第18話 いとま

 家に帰ってくる頃には日が暮れており、俺は服を着替えてバイトに出向こうと玄関のドアに手をかける。


「今日くらい休んだ方が良いんだよ、おにーちゃん」

「いや…行くよ」

「だーめ!!今日は休ん…あっ!?」


 咲薇は俺の手を掴んで無理やり引き止めようとしたが、そもそも手の位置が分からずに勢いよく手を出したものだから、バランスを崩してしまう。


「危ないっ!」


 俺はそのまま倒れそうだった咲薇を間一髪で支えて頭をぶつけるのを防いだ。

 咲薇は瞑っていた目を開けて、何も映してくれない瞳で焦った俺を見上げた。


「…ありがと、おにーちゃん」

「ああ。咲薇は目が見えないんだから、無理するな」

「じゃあ、今日くらい夜も一緒に居てよ!…また、バランス崩して転ぶかもしれないし」


 咲薇は俺に抱きついて、縋るようにそう言った。

 俺がバイトに出向いていたのは、マスターの店の人手不足を補う為…というのは建前で、本当はただ咲薇に言われたからやっていただけだ。

 最初は単なる咲薇の善意というか優しさだと思っていたそれも、実は夜にくる毒素の活性化…即ち発情に俺を立ち会わせないで自身だけで鎮めさせる為だったのだ。

 しかしラグニアを咲薇から分離させ、更に倒した事によってそもそも活性化する毒素もないので、いよいよ俺がバイトに出向く理由が無いのだ。

 咲薇側の事情を知らなかったとはいえ、俺はバイトに出向いていたのがもはや習慣になっていた。今となっては理由が無くとも「いつも行ってるから」でバイトに出向くだろう。現に今もそうだった訳で。


「…わかったよ」

「えへへ、ありがと!」


 咲薇は、嬉しそうに笑った。



 こうして夜を家でのんびり過ごせたのは、何気に初めてである。

 バイトを休んだのはイェレスと再会をした日以来だが、あの時の俺は心身共に疲弊していたし、その後咲薇に慰めてもらったとはいえ、のんびりという訳ではなかった。

 改めて家でのんびり過ごしている俺はというと、時計をチラチラと何回も見つめる。


「おにーちゃーん…チューして、チュー」


 一方、咲薇はというと…俺にべったりくっつきながら口をタコみたいにしてせがんでくる。


「しないよ、もう“アレ”も来ないんだろ」

「でもさっきから何もしてないじゃん!だから暇つぶしにチューしよ!」

「暇つぶしにチューってなんだよ!?俺達の関係はそんな軽いもんじゃないだろ!」

「えっ…じゃあ…えっちする?」

「そういう事じゃない!」


 急に赤面する咲薇の発言に、俺は全力で否定する。

 しかし、この時間は本来バイトをしているので、いざ休むとなると何もする事がない。

 全く無い訳では無いが、咲薇の晩ごはんを作ったりするくらいしかない為実質無いようなものだ。


「…えへへ、前世もこんな感じでおにーちゃんと過ごしたかったな」

「…」

「もしあの時私が事故に遭わなかったら、私達どうなってたんだろうね」

「さぁな…咲薇は彼氏が出来て、俺は…」


 …どうなってたんだろうか。

 事故に巻き込まれて亡くなったのは、俺が10歳の時で、咲薇が4歳の時だ。

 10歳というと俺は小学4年生か…あの頃の俺は、1人でずっと流行り物のファンタジー小説を全く興味無いのに読んでたな。流行ってる小説だから、きっと誰かが話しかけてくれる…そう思ってた。

 俺の厨二くさい単語のそれぞれは、その流行り物のファンタジー小説で培ったものだ。

 あのまま生きてたら、誰かに話しかけられて初めての友達が出来たのかもしれないし、逆に話しかけられるどころかオタクだやれなんだと避けられてぼっちを極めていたのかもしれない。

 …どちらにせよ、碌なものでは無い。


「…少なくとも今の方が楽しいかな、俺は」

「私と一緒だから?」

「ああ。後、この異世界では人に恵まれたってのもあるかも」


 親に関しては恵まれなかったが、その後の出会いは恵まれていると言っても過言では無い。

 居場所を与えてくれたマスター、俺に剣をくれた常連のハティ、少し思う所はあるが力を貸してくれるルクスリア。

 こうして挙げると数は少ないが、大事なのは量より質…多けりゃ良いというものではない。


「…そういえば、あの怖そうなおじさんが経営してるお店のバイトって、どんな事してるの?」

「うーん、料理作ったり客と話したり」

「だからおにーちゃんの料理は美味しいんだね!」

「まぁな…後、客と話すのも意外と楽しいぞ。色んな話を聞けるし、突然暴れ出すような奴も居ないから意外と治安良いんだ」

「へぇ…何か楽しそう!常連さんとかと仲良くなって話するとか!」

「楽しいよ、ホント。常連は店のマナーを弁えてるから更に…」


 楽だ、と言いかけた時だった。

 俺はふと、ある事が気掛かりになった。俺の中で常連といえばハティだが、実はもう1人…不気味で苦手だった故によく覚えている人物がいる。


 “嘘は便利だよ、自分を何にでもさせてくれる”


 闇市では珍しく香水をつけないあの女。

 あいつの顔、最近見ないな…常連っぽかっただけで、実は常連じゃないのか?その割には随分闇ギルドに順応していたような気がするが。

 香水を付けてなかったという事は、観光気分で調子乗って闇市に来たんだろう…それで帰り道に闇市の住人に殺されでもしたか。


「どうしたの、おにーちゃん?」

「ん?ううん、何でもないよ」

「…本当はバイト、行きたい?」

「え?」

「おにーちゃん、まだ身体が回復してないんじゃないかなって思ってたんだけど…おせっかいだったかな…?」


 俺をバイトに行かせなかった理由…咲薇は単純に、俺の身体を心配してくれていたのだ。


「…そんな事ない。寧ろありがとう、咲薇」


 俺はそう言って頭を撫でると、咲薇は嬉しそうに笑ってくれた。

 正直に言うと、身体は完全に回復している。なんなら咲薇が眠ってしまった後に、かつて住んでいた街までかなりの距離を飛んでいった訳だし。そしてその後に元母親であるイェレスと対面して…幸せというものを見せつけられた。

 あのまま我慢してデリシオスと話していたら、俺はきっと蓄積された物が限界を迎えて狂ってしまっていただろう。

 あんなに追い詰めたのに、そんな絶望を一瞬にして笑顔で塗り替えられてしまう程の幸せをよりにもよってイェレスが手に入れたという事実が、俺にとってはとても受け入れ難く、気に入らないものだから。


「にしても暇だな…咲薇はいつも一人で何してたんだ?」

「えっ!?そ、それはちょっと言えないかな…」

「何でだ?この世界にはスマホもテレビも無いから、留守番中何をして時間潰してるのかなって思ったんだけど…」

「た、確かに私は妹だけど…それ以前に女の子なんだよ!?言えない事だってあるの!」


 咲薇はやたら本気になって、普段どう暇を潰しているのかを頑固として言わなかった。

 そこまで隠されると、逆に気になってくるのだが…まぁ咲薇は6歳の女の子だ、例え兄とはいえ言いたくないことはあるのだろう。


「そ、そうか…いつも咲薇がやってる事を一緒にして時間を潰そうと思ったんだが」

「そんなの恥ずかしくて無理だよぅっ!」

「何が!?」

「…あっ」


 咲薇は何かに気づいたような声を出すと、恥ずかしいのか俺の胸に顔を埋めた。

 咲薇…本当に普段何をして時間を潰してるんだ…?恥ずかしいから言えないのか?だとしたら、もうあまり言及しない方が良いのかもしれない。


「なぁ、別に良いんだけど、さっきから何でずっと俺にくっついてるんだ?」

「…おにーちゃんの匂い、すごく落ち着くから」

「そうか…?」

「うん…だからおにーちゃんがバイト行ってる時は、代わりにおにーちゃんの服の匂い嗅いでるの」

「そっか…ん?そうか、うんそうか」


 一瞬、咲薇が変な事を言ったような気がしたが恐らく気のせいである。気のせいである。

 別に俺の匂いで落ち着くのなら、俺が居ない時に俺の服の匂いを嗅いで自身を落ち着かせるのは必然である。決して、変な事では無い。故に、気のせいである。


「…私、今変な事言った?」

「いや全然。そんな事はないよ」

「そっか…よかった…」


 咲薇は安堵の声を出す。

 一言一句しっかり聞いていたが、変な事は言っていなかったからそんな事は無いのだ。


 …いや、やっぱりちょっと恥ずかしいな。



 気がつくと俺はベッドの上で咲薇の抱き枕にされており首筋をペロペロと舐められていた。

 どうやら寝落ちしてしまっていたようだ。


「暑い…」


 咲薇の温かい身体が俺を包み込んでいるのもあって、俺は片方の足で掛け布団を払い除ける。


「ん…はぁ…」


 耳元で咲薇の吐息と、俺の首筋を舐める音が聞こえてくる。

 服は汗でびしょびしょになっており、首筋は言わずもがなヌルヌルしている為、今すぐにでも着替えだけでもしたかった。

 しかし咲薇が俺を完全にホールドしているため一切身動きが取れない。


「おーい、ちょっと起きてー…!」

「んぁっ…!」


 俺が小さい声で咲薇にそう言った直後、俺の手が汗でなのか湿った何かに触れて咲薇が声を出す。


「起きてくれー…!」

「んっ…なにー…?」


 俺の思いが届いたのか、咲薇が目を擦りながら何も映してくれない目を開けた。というか、俺の首筋を舐めていたのは無意識だったのか。


「暑くて汗だくになっちゃったから、シャワー浴びたいんだ」

「そんな事より…お股に…手、当たってる」

「え…?」


 咲薇の発言に、一瞬だけ思考停止する。頭が復活し言われた事を完全に理解すると、俺は何とも言えない罪悪感に苛まれた。

 直後、咲薇が俺の手を太ももで挟み込んできて、離れられなくする。


「お、おい…!?」

「えへへ…さっきの仕返しっ」

「何の!?」

「んー…汗の匂いも…凄くえっち…」

「話聞いてる?」

「はぁ…落ち着くどころか、何かが湧いてきちゃうっ…」

「お、おい…何言ってんだ…?」

「んあぁもう我慢の限界!!」


 直後、俺は咲薇に舌を入れられて口の中を舐め回されるあの濃密なキスをされる。

 咲薇に抱きつかれている状態でそれをされている為一切抵抗が出来ず、身動きが取れない。

 淫らな声を出しながら俺とキスを交わす咲薇は、ラグニアが中にいた時の“アレ”よりも激しく、もはや別人のように思えた。


(…いやこの女…誰だ!?)


 咲薇が別人のように思えて、瞬きをしたその瞬間、先程まで咲薇だった人物が全くの別人に入れ替わっていた。

 暗くて髪色と顔はよく分からないが、ロングヘアーに紅く生き生きとした瞳の、俺と同じくらいの身長の知らない女。

 先程まで羞恥心だった感情が、一瞬にして恐怖心に変わった。


「んはぁっ…!早く会いたいよぉっ…シンきゅん…!!」

「何言ってんだ…おまえ…!?」


 マジで何なんだこの女…!?

 女が俺に向けた慈愛の目線は、俺にとってただの恐怖でしか無かった。



「…っ!!」


 気がつくと俺は家のリビングのソファに横になっており、胸元には咲薇が眠っていた。

 …どうやら、アレは夢だったようだ。いや本当に夢で良かった。

 俺は悪夢を見たからか汗だくで、謎に息が荒かった。


「何だったんだ…あの夢」


 俺にとってとんでもない悪夢であったが、あれは何故か単なる夢だとは思えず、その日は底知れぬ恐怖で目が冴えてしまって眠れなかった。

 俺は気持ちを落ち着かせる為にも、俺の胸元で健やかに眠る咲薇の頭を優しく撫でた。


 それでも、あの悪夢の中のあの女が脳裏に焼き付いて、離れることは無かった。

 あの女はもはや、俺の中で一種のトラウマと化した。

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