第6話
ゆらゆらと。
ゆら、ゆらと、揺れるような。
夢?
これは、夕殿とお会いできる夢?
目を開けて、辺りを見渡しました。
違う?
いつもの夢とは、違う、部屋。
寝ている布団も、いつもと違いました。
僕、夕殿と……………?
俺と行くか?と、聞いたような。
「夕殿?」
行く、と。
お願い、連れて行ってと。
「夕殿…………」
誰も、居ない?
静かな部屋。見知らぬ部屋。
ここは何処で、何故僕はここに居るのか、分からず。
不安で。
「夕殿」
起き上がってその名を呼んで、苦しくて、咳込みました。
苦しくて、ひとり、で。
ひとり。………独り。
涙が出そうになった、その時、でした。
「大丈夫だ、ここに居る」
襖が開いて、低く聞こえた声と芳しいかおり。
空気が揺れて、冷えていた部屋がほわりと暖かくなったような気がしました。
「夕殿っ…………」
「悪い、何か食べるものをと、囲炉裏の方に居た」
僕に近づき、背中をさすり、大丈夫か?と、心配そうに僕を覗き込んでから、夕殿は唇を重ねてくれました。
流れ込む何か。
いつも不思議に思う、これは、何?
そっと離れて、僕を見て、もう一度。
僕は目を閉じて、その唇を、その夕殿の温もりを、感じました。
抱き締めてくれる力強い腕。髪を撫でてくれる熱い手。
夕殿が居る、ここに居る、僕の側に、僕のすぐ、側に。
「夕殿…………」
「大丈夫か?」
「はい」
心臓が、どくどくと早く。
僕はぎゅっと夕殿に腕を回し、しがみつきました。
「ありがとう」
「雪也?」
「僕の我が儘を聞いてくれて」
夕殿の手が僕の髪を耳にかけて、露になった耳に、違うと、聞こえました。
「夕殿?」
「俺がお前と居たかった」
低く小さく呟く、声。
同じひとりを知る、僕と、夕殿。
側に居たい。側に居て。
最期のその、時、まで。
「ここは、何処ですか?」
「昔から俺が住んでる家だ。昔はもっと鬼も居て、集落になっていた」
「今は?」
「今は俺ひとりだ」
ひとり。
その言葉に、その哀しげな眸に、胸が痛みました。
「粥を作った。食えるか?」
「夕殿が?」
「そうだ」
「うん…………食べたい」
僕がそう答えると、緋色の眸が優しく僕を見つめてくれました。
ひとりと言った刹那の眸は、もうそこにはありませんでした。
「掴まれ」
「え!?あ、あのっ、僕、歩けますっ」
僕は、夕殿にひょいと抱き上げられて。
「いいから。無理するな」
驚いて、何だかとても恥ずかしくて、思わず顔を伏せました。
「雪也」
「………はい」
呼ばれて顔をあげると、鼻先で顔の向きを変えられて、また唇が重ねられました。
嬉しくて、胸が高鳴って、幸せ、と。
僕はそっと、目を、閉じました。
夕殿に抱き抱えられ、家の中心にある囲炉裏の側で、僕は初めて誰かと共に食事をしました。
僕はいつも部屋でひとり、運んできてくれるものを食べていて、ずっと。だから初めてで、嬉しくて。
何を話す訳でもなく、何を聞く訳でもありませんでした。
でも、ぱちぱちと炎が弾ける音が心地好くて、顔をあげればそこには夕殿が居ました。
僕が見ていることに気づけば、まだいるか?もういいか?と、優しく微笑んでくれました。
ただそれだけ。
ただそれだけが、どれだけ心を穏やかにしてくれるか。
その気持ちを噛み締めて、僕は夕殿が作ってくれた粥を、味わって味わって、食べました。
食事の後、夕殿は僕の身体を拭いてくれました。
湯で濡らした手拭いを固く絞り、丁寧に、丁寧に。
着物を脱がされ、長襦袢だけになり、けれどそれを脱がすことはなく、大きく広げた襟の間から手を入れ、寒くはないかと僕に問いながら。
こんな風に誰かに身体を拭いてもらったことも、僕は、なくて。
夕殿についてきて良かったと、連れてきてもらえて本当に良かったと、心からそう思いました。
肩から落ちそうになる長襦袢を押さえてはいましたが、夕殿が息を飲んで僕の首から背中にかけて大きくある痣を見ているのを感じました。それは大きく醜い痣です。
「生まれつき、です」
「そうか」
「大丈夫。触れてもうつったりはしません………」
「そんなことあるはずないだろう」
「おばあ様はよく、うつるから近寄るなと」
ありがとうと言って、僕は急いで長襦袢を直そうとしました。
おばあ様は僕が幼い頃からずっと、痣がうつるから僕に近づいてはならないと、僕に触れてはならないと、父様にも母様にも草也にも言っていました。
お医者様がいくら大丈夫だと言っても、おばあ様は信じてくれず、この痣のせいで身体が弱いのだと。いつも。
「見せてみろ」
「夕殿…………」
直そうとした長襦袢を引っ張られ、僕の上肢が夕殿に晒されました。
白く、貧弱な身体。
恥ずかしくて、僕は顔を伏せました。
「見ないで」
「何故」
「恥ずかしい」
髪が退けられ、背中を撫でられて。
「夕殿」
「人の方が余程鬼だと思う時がある。なぜそんな心ないことが言えるのか」
触れる、夕殿の、熱いてのひら。
恥ずかしい。
恥ずかしいのに、嬉しい。
僕は夕殿の熱い手に目を閉じました。
言葉にできない。
言葉にならない。
「夕殿」
その胸に凭れかかり、僕はしばらく、夕殿の芳しいかおりに、触れていました。
「雪也?どうした?」
「ありがとう、夕殿。本当に、ありがとう」
幸せ。
人と。
誰かと共に、在るという、幸せ。
温もり。
初めて感じる、それ。
夕殿が、僕を抱き締めてくれました。
強く、抱き締めて、くれました。
もう、何も要らない。
例えこのまま死んでしまっても、僕は幸せだと、そう言える。
ありがとう。
もう一度小さく言って、僕は夕殿の腕に抱かれ、涙を堪えました。
「どうした?」
夕殿が、優しく問いました。
それはきっと、僕がずっと笑っていたから。
くすくすと、笑っていたから。
こんなに声を出して笑ったのは、多分、初めて。
夕殿と居ると初めてのことばかりで、嬉しくて、嬉しくて。
「寒くないか?」
「うん。大丈夫」
夕殿が、抱き寄せてくれました。
同じ、布団。
僕と夕殿は身体を寄せ合って、同じ布団に入っていました。
物心ついた頃にはひとりで寝ていた僕に、これも初めてのことでした。
いつもは冷えて、寒くてなかなか眠れないのに、今日は。
「あたたかい」
夕殿のぬくもり。
夕殿の身体のぬくもりが、僕をあたためてくれるのでした。
「夕殿」
「何だ?」
「ずっとお聞きしたかったのですが………」
どのように切り出して良いか分からず黙っていると、その固い話し方は何とかならないのかと、笑われました。
何とかって…………。
ますます何と言って良いのか分からず、夕殿に寄り添いました。
「あの」
腕枕をされて、髪が撫でられ。
まるで大切なものを扱うかのようなその仕種に、うっとりと目を閉じました。
「夕殿に口づけをされると身体が楽になるのですが、それは何故でしょうか」
「…………もっとくだけた物言いはできないのか?」
夕殿の笑う声、夕殿の話す声が、心地好い振動となって僕に伝わります。
こんな風に人の声を聞くことができるなんて。
「えと、何か、流れて来るような気がする」
「俺が口づけると?」
「…………うん」
頷くと、夕殿は僕の顎を掴んで、僕の唇にぽってりとした果実のような唇を合わせてくれました。
何か。
流れてくる、何か。
「ほら、また…………」
はしゃぎすぎて、気怠く、息苦しくなり始めていた身体が、すぅっと軽くなって。
「分からん」
「え?」
「自分でもよく分からん。小さな怪我なら治せる。軽い病なら治せる。何故かは分からん。できそうな気がしてやったらできた、その程度のことしか俺は、知らんのだ。そして雪也の病は重すぎて、誤魔化すことしかできんのだ。………すまない」
「すまない、なんて」
言わないで。
僕は夕殿に命を伸ばしてもらっている。
命を与えられている。
こうして、初めて味わうぬくもりを、喜びを、幸せを、与えられているのですから。
「夕殿には、感謝しか、感謝の言葉しか、出てこないよ?」
夕殿は黙ってもう一度、僕に口づけてくれました。
接吻。
口づけ。
柔らかな、唇の、感触。
「他にも何か、できる?」
「他?そうだな…………」
見ていろ。
言われて見る、夕殿の
鋭い爪の、先。
「わぁ……………」
赤い焔が、灯り。
「赤鬼だから、火を灯せる。それぐらいだ」
「きれい」
手を近づけるとそれはあたたかく、すぐに危ないぞ、と、その焔は消されてしまいました。
「赤鬼、だから?」
「そうらしい。青鬼は水を操れるとか」
「青い鬼も居るの?」
「今は居ない。みんなもう、居ない」
「それは、何故」
雪也。
低く呼ばれて、驚いて。
僕は、はい、と、返事をしました。
「そろそろ寝た方がいい」
「…………そう、だね。ごめんなさい」
「怒っているのではない。お前の身体が心配なんだ」
頬に触れる熱い指先。
唇を掠める、夕殿の唇。
「夢渡りをしてやる、だから寝ろ」
有無を言わせぬ、声。
「夢渡り?」
「雪也の夢に、行ってやるから」
僕の、夢。
僕の夢に、夕殿が。
眠る時に、いつも思っていました。
もう、朝は迎えられないかもしれないと。
だから、眠るのは怖くて。
怖く、て。
「早く眠りたいと思うことも、初めて」
僕の言葉に、夕殿は微笑んでくれました。
あ……………。
ゆらり、ゆらり。
揺れる。
揺れる、ゆら、ゆら。揺れる。
この、揺れは。この、感覚は。
「雪也」
呼ばれて手を伸ばしたら熱い手に握られて、僕は目を開けました。
夢だけれど、夢ではない、夢。
約束通り夕殿は、僕の夢に来てくれました。
「起き上がれるか?」
「…………うん」
夕殿に身体を支えられながら、僕は起き上がりました。
「大丈夫か?辛くはないか?」
緋色の眸が、真摯に僕に問いかけてくれます。
「大丈夫」
抱き寄せられるがままに夕殿の腕に抱かれ、その身体の熱を、感じました。
「夢なのに、現のよう」
髪を滑る夕殿の指に、目を閉じました。
目を閉じた僕の唇に、夕殿の唇が触れます。
優しく、触れて。
優しく、離れて。
目を開けたすぐそこに、夕殿の眸があって。
「夕殿……………」
もっと、触れたい。もっと、触れて欲しい。
「そんな目で見るな」
「どんな、目?」
夕殿はそれに答えず。
苦しかったら言え、と、一言言って。
「………………っ」
唇の隙間から僕の中に入って来たのは、夕殿の……………。
頭に血がのぼっていくのが分かりました。
でも、嫌とは、思いませんでした。
むしろその反対で。
僕は夕殿にされるがままに、委ねました。
「苦しくないか?」
「あ…………」
離れないで。僕から出て行かないで。
僕は夕殿の唇を追いかけました。
「大丈夫、大丈夫、だから」
すがる僕に、夕殿はもう一度拐うように口づけてくれました。
熱い。
顔が熱い。
身体が熱い。
どんどんと熱くなっていく身体をどうすることもできず、僕は荒い息を漏らしていました。
苦しいのではないのです。
熱くて。
熱く、て。
夕殿の手が、僕の着物の襟を捕らえました。
そして思いきり、左右に開きました。
「………………っ!?」
僕は思わず目を見開き、唇を重ねたままの夕殿を見ました。
夕殿は薄く焔の眸を開いて僕を見ていました。それを見た瞬間に、背中が。背中が、泡立って。ぞくりと震えて。
夕殿はそのまま帯をほどき、更に僕の着物を緩めました。
肩が、両方の肩が露になって、咄嗟にこれ以上開かないよう掴んだ手を取られ、夕殿の唇が。
ぽってりとした、果実のような、唇が。
「嫌、か?」
首筋を滑り、肩を滑り。
僕は首を振りました。横に何度も首を振りました。
嫌じゃない。
嫌じゃない。
嫌じゃない、の、です。
恋、など。
恋などできぬまま、知らぬまま、ただ逝くだけの、僕、なのに。
そして。
ただ、貴方をひとり。
遺して逝くだけの、僕、なのに。
遺して。
ひとり。
「夕殿…………。夢でいい、貴方と契りたいと言ってもいい?」
好きとは言わないから。言葉は遺さないから。
現では、望まないから。
身体にも、遺さないから。
夕殿の眸が、哀しそうに揺れました。
「辛かったら、言え」
僕は、夕殿にそっと組み敷かれ。
夢の中で。
夢のように。
夕殿と幻の契りを、交わしたのです。
夢。
現ではなく、これは、夢。
「苦しくないか?辛くはないか?」
夕殿はゆるりゆるりと動きながら、時折確かめるように僕の髪を撫で、問うてくれました。
夢、だからでしょうか?
実際の身体が交わっているのではないから?
痛みは、ありませんでした。
痛みはなく、けれど感じる夕殿の逞しい、あたたかな………熱いぐらいの身体。
僕の中で脈動するもの。そこから伝わる律動。
目の前の、不思議と怖くはない、僕を貫く異形の者。
「夕、殿…………」
目を開けて、夕殿の頬にそっと触れました。
夕殿は僕の手に手を重ねてくれました。
緋色の眸は僕を見つめ、焔のようにゆらゆらとしていました。
「大丈夫か?もうやめるか?」
「もう少し………お願い、やめない、で。もう少し………僕の中に居て」
現ではない、から?
果てのない目合い。
快も悦も伴わない、不可思議な、行為。
だけど。だから。
水に、波に、たゆとうように、それは僕の内側を満たすのでした。
「雪也………夢とは言え、あまり無理をしない方がいい」
「ん…………もう少し………もう少し、だけ」
夕殿。
現で契りたいなど、そのようなことは言いません。
本当に身体を重ねてしまったら、僕はきっと逝くことが恐ろしくなる、悲しくなる、生きることを諦めたくなくなる。
夢で。
夢でいいのです。
本当の契りは、知らないままでいいのです。
ただ。
明日明後日もその次も。
僕の命が消えるまで。
こうしたい。
こうして、いたい。
「お前が望むなら、そうしよう」
「ん…………うん…………」
夕殿。
夕殿へのこの気持ちを、何と名付けて良いのか、僕には分かりません。
分からないのです。
同じひとりの寂しさを知る貴方。僕の願いを聞いてくださるただひとりの人。
夕殿。
例えこの気持ちに名をつけられたとしても。
伝えずに、逝くから。遺さずに、逝くから。
あと少し。
あとわずかな時を、刻を。僕にください。
こんな風に欲深くなる僕を、どうか、許してください。
「辛いか?」
「違、う…………」
「どうした」
つうっと溢れ流れた涙に、夕殿の困惑した声が聞こえました。
嘘。全部、嘘。
貴方と居たい、貴方と生きたい、貴方と共に、貴方の側で。
言わずに逝くから。遺さず逝くから。
夕殿………。貴方と生きたい。
もう長くはない僕の、これは、馬鹿げた願い。
「ありがと…………」
目を閉じて。
貴方に委ねて。
貴方の唇を、僕は。僕の唇に。
感じ、ました。
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