第14話 対価

 焼けた鉄を飲んだかのように、椿の咽が焼けていく。熱は咽から胸、胸から腹へと広がっていき、全身を内から焼き尽くす。


「あ、ああ……」


 うつ伏せに倒れた椿の口から、悲鳴がほとばしる。その声まで焼けていて、もう、どこが熱いのか、椿には分からない。

 彼女の目尻から涙が溢れたが、零れ落ちる前に蒸気となって消えた。口を開けて必死に空気を取り込み、海の床に爪を立ててて、椿は焼かれる苦痛と戦う。

 もがき苦しむ椿を、童は悲しそうに見下ろす。


「――今ならまだ間に合うよ? 取り出そうか? 春正は死んじゃうけど、椿のせいじゃない」


 椿は夢中で首を横に振り、嫌だと叫ぶ。吐き出してなるものかと、両手で口を押さえ、全身を焼く痛みに耐えた。

 彼女の視界は真っ赤に染まっていて、手も足もがくがくと震える。


「――せめてもだ。馴染むまで、眠るといいよ」


 いつの間にか椿の目の前に移動していた童が、小さな手を差し伸べて、彼女の頭を撫でる。

 そうして椿は、眠りに就いた。




 日が昇り、椿と春正の様子を窺いに臥所寝室を覗いたお鯨は、春正に覆いかぶさるようにして眠る椿を起こそうと近付いて、悲鳴を上げた。


「誰ぞ! 誰ぞ! 化け物が居る!」


 その声で目を覚ました椿は、不思議そうに彼女を見やった後、自分の異変に気付く。

 手が、赤く腫れている。袖をめくれば、腕も赤く水ぶくれているではないか。

 頭の中が真っ白になった椿だったが、すぐにはっとして春正に飛びついた。


「春正様!」


 彼の口元に手を近付けると、わずかな呼気が掛かる。胸に耳を当てれば、とくり、とくりと、柔らかな鼓動が聞こえた。

 震える手で春正の顔を包む布を取り、灰色の軟膏を払い取ると、見慣れた春正の顔が現れる。


「嗚呼」


 椿は花が咲くように顔を綻ばせた。

 夢ではなかったのだ。春正は救われたのだ。

 嬉しくて、嬉しくて、椿の双眸から涙が流れ落ちる。


「お沙羅の方様! 若!」


 太刀を抜いて部屋に飛び込んで来た成貞たちが、椿の姿を見て絶句した。

 赤黒く爛れた肌。燃え落ちた髪の毛。

 その姿は、彼らがほんの数日前に見た光景と、よく似ていただろう。けれど、その姿をしていたはずの、彼らの主君は、まだ横たわっている。


「いったい何が?」


 成貞が疑問を口にするが、椿には届かない。彼女はただ愛しげに、春正の顔を覆う、乾いた軟膏を落としていた。


「まさか、お沙羅の方様なのですか? いったい、何があったのです?」


 動揺しながらも、重ねて成貞が問うて、ようやく椿は顔を上げる。そのとたんに、全員が目を瞠った。女中たちは口元を手で覆い、震えている者までいる。


 椿の顔は、焼け爛れていた。

 目蓋が腫れて目はほとんど開かず、鼻や口も形を失っている。愛らしかった彼女の面影は、どこにもない。

 痛ましい姿の彼女はけれど、涙で濡れた顔に、嬉しくてたまらないとばかりに、満面の笑みを咲かせていた。


「神様が、願いを叶えてくださったのです」

「神様、ですか?」

「ええ。春正様をお救いくださいました」


 それだけ言うと、成貞たちへの興味を失ったかのように、椿は春正へ顔を戻す。


「春正様、どうか起きてください。朝でございますよ?」


 赤く腫れた手が、優しく春正の頬を撫でる。

 誘われるように目を開けた春正の瞳は、宙をさまよい、すぐに一点で止まった。


「椿?」

「はい。お帰りなさいませ、春正様」


 愛する妻を見つけて表情を緩ませた春正が、布を巻いた手を、彼女の頬へと伸ばす。

 最期にもう一度だけでも会いたいと願った、愛しい妻。彼女がすぐ傍にいることに、彼は歓喜していた。そして、絶望した。

 視界がはっきりしてきた彼の目に映ったのは、彼が知る、愛らしい少女の顔ではなかったのだから。


「嘘、だろう?」


 無意識に零れ落ちた春正の言葉が、椿の心をえぐる。柔らかな表情が、一瞬にして絶望へと塗り替えられた。

 赤く爛れた頬を、悲しみの雫が伝い落ちる。

 春正は零れた涙を見て、自分の言葉が彼女に与えた影響を知った。


「違う。そうではないのだ、椿」


 慌てて起き上がった春正が、椿の頬を両手で包み込み、彼女の瞳を覗き込む。

 椿は愛する夫の瞳に映り込んだ自分の姿を見て、現実を突きつけられた。


 こんな姿になっては、春正の傍にはいられないだろう。もう、愛してもらえないだろう。そんな思考が彼女の脳裏を埋め、辛くて表情が歪んでいく。

 けれど、春正は首を横に振る。


「お前がどのような姿であろうと、私は構わぬ。だがその姿、もしや私の怪我を、肩代わりしたのではないか?」


 椿は春正の言葉に驚き、彼をまじまじと見た。

 春正は続けて説明する。彼もまた、あの青い衣を着た、童の夢を見たのだと。


「なぜ、そなたがこのような姿に……。痛みはないのか? 座っていて大丈夫なのか?」


 春正は双眸から涙を零し、愛しい妻の頬を優しく撫でる。

 彼の掌には、焼け落ちてしまいそうなほどに熱い痛みが走り続けていたが、そんなことを気にしている余裕などなかった。


「申し訳ございません」

「何を謝ることがある?」

「このような姿になってしまいました。春正様に、相応しくござりませぬ」

「莫迦を言うな。お前ほど私の妻に相応しい女など、この世のどこを探してもおらぬわ。私の妻は椿、そなただけだ」


 涙をこぼす椿を、春正は抱きしめる。

 掌だけでなく、椿が触れた腕や胸までが、焼いた鉄に押し当てたかのごとく痛んだ。だがそんな素振りを、春正は欠片も見せなかった。

 もしも気付かれれば、椿は春正の体を気遣い、離れてしまうと知っていたから。


「椿、ただいま帰った」


 体を少しばかり離し、額同士を当てて微笑む。

 椿は目蓋がただれて、細くなってしまった目を瞠る。

 ようやく春正の気持ちが本当に変わらぬのだと理解できて、嬉しそうに微笑んだ。


「お帰りなさいませ、春正様」

「ああ、ただいま、椿。お前のお蔭で、五体無事だ」


 春正は椿の頬を、壊れ物を扱うように優しく撫でて、彼女の頬を濡らす涙を拭う。

 椿も手を伸ばし、春正の頬に触れた。


 柔らかく、温かかったはずの椿の指は、春正の頬を焼いていく。それでも、春正は笑顔を崩さない。

 春正はもう一度椿を抱き寄せて、彼女の頭を撫でる。黒く艶やかな髪は、消えていた。


「椿、愛している」

「私も、私も愛しております、春正様」


 涙に濡れた、震える声。春正は、愛しさが込み上げてくるのを抑えられない。

 愛しくて、愛しくて、全てを引き替えにしてでも護りたいと思える、最愛の人。

 彼女と出会えたことを、彼女を妻に迎えられたことを、神に感謝した。そして、彼女を傷付けてしまった自分の不甲斐なさに、憤る。


 部屋の中にあったすすり泣く声が、そっと遠ざかっていった。



 それからしばらくの間、椿と春正は、以前と変わらぬ生活を送る。否、以前よりも、春正が椿を構い、わずかでも傍から離れることを、いとうようになった。

 ねどこも共にすると言いだしたときは、さすがに周囲が止める。


「お沙羅の方様のお体に障ります」

「わきまえておる。私が椿の体に障るようなことを、いたすと思うのか?」


 そう言われてしまえば、誰も言い返せない。

 年若いとはいえ、二人は夫婦である。それに、椿を誰よりも大切に思っているのは、間違いなく春正だと、屋敷中の者が知っていたから。

 こうして二人は、夜も隣り合って眠るようになった。

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