目覚めたら
薄暗い、上も下もわからない微睡に響く、記憶の断片。
『――よ。ではやはり、我らに――は――ぬと申すか』
どこか懐かしくも、儚い記憶。これは、いつの頃だっただろうか。
『なぜ拒む。最早時が少ないこと、其方もわかっていよう』
そう、僕は拒んだ。あの時、初めて僕は願ったんだ。
『だからこそ、僕は生きたいんです。残された時を、心の赴くまま、流れゆくまま、自由に――』
るいは、微睡みから目覚めた。ぼやけた視界が開けると、そこには清潔感を持った見慣れぬ天井が映し出される。
「ここは……?」
おぼろげな意識のまま、るいが呟く。するとその声に気づいたのか、近くで人の動く気配がした。
誰か、いるのだろうか。
そんなことを考えていると、その主が心配そうに顔を覗かせる姿が視界に入る。
その正体は、るいの姉、鈴香だった。
「るい君? 気がついた?」
「鈴香、さん……?」
なぜ彼女がここにいるのか、状況が飲み込めなかった。
るいは、冴えない頭でこれまでの記憶を手繰り寄せようとする。
確か、無人寺に現れた妖怪を祓いに行って、それから……。そうだ。無事に祓ったけど、お清めをしようとしたら、突然鬼化が進行したんだ。でも、その後は……。
その先の事を思い出そうとするも、記憶が繋がらない。どうやらあの後、るいは意識を失ってしまったらしい。
――そうか。だからか……
おぼろげだった記憶が、ようやく繋がる。だが『鬼化』という単語に気づいた瞬間、るいは慌てて顔を布団で覆った。
そうだ。あの時、自分は鬼化していた。たとえどんな理由があろうとも、あんな姿、人に見せるべきではない。
焦りと不安から、思わず枕に顔を疼くめる。
すると、その様子を見ていた鈴香が小さく笑った。
「そんなに慌てなくても、もう鬼化は解けてるよ。るい君」
その一言で、るいはようやく我に返る。
言われてみれば、鬼化している際の違和感が、今は感じられない。恐る恐る自分の身体に手を伸ばしても、髪や皮膚、口周りにも特有の感触はなかった。
戻っている。
そこでようやく、るいは自分の鬼化が解けていることに気づいた。途端、瞬く間に恥ずかしさが込み上げてくる。
とはいえ、鬼化が解けているなら、いつまでも布団に隠れている訳にはいかない。
るいは赤面しながらも、恐る恐る布団から顔を出す。すると、その様子を見ていた鈴香がくすりと笑った。
なんだか、つい最近もこんな状況に陥った気がする。が、これ以上羞恥心に後苛まれたくはないので、今は考えないでおこう。
それからしばらくして、るいがようやく落ち着きを取り戻した頃、鈴香はこれまでの経緯を語ってくれた。
一連の後、事後処理に訪れた協会によって保護されたるいは、そのまま協会が運営する病院へと搬送されたらしい。
幸い目立った外傷などもなく、倒れた原因も急激な鬼化が起きたためだろう、というのが医者の見立てだった。意識を失っていたのも、半日程だったという。
「協会から連絡をもらった時は、気が気じゃなかったんだけど、怪我もなかったみたいでほっとしたわ。あ、お父さんはどうしても外せない仕事があったから、夕方顔を出すそうよ」
「そうですか」
「もうお父さんたら、仕事を投げ出してまで病院に行こうとするから、止めるの大変だったんだからね」
極めて明るく振る舞っている鈴香。だがその裏で、どれほどの心労があったのかは、計り知れない。
この仕事をする以上、危険な目に遭うことはゼロではない。もちろん、今のこの時代で妖怪に遭遇することの方がほとんどない。一部では、妖怪は既に滅んだと考える者もいるほどだ。今回のようなことが、頻繁に起こる事も、あまりないだろう。
それでもーー
るいにとって、彼らは初めて家族となってくれた、大切な人達だ。そんな彼らに心配をかけしまったことが、なんだか申し訳なかった。
「なんだかんだあったけど、これも全て、あの子のおかげね」
「あの子?」
「ほら、るい君が助けた女の子。美空ちゃん、だったかしら。あの子、協会の人達が来るまで、るい君のことをずっと介抱してくれてたのよ」
「えっ……!?」
るいは驚いた。境内で別れた後、てっきりそのまま帰っていたと思っていたのだが、まさかお寺に残っていたとは思わなかったからだ。
鈴香の話では、別れた後もるいのことが気がかりだった彼女は、しばらくして墓地が静かになったので、様子を見に行った所、るいが倒れているのを発見したらしい。
その後、協会が来るまで彼を介抱していた美空は、駆けつけた協会の者に事のあらましを説明。
そのおかげで、協会側も迅速な対応ができたと感謝していたそうだ。
顛末を聞き終え、るいは安堵した。
元はと言えば、自分が結界を張り忘れたせいで、彼女を巻き込んでしまったのだ。けれど彼女は無事だった。これ以上に、喜ばしいことはない。
しかし、倒れた自分を介抱していたということは……
起きた状況を理解してしまい、思わず俯く。
その様子を見た鈴香は、理由を察したようだった。
「そっか、見られちゃったんだ……」
その言葉に、るいは小さく頷く。
「慣れた、はずなんですけどね。だけどあの姿は、見た方も見られた方も不快な気持ちにさせてしまう。それなら、見せないに越したことはないでしょ?」
そういって、鈴香に笑みを向けるるい。しかしその表情は、どこか悲しげだった。
るいが秋葉家にやってきたのは、今から二年前のこと。それまでの生い立ちや、陰祷師になった経緯などは、家族である鈴香もあまり知らない。けれどそれまでの人生で、彼が暗い境遇を経てきたということは、その笑みが物語っていた。
その痛みを、鈴香が変わってあげることはできない。だが、家族として寄り添ってあげることはできるはずだ。
「きっと大丈夫よ。あの子は、るい君を介抱してくれたんだから。だから、ね?」
まるで不安な子どもを諭すように、鈴香は自身の手を、るいの手に重ねる。
それにるいは、ただ安心した表情で頷くのだった。
「それじゃあ、私はそろそろ帰るから。るい君も、あまり無理をしないようにね」
「うん、気を付けます」
病室を後にした鈴香を見送った後、るいは小さく息をはいた。
しかし今回は、本当に大変な仕事だった。
妖怪という存在が空想の産物として認知される現代において、彼らとの遭遇は極めて稀なこと。るい自身も、妖怪を相手にしたのは二年ぶりだった。
「……少し、鈍っちゃったかな」
退院したら、しばらくは鍛錬に勤しんだほうがいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、いつもの声がいつもの調子で語りかけてきた。
『しかし、明日退院とは。随分と早いな』
「大きな怪我とかもないし、容体も安定してるからね。退院しても問題ないって、お医者さんが」
『なら、退院したら快気祝いに一杯やるか?』
「病み上がりなのに飲めるわけないでしょ」
『なんだつまらん』とぶつぶつ愚痴を溢す剛濫に、苦笑いが漏れる。
本当に、彼はどんなときでも相変わらずというか。
それにしても、なぜあの時、突然鬼化が起きたのだろうか。
鬼化は怨念の影響を受けることで起こる。現に蛇女と戦っていた時、るいの鬼化は起きていた。
しかし、祓い終わった直後は進行も止まり、特に異変はなかったはず。ということは、何か他の要因が原因だったのだろうか。
『そのことなんだがな、坊主。ひとつ思い当たる節がなくもない』
「思い当たること?」
『ああ。奴が掌握していた怨念だ』
剛濫によると、蛇女が祓われた後、彼女に纏わりついていた怨念が、こちらへ引き寄せられたような印象を受けたという。
そのことを聞いたるいは、「そういうことか」と納得した。
今回の事件では、蛇女が力を得るために連続殺人を犯し、その時の怨念が彼女に力を与えていた。
しかしその元凶が祓われたことにより、怨念達は怨みの向け先を失ってしまった。
結果、陰祷師であるるいの元へと怨念が引き寄せられ、その影響を受けてしまったるいは、鬼化が急激に進行してしてしまったのかもしれない。
蛇女を祓った際、てっきり怨念も流転方陣で流していたとばかり思っていたのだが、どうやら見立てが甘かったらしい。
どちらにせよ、あのまま影響を受け続けていたら、最悪の事態になっていたかもしれない。そうならなかったのは、事前に周囲をお清めしていたことも幸いしたのだろう。
『しかしあれだ。今回は大事にならなくてよかったじゃないか』
「ホントだね」
そういうと、るいは苦笑いしながら肩をすくめるのだった。
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