第1章 美しき愛の前奏曲 -prelude-

闇市編

第7話 はじまり

 その日の天気はまるで、俺達の心を表しているかのような大雨だった。

 そんな大雨の中、俺達兄妹は手を繋いでただひたすらに走り続けた。すれ違う人々が俺達を見つめてくる。

 …そりゃそうだ。こんな大雨の中、もはや服とも言えない程ボロボロの布を見に纏い、傘もささずに小さな子供が親の同伴無しで何者かから逃げるように走っているのだから。

 だが、見るだけで何か食べ物を恵んでくれるとか何か声をかけてくれる事もなかった。別に求めてもいなかった。


「…おにーちゃん…雨、降ってるよ…?早く戻らないと怒られちゃうよ」

「いや…もうあそこには帰らない…!」


 妹の咲薇は何もわからず、俺の言葉に疑問はあったもののただ頷いた。

 産まれつき目が見えない病気を患った妹、咲薇…いや、この世界ではフェリノートという名前だったか。

 だが、例えこの世界の妹がフェリノートだったとしても、俺は妹を咲薇と呼び続ける。

 じゃないと、あれだけ大事な存在だった“咲薇”を忘れてしまうから。



 俺達兄妹は、前世の記憶を引き継いでこの世界に再度人間として生を得た。

 俺たちの前世ではこれを“異世界転生”という。


 俺たちが生きていた時代ではその“異世界転生”を題材にした小説やアニメが大流行していて、その殆どが幻想的な…少なくとも現代社会とはかけ離れた世界で、その主人公は最初から何故か強かった。


 …が、現実はそうはならなかった。

 というか、そもそも俺としては異世界転生自体現実離れしているのだが、今こうして異世界を生きている時点でそれはもう現実なのである。


 小説やアニメと違って、別に魔術の才能がある訳でもなく、王家の末裔とかそう言うのもなく、ごく普通の少し貧乏な家庭に生まれたのである。

 

 異世界転生というのだから、もちろん俺達は前世で死んでこの世界に生まれ変わった。

 とは言っても、別に寿命を迎えて亡くなった訳ではなく、ブレーキとアクセルを踏み間違えたトラックから妹を守ろうとしたら、俺も衝突に巻き込まれて死んでしまったのだ。

 …ただ死人を増やしただけだった。


 俺が前世で最後に見たのは、目にガラス片が刺さってもがき苦しんだ後に動かなくなっていった咲薇の姿だった。

 この異世界に転生した咲薇が盲目なのはもしかしたらその影響なのかもしれない。

 因果とは恐ろしいものだ。

 そして気がつけば前世よりも長い時間を生きていた。


 そして、何故俺達は捨てられたのか。

 その原因は、あまり言いたくはないが…全て咲薇が理由である。

 咲薇が俺と父親の髪色や瞳の色などの容姿が明らかに違い過ぎる事から、母親の浮気がバレて離婚。

 俺の要望で咲薇と一緒に父親と暮らす事になったのだが…その結果、俺が居ない間に父親は咲薇が無知で目が見えないのを良いことに性的虐待をしていた。

 それに気付いた俺は今日、咲薇を連れだして家を飛び出してきたのだ。


「…何で帰っちゃダメなの?早くパパのご奉仕しなきゃ…」

「そんな事はもうしなくていい…!もうあんな奴をパパなんて呼ぶな…!」


 俺はその場に立ち止まって咲薇を見つめながら言う。

 父親からしたら自分は浮気をされた側で、咲薇…フェリノートは自分の実の娘では無いが、実の息子である俺の要望で仕方なく一緒に暮らしていたのかもしれない。

 だが仮にも幼い自分の娘を洗脳状態にして性的虐待をする父親なんて、そんなもの父親なんかじゃない。

 …そうだ、最初から父親なんて居なかったんだ。


「なんで…?パパを気持ちよくさせると、とっても優しくしてくれるんだよ?」

「…!」


 俺は絶句した。それと同時に怒りが湧き上がってくる。まるで前世から続く兄妹という不純物が一切無い純粋な関係を汚されたようだった。

 咲薇は恐らく、自分が何をされて、何を咥えさせられて、何故薬を飲むと自分ではなく父親が気持ちよくなるのかも知らないだろう。

 

「だから…帰ろ?おにーちゃん」


 そう言うと咲薇は家に帰ろうと俺の手から離れ、逆方向に歩き始める。

 俺は無言で咲薇の手を掴んで、優しく引っ張る。

 その時の咲薇の困惑した顔は、俺の心を深く苦しめた。

 どうして困惑できる?どうしてそんな顔ができる?


「…アイツは、俺達を捨てたんだ」

「えっ…どうして…?」

「…咲薇が口にしてたアレ、実は毒だったんだ!」

「そんなの嘘…!確かに変な味したけど、パパが目を治す薬だって言ってたもん!」

「違う…アレは目を治す薬なんかじゃなくて、徐々に殺す毒なんだ!俺は確かにこの目で見たんだ!」


 俺は仕方なく嘘をついた。その後の咲薇のリアクションも予想通りだった。

 大変ご立派な嘘を言いまくって、何とか咲薇を信じ込ませる。


 …やってる事がアイツと同じだ。どう足掻いても俺はアイツと血の繋がった息子という事らしい。


 しかしアイツを完全に信じ込んでいる咲薇が見ていて辛い。

 そしてその信頼を平然と裏切るアイツが憎い…何が目を治す薬だ。ふざけやがって。



 家を飛び出してから、かなりの時間を歩いた。

 体感では1ヶ月ほど経っている気分だったが、たまたま見つけたカレンダーを見てまだ1週間ほどしか経過していないと知って、俺はため息を吐いた。


 どうやら皮肉にも、1日が短く感じていたあの頃は幸せだったのだ。

 数日経って気付いたことだが、俺は咲薇を守るつもりで家を飛び出したのに、実際咲薇は苦しみなんて感じてなくて、今でも帰りたいと呟く。

 その度に俺は余計な事をしてしまったんじゃないかと思ってしまう。


 …じゃあ、自分の妹が父親に好きにされているのを黙って見過ごせとでも言うのか。

 そんな訳は無い。俺は咲薇を守りたかったんだ… 妹を守るのが兄だから、これで良かったんだ。


 自問自答のように俺は自分にそう言い聞かせて“俺は正しいのだ”と思い込んだ。


「ねぇ…なんかくさいよ…」


 咲薇に突然そう言われ、俺は辺りを見渡す。

 何か暗い道だなとは思っていたが、辺りには人間の死体がゴミのように転がっていた。

 

「うっ…!!」


 辺りに漂う死臭とその悲惨な光景に、俺は吐き気を催し口元を手で押さえる。

 胃から嘔吐物が這い上がってくる感覚を気合いで何とか堪えると、俺は深呼吸をする…が、また吐きそうになる。

 何で光景と臭いで吐きそうになったのに深呼吸したんだ俺は、と自分で思った。


「だいじょーぶ?おにーちゃん?」

「あっ、あぁ…大丈夫だよ咲薇。ちょっと臭いと思うけど鼻つまんで我慢してくれ」

「うん…」


 そう言うと咲薇はすぐに鼻をつまんだ。


「じゃあ行こうか」

「ぬんっ」

「…ぬん?」


 咲薇が発した変な返答に思わず頭にハテナが浮かんだが、多分流行りか鼻つまんでるからだと思い込んで足を踏み出した…時だった。


「おい」


 突然何者かに厳つい声で呼び止められる。

 真横に顔を向けると、そこにはこんな汚らしい場所とは不似合いな整ったスーツに、口にはタバコを咥えている大人の男が壁に寄りかかっていた。

 ただでさえ死臭が漂う空間にタバコの体に悪そうな臭いが混じり、思わず鼻をつまんだ。


「そんな俺が臭いみたいな仕草やめてくれよ」

「じゃあせめてタバコ捨てろ、体に悪いぞ」

「ほう…知らん不審者の健康を気にするなんて、良く出来た子供だ」

「…不審者の自覚はあるんだな」

「この闇市では寧ろ無い奴の方が異質だからな」

「闇市…?」


 闇市と聞くと、人間の臓器を売買していたり、命を賭けたカジノやそう言った系統のその名の通り社会の“闇”が渦巻いているイメージだ。

 …確かに、今この場の雰囲気は闇市と言われても納得できる。


「臭いんだろ?タバコは捨てれねぇが、この先に俺の経営してる店がある。そこに連れてってやる」


 男はそう言うと、ついてこいと言わんばかりに俺に手招きをする。


「咲薇、行こう」

「ぬんっ」

「だからぬんって何…?」


 これは所謂誘拐という奴なのかもしれないが、もしかしたら食べ物を喰わせてくれるかもしれないという希望を抱いて、俺は咲薇の手を引っ張って男に着いていくことにした。


「…知らないおじさんに付いていっちゃダメだって教わらなかったのか?」


 道中、男が世間話のつもりなのかそんな事を言ってくる。


「…別に俺の親に身代金要求したって無意味だからな」

「失う物は無いってか?ガキの癖に強がるじゃねぇか」

「無い訳じゃない」

「ずっとお前が手を繋いでる彼女か?」

「妹だ」

「目に包帯を巻いてるって事は、目が見えない病気でも患ってるのか?」

「ああ」

「…あー、その…なんだ、お前も何か聞きたい事は無いか?俺だけ質問ってのは、なんだか大人げないみたいだしな」

「…じゃあ、何で人があまりいないんだ」


 ここは闇市だ、というのは聞いたが辺りに死体はあれど肝心の臓器売買をしたりする者や、凶悪な犯罪者などもおらず、今のところかな闇市では目の前にいる男しか人を見た事がない。


「そりゃ今は昼だからな、この闇市は夜が騒ぎ時だ。賞金首に指定される程の犯罪者がいくら闇市とはいえ白昼堂々歩く訳ないだろ」

「…犯罪者の事情なんて知らない」

「お前から質問してきたんだろ…って、質問させたのは俺か…さて、ここが俺の店だ」


 突然男は立ち止まってそう言う。

 俺は顔を上げて男の店を瞳に映すと、俺は思わず声を出してしまう。

 てっきりこじんまりとした小さな商店…例えるならコンビニくらいの大きさかと思っていたが、実際は2階建てアパート程の大きさで、お洒落なカフェのような外装をしていた。

 しかしよく見ると、外装には明らかに意図して付けられたような傷が何個もあった。

 やはり夜は荒れているんだという事がよくわかる。


「今はまだ開店前だから人は居ねぇ。まぁ入れや」


 入口の扉を開けると、カランカラン、と金属の音が聞こえる。本当にカフェみたいだ。

 俺は言われるがまま、咲薇を引っ張ってカフェに入っていく。


 外装だけでなく、内装もお洒落なカフェのようで、外の死臭とは真逆なコーヒー豆の良い香りが充満していた。


「咲薇、鼻戻しても大丈夫だぞ」

「ん…わぁ、良い匂い…」

「お、嬢ちゃんわかってるねぇ!豆にはちゃんとこだわって…」


 男が誇らしげにそう言うと、咲薇はその厳つい声に怯えたのか俺の背後に隠れる。

 その身体は震えていた。


「…まぁ、声だけ聞けば俺って怖いか…ってか、さっきまで俺の声聞いてたよな?」

「突然大きい声で喋りかけられたらどんな相手だって怖いだろ。ましてや目が見えないんだから」

「そ、そうか…ごめんな嬢ちゃん」

「っ…」


 咲薇は声も出さずに俺の背後でビクビク震えている。


「…あーあ、完全に嫌われちまったな、俺」


 露骨に自分に対して怯える咲薇を見て、男はため息混じりにそう言うと、再度ため息を吐く。

 こっちはこっちで露骨にテンション下がってるのがよくわかる。

 相手が幼女であれ、女に嫌われるのは男にとってショックなのだろう。


「…さて、自己紹介がまだだったな」


 男は気を取り直して、と言わんばかりにそう言って俺を見つめた。

 確かに、まだこの男の名前を聞いていなかった。

 なんとなくだが、これからこの男には世話になるような気がするし、名前は聞いておこう。


「俺はここ、闇ギルドのマスターだ」


 男はドヤ顔でかっこつけながらそう言うが、その後の沈黙でまるでスベッているかのような何とも言えない空気になる。

 ていうかここカフェじゃなくてギルドなんだ。


「…いや本名名乗れよ」

「いやー、もう覚えてねーんだわ。昔から一人で生きてきたし、名前を呼ばれる事も無かったからな」

「…だから俺達を?」

「ああ。何か俺と境遇が似てたからな…つい俺の良心ってやつがよみがえっちまってな?」

「…」

「…何かリアクションしてくれよ」

「…俺はシン。シン・トレギアスだ」

「いやそのタイミングで自己紹介かよ…普通に良い名前しやがって…で、そこの嬢ちゃんはサクラって言ったか?」


 すると、咲薇は首を振って自分が“サクラ”だという事を否定する。


「え…違うのか?でもさっきサクラってシンが呼んでたよな」

「それには、個人的な訳があるんだ」

「ほう…気になるが、“個人的な訳”ってんだからきっと言いたくないんだろう?」


 俺は無言で頷く。

 だって、“フェリノートを異世界転生した俺の妹の咲薇だと思ってるから”なんて言える訳がない。

 まぁ、思ってるからというか、普通にフェリノートも表に出さないだけで前世の“咲薇”としての記憶はあるらしいし転生した俺の実の妹というのは間違いないのだが。


「なら、俺は聞かない。さて腹減ってるんだろう?何か作ってやる。苦手な食材とかアレルギーがあったら言ってくれ」

「…空腹は最高のスパイスだ、今は食えるのなら何でも良い」

「へっ、そうかい」


 ニヤッと悪そうに笑うと、男…マスターは店の裏…厨房に向かった。

 コーヒー豆の匂いに混じって、美味しそうな匂いが漂ってくる。

 …まぁ、極限まで腹を空かせている俺達には例えフンコロガシの煮物ですら美味しそうな匂いだと思い込めるだろう…いや、流石にそれは無いな。


「美味しそうな匂いだね、おにーちゃん」

「そうだな」


 数分後、裏から料理が盛り付けられているであろう皿を両手に持ったマスターがカウンターにそれを置いて手を叩く。

 手を叩く音に咲薇はまたもやビクッと身体を動かして俺の背後に隠れる。


「えぇ…この音すらもダメなのか…」

「だから急に大きな音は怖いって言っただろ」

「叩く音って大きいか…?」

「少なくとも今のは大きかったぞ」

「加減って難しいな…まぁとにかく料理出来たから、食えよ」

「…大丈夫だからな咲薇。ほら、行こう?」

「うっ…うん…」


 俺は怯える咲薇を優しく宥めた後、少し座高の高いカウンター席に座って料理を見つめる。

 皿の上には、空腹からかやたら美味しそうに見えるステーキが盛り付けられて…というか、置かれている。

 その上には何か良くわからないけど良い匂いがするソースが掛かっている。


「うわぁ…!こんな肉初めて見た…!」

「ガキの頃、俺はそこら辺の草しか食えなかったから、当時は肉を腹一杯食うってのが夢だったんだ…今考えれば夢にするにはあまりにも小さすぎる夢だが、たった今、肉を腹一杯食わせる側になったって思うと、感慨深いよ」

「いただきまーす!」

「ちょ、俺の良い話をサラッと流すなよ!」

「…おにーちゃん」

「ん?」

「あーんして」


 そう言うと、咲薇は口を大きく開く。

 俺は咲薇の前に置かれているフォークとナイフを手に取り、大きなステーキを切って咲薇の口の中に入れる。


「はい、あーん。良いよ…閉じて。フォーク取るよ」

「…んーっ!」


 1週間ぶりの食べ物…しかもステーキを食べると、咲薇はこれ以上無いと思える程に可愛らしく、そして幸せそうな顔をして、美味しさと嬉しさのあまり足をバタバタさせる。


 ああ…守りたい、この笑顔。

 そして、ごめんな…俺のせいで。

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