第86話 最弱スペックにして最強のキャリア100年戦士

 速太は眉をゆがめ、得心のいかない顔をする。


「かわすのが、巧い……よな?」


 ラッシュの中で、速太はハイキックを放ち、五兵衛にかかとをすくい上げられた。


 いや、速太のハイキックに反応してすくったというよりも、すくおうとまっていた五兵衛の手に、速太のほうから足を差し出してきたように見える。


「な!?」


 まるでスリップしたように、速太は滑って転び、すぐに首を曲げて後頭部直撃を免れる。


 床には後頭部ではなく、肩から着地した。


「てめっ! さっさと棺桶に行きやがれ!」


 速太の力左ジャブ。


 ボクサー最速の技である左ジャブを、世界最速の瞬発力で放つ。


 人間の筋肉は瞬発力を付けるためには特殊なたんぱく質が必要で、それを生成しやすい体質かどうかは生まれ持ったDNAで決まる。


 特異体質である速太はそのタンパク質生成量が異常に多い。


 これはトレーニングでどうこうできるものではない。


 生まれ持った資質だ、速太と他の人間とでは違い過ぎる。


 元々ボクサーの左ジャブは速過ぎて反応できないので、ボクシング業界では、左ジャブは受けるのを前提に耐える方向で考えたり、相手の肩の動きから先読みしてかわすことになっている。


 それでも限度がある。


 拳より先に肩が動くから、肩の動きを見てパンチを先読みしろと言われても、速太のパンチは肩の動きを含めた全てが速過ぎる。


 受けるのを前提にしても、破壊力はスピード×スピード×質量。最速のパンチの威力は一度受ければ脳しんとうでKO。


 耐えられるのは余程の猛者か、防御力に特化したタフネスファイターだけだ。


 キックボクシング業界では、打てば必ず勝てる黄金の左ジャブとして名を馳せた、武藤速太の左ジャブ。


 ――これで終わりだ! 死になジジイ!


 凶拳が迫る。

 五兵衛は慌てず、というよりも、既に動いていた。


 五兵衛の左こめかみの白髪をかすめて、左ジャブは不発。

 世界最速の左ジャブが、世界で初めてかわされた瞬間だった。


『は、はずれたぁ~~!?』


 速太のファンである観客が驚愕した。

 ファンは知っている。

 速太の左ジャブの速さを、威力を、速太がひとたび放ったならば絶対に当たると。

 そして当たったならば一撃KO。

 耐えられても、深いダメージは必死。

 それを、いともたやすく五兵衛はかわしてしまった。


「お、お……お、おおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 速太が全身全霊を込めた全速力ラッシュをかける。

 左ジャブ、

 右ストレート、

 右ハイキック、

 左フック、

 右フック、

 右ジャブ、

 左ハイキック、

 左ストレート、

 左ローキック、

 左ミドルキック、

 右ミドルキック、

 右ローキック、

 ジャブジャブストレート左アッパー。


 全てはずれた。


「なんでだよ! なんで当たらねぇんだよ! 何で! 何で! それが技なのか!? 技はスピードを凌駕するっていうのかよ!?」


 叫ぶ速太に、五兵衛は静かに言う。


「巧みな技か……私にそんなものがあればどれだけ楽だったか…………」

「なんだよそれ! 速いわけじゃねぇ! 巧いわけじゃねぇ! なのにだったらなんで俺が殴る時にお前はそこにいないんだよ! こんなの先読みなんてもんじゃねぇ! てめぇ預言者か何かか!?」

「教えてあげよう。私の武器はただ一つ、それは」


 五兵衛の口元が緩む。


「経験さ」


 速太の右ストレートに合わせて反転。

 五兵衛は背を向けたまま右手を取り、速太のスピードを活かして一本背負い。

 硬い床に速太の背中を叩きつけた。


「ぐぁっっ!」


 速太すぐ起き上がろうと腹筋で状態を起こそうとした時、既に五兵衛は速太の顔面をカカトで踏みつける。


 右手を床について起き上がろうとした時、すでに五兵衛は速太の右上腕の後ろを蹴り飛ばす。


 人間の体の構造上、起き上がるのに必要な動作全てを封殺してくる五兵衛。

 世界最速の速太が、完全に五兵衛に遊ばれていた。

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