第3話 スノーホワイト

 こちらに歩み寄る足跡が聞こえる。誰なのか確認したいのに、私の視界は何故か真っ暗で、まるで熱された鍋の中のように身体が熱かった——おまけに、拘束されているわけでも無さそうなのに身体が自由に動かない。


「ごめんなさい…ごめんなさい…」


 突然、女の声が聞こえる。どうやら私に対して謝っているようで、その声はどこか悲しそうだった。何度も、何度も…それしか喋れないロボットのように、私に謝っていた。

 そして次の瞬間、肉を斬るような音と共に私の首元が熱くなり、ブツッと意識が途絶えた。

 ——まるで、死んだみたいに。



「お兄ちゃんっ…!」


 私はお兄ちゃんを呼びながら飛び起きてすぐに熱くなった首元を触り、繋がっているかを確認する。


「よかった…夢かぁ」

 

 私は先程のアレが夢だという事に深く安堵し、胸を撫で下ろす。

 念の為に辺りを見渡すと、そこは当然ながら私の部屋。知らない女の人が居るわけでもなく、燃え盛るように暑い訳でもない。寧ろ換気の為に窓を開けているので少し寒いくらいだった——にも関わらず、私のベッドの上は水浸しにでもしたように濡れており、パジャマに至っては汗で身体にぴったり張り付いていた。


「うわぁ最悪…。着替えようかな…寒いし」


 私に触れる夜風は汗も相まってとても寒い。このままの状態で寝るのは嫌なので、私は別のパジャマに着替える為に部屋を出て階段を降り、服が収納されているクローゼットが有るリビングへ向かう。

 ——その道中、脱衣所の照明が付いている事に気がつく。


「お兄ちゃんかな…こんな朝早くにシャワー浴びてたんだ」


 私は聞こえないように小さい声で独り言を言う。

 お兄ちゃんが朝シャン派だというのは知っていたけど、にしてはちょっと早過ぎじゃないかな?しかもそれで私の朝ごはんとかも作ってくれてたんだ。


「——誰かいるのか?」

「やばっ…!」


 何故か気配を察知したお兄ちゃんから逃げるようにリビングに駆け込み、脱衣所からは死角になる位置に配置されたソファの裏に息を殺して隠れた。

 ——こんな時間に起きてるってバレたら、流石のお兄ちゃんもカンカンに怒るだろう。優しい人ほど怒る時は怖いっていうし、その時のお兄ちゃんを想像すると…背筋が凍る。


「…あれ、本当に凍って…!?」

「おや?シンかと思ったけど…どうやら違うみたいだね?」


 比喩のつもりだったのに背中が本当に凍り始めたと思った次の瞬間、知らない女の人の声が頭上から聞こえてきて、私は恐る恐る上を見上げる。

 ——そこには、不気味に笑いながら私を見下ろす白い女の人が居たのだ。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!ぉお化けぇええええええ!!!」


 私は自宅で幽霊と遭遇してしまい、恐怖のあまり悲鳴を上げてお兄ちゃんがいるであろう脱衣所に駆け込んだ。


「咲薇…!?なんでこんな時間に!?」

「お兄ちゃんお化け!!お化けがぁっ…!」


 着替えている途中だったのか、まだ薄着しか着ていないお兄ちゃんに私は泣きながら抱きつく。

 ——流石に、この時は混乱していて“咲薇”と呼ばれた事に突っ込む余裕は無かった。


「お、お化け…?」

「本当なのっ!そこのソファに白い女の人が居たの!!」

「——白い女…まさか」


 混乱しながらも私は幽霊の特徴を告げると、半信半疑だったお兄ちゃんが途端に深刻そうな表情になる。

 お兄ちゃんは私の頭を優しく撫でると、そのまま何の躊躇もなく幽霊が居たリビングのソファへ向かって歩いていった。


「き、気をつけてお兄ちゃん…!」

「——咲薇、ひとまず部屋に戻ってろ」

「う、うん…!」


 私は言われるがまま、2階に駆け上がって部屋に戻った。

 パジャマを新しいのに着替えたくて降りたのに、まさかそのまま戻ってくる事になるとは思わなかった。流石に幽霊と遭遇なんてしたら、パジャマのジメジメとかどうでも良くなるのだ。

 ——しかし、何だか思ったより静かだ。てっきり幽霊とお兄ちゃんが戦いでもするのかと思ったけど。


「あの幽霊、お兄ちゃんの名前を知ってた…という事はもしかして、お兄ちゃんの知り合いなのかな…」


 私はそんな結論に辿り着くと、お兄ちゃんには申し訳ないけどこっそり扉を開けてリビングから聞こえてくる声に耳を傾けた。


「——何故お前がここに居る」

「良いじゃないか。ボクには行くアテが無いんだ…だから養ってよ」


 普段とは違うお兄ちゃんの低い声と、幽霊の声によるそんな会話が聞こえてくる。

 ——やっぱりお兄ちゃんとあの幽霊は知り合いだったんだ。でも何だかあまり仲良くはなさそうというか、幽霊が勝手に馴れ馴れしくしているみたい。


「この家は二人が定員だ、お前の座る席は無い」

「どうしてそこまでしてボクを毛嫌いするんだい?ボク自身は君に何もしていないのに」

「いいから出ていけ…!」

「ちょっ…何をするんだい!?」


 幽霊の驚くような声が聞こえた直後、引きずるような音が近付いてくる。私はあまり意味が無いにも関わらず、姿勢を低くして盗み聞きしている事をバレないようにする。

 ——そして、玄関前にお兄ちゃんと服の首元を引っ張られている幽霊が姿を見せる。お兄ちゃんは玄関の扉を開けると、その幽霊をかなり雑に外へ投げつけてすぐに扉を閉め、鍵をかけた。


「はぁ…あ、咲薇…聞いてたのか?」

「えっ!?あっ、その…」



「それで、なんでこんな時間に」


 リビングにて。

 お兄ちゃんはソファに座って腕を組み、私はその前方に正座をしていた。構図だけ見れば、完全に“父親に説教されている娘”である。


「そ、そのぉ…怖い夢を見ちゃって…それで目が覚めちゃったの」

「うん」

「汗が凄かったから…着替えようかな〜なんて思って…」


 私はお兄ちゃんから目を逸らして、まるで何か疾しい事があるかのように俯いてそう言う。

 ——いざ口に出してみると、子どもの言い訳にしか聞こえない。


「——そっか。それは怖かったな」


 お兄ちゃんは微笑みながらそう言うと、私の頭を優しく撫でた。

 こんな親離れには程遠い子どもみたいな理由だから、てっきり怒られると思ったが…意外にもそんな事はなかった。


「うん…ちょっと烏滸がましいかもしれないけど…今度はお兄ちゃんが教えて欲しいな」

「何をだ?」

「あの幽霊の事。お兄ちゃんの知り合いっぽかったから…あの人とはどんな関係なの?!」


 私は正座をやめて立ち上がり、お兄ちゃんの顔を見つめながら問う。


「アイツは…俺に付き纏うストーカーだ」

「…へ?ストーカー?」


 私はお兄ちゃんの返答に拍子抜けしてしまう。普通は男が女にする行為だけど、確かにお兄ちゃんはカッコいいから逆にされてもおかしくはない…のかな?

 もし本当にストーカーなのだとしたら、家を特定されているのって結構マズいんじゃ——。


「——はっくしゅんっ」


 私はくしゃみをする。パジャマが汗で濡れてるから、身体が冷えてきて寒い。私は自分の身体を手で摩って少しでも温めようとするが、シャリシャリという感触に違和感を感じて手のひらを見つめる。


「えっ…?」


 私の手のひらには白い粉のようなものが付いており、それは一瞬で溶けて水滴と化した。

 ——これは、霜?

 私は恐る恐る自身のパジャマに目を向けると、パジャマ全体に霜が出来ている事に気づいた。


「なっ、何これ!?どうなってるの!?」


 幾ら湿っているとはいえ、霜が出来るのは流石の私でも明らかに異常だという事はわかる。気が付けば、辺りの気温が体感で冷凍庫レベルの寒さにまで下がっていた。


「さっ…寒い…!お兄ちゃん…!」

「ちょっと待ってろ咲薇…!」


 お兄ちゃんは私にそう言うと、リビングを飛び出して行った。

 その直後、家の中にまで聞こえる程の大きな鈍い音が響き渡り、段々と気温が戻っていった。

 ——身体が麻痺しているのか、これが普通の気温の筈なのにとても暑く感じた。


「…もう大丈夫そうだな」

「お兄ちゃん、何したの?」

「あのストーカーを倒してきた」

「た、倒した!?でもあの幽霊と急激な気温低下に何の関係が…」

「アイツ、雪女だから」

「へ?」

「まぁ異世界には色んな人間がいるって事だ——さて咲薇、まだ時間も早いし、寝てて良いぞ」

「——じゃあさ、久々に一緒に寝よ?今度は怖い夢見ても、隣にお兄ちゃんが居れば怖くないと思うから」

「…しょうがないな」


 お兄ちゃんはため息混じりに言うと、私と一緒に階段を登って部屋に向かう。その道中、私はお兄ちゃんの手を恋人のように繋いだ。

 ——もし私達が完全な赤の他人で恋人同士だったら、今みたいに手を繋いで…キスとかしてたのかな。


「——ッ!?」


 私の部屋の扉を開けた途端、お兄ちゃんと私は目の前の光景に戦慄する。


「——やぁ。せっかくここまで着いてきたのに、いきなり追い出すなんて酷いじゃないか…シン?」


 換気のために開けていた窓には、お兄ちゃんが外に追い出したはずの——あのストーカー幽霊が座っていたのだ。

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