼の血を引いている。
何だかまだ、信じられなくて。
「もしかして、向かいの家に、住んでた………?」
「うん、そう。思い出した?」
「うっすらと、覚えているような、いないような」
「母ちゃんが、里に降りろって、急に言い出してな。すごい剣幕で」
一樹さんが静かに言いました。
今すぐ降りないなら、喰ってやるって、な、と。
「………え?」
割れそうなほどの空気がそこに漂い、夕殿は身体を強張らせ、僕は夕殿にしがみつきました。
「何故なのか、分からなかった。父ちゃんもおれも、ただ驚くばかりで。本当に普通の母ちゃんだったから」
「…………お前を、守ったんだ」
「夕ちゃん?」
低く、掠れる声に。哀しみに満ちたその声に。
僕は身体を捩り、その首に腕を絡めました。
ひとりを知る夕殿の、悲痛な声音。
僕の心を揺らす、声音。
「守った?」
「鬼は俺以外狩られた。………人に」
どくどくと、僕の心臓が激しく脈打ちました。
狩られた?
人、に?
狩られたとは、一体。
「俺にもあの時に何が起こっていたのか、よくは分からない」
夕殿が、強く僕を抱き締めてくれました。
でもそれはいつもの包み込むような抱擁ではなく。
いつも僕が夕殿にする、すがりつくような抱擁、でした。
「人が来たと、力は使うなと、叫ぶ声が聞こえた。力は使うな、人に危害を与えてはならぬ、と。俺は静かになるまで出て来るなと言われ、空井戸に放り込まれた。言われた通り俺はそこで待った。待って待って待って、外に出た」
震える、声。
「そこにはただ、恐ろしいほどの血だけが残されていた。誰も居なかった。どれだけ探しても、どこを探しても、誰も、何処にも、居なかった。…………屍、さえ」
割れる。
空気が、割れる。
耳が痛いほどの沈黙、静寂。
満ちるのは哀しみ、怒り。
夕殿。
「そう、か…………」
一樹さんが、静かに、言いました。
空気を裂く、優しい声で。
「話してくれて、ありがとな」
「………ああ」
何故?
僕は思うままに、口を開きました。
「何故?」
「雪也?」
「何故、そのようなことが」
何故そのようなことがあり、何故そのように語ることができ、何故そのように受け入れられるのか。
「これが異形として生まれてきたさだめだ、雪也」
さだめ。
………さだめ。
その一言ですべてを悟った僕は、夕殿の頬に自分の頬を寄せました。
さだめ。
決まっているもの。変えられぬもの。
どんなに祈っても。どんなに願っても。
泣いても怒っても憎んでも。
受け入れる以外、何も、できぬもの。
深い深い闇の底で、僕と夕殿は呼応したのでしょうか。
導かれるように。導かれて。
「草也、明宗。この姿を見ても、まだ雪也を連れて帰ると言うか?」
一樹さんの声が、段々と、遠退いていく。
雪也。
耳元で聞こえる、夕殿の、声。
あとの声は、こだまして、聞こえなくて。
ぐるぐる、しました。
白と黒がぐにゃりと歪み混ざり、回りました。
目を開けていられなくて、固く閉じて、首を振りました。
帰ると、そこのその一言だけが、僕の耳に届いたからです。
「嫌。帰らない。帰りたくない。夕殿と居たい。離れたくない」
お願い、夕殿。僕を、離さないで。
僕が、最後の最期を迎えるまでは。
「雪也」
気持ちが悪い。
回る、揺れる、天と地が分からなくなる。
そして僕の意識は。
暗転、しました。
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