第2話

 僕は生まれつき身体が弱く、村に居るただ一人のお医者様に、十まで生きられないかもしれないと言われていました。

 

 

 それを聞いた父様と母様は、僕をとても大切に育ててくださり、僕は何とか数え年で十九を迎えることができました。

 

 

 

 

 

 夜、眠る前に思うのは、もうこのまま目が覚めないかもしれないということ。

 

 

 朝、目が覚めて思うのは、今日が最期の朝かもしれないということ。

 

 

 

 

 

 家と庭。

 

 

 

 

 

 限られたところしか知らぬ僕には、それ以外に思うことはないのです。

 

 

 

 

 

 生きることではなく、ただ死ぬこと。

 

 

 それを待つ日々でした。

 

 

 

 

 

 父様と母様に感謝の気持ちはあれど…………生きる喜びというものがどのようなものなのか、死を待つだけの僕には、分かるはずもないのです。

 

 

 

 

 

 ある夜のことでした。

 

 

 

 

 

 かたかたと風に鳴る戸に目が覚めて、ああ、今日も目が覚めたのかと、何とも言えぬ思いを抱えていた時のことです。

 

 

 

 

 

 かたかた、かたかた。

 

 

 

 

 

 隙間からこぼれる光に誘われて、僕はゆっくりと起き上がり、そっと戸を、開けました。

 

 

 刺すような冷たい空気に、これでは風邪をひいてしまうと思いました。

 

 

 風邪をひいてしまえば、それこそ僕はどうなってしまうか分かりません。

 

 

 父様と母様を悲しませてしまう。早く布団に戻らねば、と。

 

 

 

 

 

 けれど。

 

 

 

 

 

 藍色の空に丸く浮かぶ白銀の月がとても美しく、僕はその美しさに心惹かれ、その月を眺めました。

 

 

 

 

 

 美しい。

 

 

 

 

 

 月がこんなにも美しいと、恥ずかしいことにそのとき僕は初めて知ったのです。

 

 

 

 

 

 ぶるりと身体が震え、そろそろ戸を閉めようと手をかけた時に、僕は、見たのです。

 

 

 

 

 

 月の明かりに照らされた、村の中心にある、決して渇れることのない不可思議な泉。

 

 

 そのほとりにある緋色の花弁の、血桜と呼ばれる万年桜。

 

 

 そしてその木の下に佇む、誰か。

 

 

 

 

 

 今は何刻なのでしょうか。

 

 

 

 

 

 凍えるような空気、凍てつく風の中。

 

 

 はためく衣が見えました。

 

 

 

 

 

 まほろばでしょうか。

 

 

 それとも。

 

 

 

 

 

 かたかた、かたかた。

 

 

 

 

 

 風が戸を揺らします。

 

 

 手の震えがまた、戸を揺らします。

 

 

 

 

 

 はあっと手に息を吹き掛け、もう一度そこへと視線を戻しました。

 

 

 

 

 

 ゆらり。

 

 

 ゆらり。

 

 

 

 

 

 緋色の、陽炎のような。

 

 

 焔のような何かが、揺らめいて。

 

 

 

 

 

 そこに、行きたい。

 

 

 

 

 そこに誰が居て、そこに何があるのか。

 

 

 外に出たことも、出たいと望んだこともない僕が、そのような思いにとらわれて。とらわれて。

 

 

 

 

 

 朝。

 

 

 僕は目が覚めるのでしょうか。

 

 

 眠りについたらそのまま冥土へと連れて行かれるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 もし目覚めることができたのなら。

 

 

 目覚めることができるのなら。

 

 

 

 

 

 そこに、行ってみたいと。

 

 

 

 

 

 戸を閉めて、僕は布団へと戻りました。

 

 

 

 

 

 目が覚めますように。どうか目が覚めますように。

 

 

 

 

 

 僕は初めて、そう神様にお願いをしたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 苦しくて。

 

 

 苦しくて苦しくて、熱くて。

 

 

 

 

 

 掠れる意識を何とか引き寄せて、目を、開けました。

 

 

 開けることができて、けれど、僕の枕元で悲しそうにしている父様と母様、そして、草木が茂る季節に生まれた二つ年下の弟、草也そうやを見て、僕はもういよいよ死に逝くのだと思いました。悟りました。

 

 

 

 

 

 息を吸うのさえ、胸が燃えそうに、熱くて、苦しくて。

 

 

 

 

 

 ゆらゆらと。

 

 

 

 

 ゆらゆらと、あの緋色の。

 

 

 陽炎のような、焔のような、あれが何だったのか、近づいてみたい、近づいて見てみたい。

 

 

 そんな小さな望みさえ叶えることもできないままに、僕は逝かねばならぬのかと、初めて己のさだめを、恨みました。

 

 

 

 

 

 初めて?

 

 

 

 

 

 初めて、では。

 

 

 

 

 

「兄さん…………」

 

 

 

 

 

 零れ落ちた涙に気づいた草也が、そうが、僕の涙を指で拭います。

 

 

 けれど、一度溢れてしまった涙は後から後から溢れ落ちて。

 

 

 

 

 

 どうして僕は、このようなさだめなのでしょうか。

 

 

 どうして僕は、他の皆のように外に出ることも出来ず、家の中で、布団の中で、こんな風に。

 

 

 考えてはいけないと、ずっと自分を戒めて、僕は。

 

 

 己の心の内をただ見ぬふりしていただけで。

 

 

 

 

 

 

 本当は。本当、は。

 

 

 

 

 

 恨んでは、いけないのです。

 

 

 誰に罪があると言うのでしょう?

 

 

 分かっているのです。

 

 

 罪などないのです、誰にも。

 

 

 契りを求めた父様にも、僕を孕んだ母様にも、生まれ行くと命を紡いだ僕に、も。

 

 

 

 

 

「外に、行きたかった………」

 

 

 

 

 

 せめて。

 

 

 せめて、あの泉に、あの血桜に。

 

 

 

 

 

 ………触れて。

 

 

 

 

 

 あの陽炎のような、焔のような。あの緋色の何かを、もう一度この目に映したかった。佇む人に、一目、お会いしたかった。

 

 

 

 

 

 霞、む。

 

 

 

 

 

 霞んでいく意識を、もう僕は止められませんでした。

 

 

 このまま冥土に行くのだと、逝くのだと、思いました。

 

 

 

 

 

 兄さん!

 

 

 

 

 

 草の声が、聞こえたような気が、しました。

 

 

 

 

 

 でも。

 

 

 でも、もう。

 

 

 もう………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆらり、ゆらりと。

 

 

 

 

 

 揺れて、揺れ、て………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 芳しい匂いに、僕は目を開けました。

 

 

 

 

 

「………え?」

 

 

 

 

 

 苦しくもなく、熱くもなく、息をしても楽で、僕は思わず起き上がり自分の手を見つめました。布団を捲り、身体を、足を見ました。

 

 

 身体が嘘のように軽く、不思議に、不思議で。

 

 

 

 

 

 何故。

 

 

 

 

 生きているのか、いないのか。

 

 

 

 

 

 蝋燭が、蝋燭の炎がいくつもあるここが、僕は冥土なのだと、思いました。

 

 

 

 

 

 しんとした、一人きりの、ここ。

 

 

 

 

 

 こんな風に人は死ぬのかと、どこか冷静な自分と、では今からどうしたらいいのかと不安に思う自分とが、居て。

 

 

 

 

 

「昨日俺を見ていたのはお前だな」

「…………っ!?」

 

 

 

 

 

 ふいに聞こえた低い声に、僕は驚きのあまり飛び上がり、声をあげることさえできませんでした。

 

 

 心臓が激しく脈打ち、こんなに激しく動いたら、止まってしまうのではないかと、思いました。

 

 

 

 

 

 止まってしまう?

 

 

 

 

 

 止まってしまったからここに居るだろうに、自分の考えがあまりにもおかしくて、僕は笑ってしまいました。

 

 

 

 

 

 もう死んでしまったのなら、何も恐れることなど、ないのです。

 

 

 

 

 

「ここはどこですか?貴方は一体…………」

「ここはお前の夢の中だ」

「夢……………」

 

 

 

 

 

 夢の中?

 

 

 

 

 

「僕は冥土に来たのではないのですか?」

「夢の中だ」

 

 

 

 

 

 繰り返す低い声に、芳しい香りに、僕は辺りを見渡しその姿を探しました。

 

 

 けれど蝋燭が灯っているのに、その姿を捉えることはできなくて。

 

 

 

 

 

「貴方は、誰ですか?何処に居るのですか?お姿を見せては頂けないのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 ゆらり。

 

 

 揺れる、炎の先に。

 

 

 

 

 

 緋色の。緋色の奴袴ぬばかまが、見えて。

 

 

 

 

 

「お前の、名は?」

雪也ゆきやと、申します。貴方は………」

「何故俺を見ていた?」

 

 

 

 

 

 昨夜、月の光に誘われて開けた戸の、見えた人影がこの方だと。

 

 

 本当にそれが、本当ならば。

 

 

 

 

 

「目が覚めて、月の光に導かれたのです」

「月の、光に…………」

 

 

 

 

 

 一歩、また、一歩と近づいて。

 

 

 

 

 

 見える、浄衣じょうえに似た、緋色の衣。

 

 

 

 

 

「随分と身体が弱っているようだな」

「………はい。これが夢だと仰るのであれば、もう覚めることはないでしょう」

「死ぬということか?」

「元々身体が丈夫ではなくて………。ここまで生きられたのが奇跡だと」

 

 

 

 

 

 あと、少し。

 

 

 あと少しで。その顔が。

 

 

 

 

 

 その。

 

 

 

 

 

「あっ………」

 

 

 

 

 

 長い、鋭い爪の指が。

 

 

 刹那に僕の顎を掴んで、僕の顔を上向かせました。

 

 

 

 

 

 緋。

 

 

 

 

 

 鮮やかな、緋色の眸。

 

 

 そして赤みがかった、白銀の髪。

 

 

 男。

 

 

 

 

 

 男は僕を上向かせたまま、様々な角度から僕を見ました。

 

 

 その時に見えたのです。見たのです。その髪から覗く、二本の。

 

 

 

 

 

 つの?

 

 

 

 

 

「美しい顔をしている」

 

 

 

 

 

 赤い、眸が。

 

 

 僕を見て、いました。

 

 

 

 

 

 それは突き刺さるような強い視線で、僕は金縛りにあったかのように、その視線から顔を背けることができませんでした。

 

 

 ただただ、見ていたのです。

 

 

 

 

 

 

 ぽってりとした、その唇が。

 

 

 

 

 

 ゆっくりと。

 

 

 ゆっくり、と。

 

 

 

 

 

「また会おう、雪也」

 

 

 

 

 

 僕の唇に、重なるのを。

 

 

 

 

 

 その熱く、柔らかな唇が僕の中に何かをもたらしていったのが、分かりました。

 

 

 

 

 

 また、会おう?

 

 

 

 

 

 僕は。

 

 

 僕は、死ぬのではないのですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兄さん、兄さん!!

 

 

 

 

 

「草?」

 

 

 

 

 

 僕を呼ぶ声に、答えて。

 

 

 答えた、その時に。

 

 

 

 

 

「兄さん!!」

「雪也!!」

 

 

 

 

 

 ゆらゆらと、ゆらゆらと。

 

 

 

 

 

 夢?

 

 

 

 

 

『また会おう、雪也』

 

 

 

 

 

 僕の唇に触れた。僕が初めての接吻をした、あれは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この村のどこかに住むという、異形の者。赤鬼。

 

 

 

 

 

 僕は、夢の中の赤鬼に、確かに、この命を。

 

 

 

 

 

 ………救われたのでした。

 

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