目の前のごはんを食べたい



「……椰子。椰子」


「うぅ?」

 優しく肩を揺すられて、ぼんやりと声を出す。


 何よ、陽斗。いまちょうど二人でおいしい和食のお店に入って……。


「できたよ、ごはん。食べないの?」

「食べる!」


 気遣いに満ちた優しい声と、鼻孔をくすぐるおいしい匂いに、一瞬で目が覚める。


 くぅ~っ、とふたたびおなかが鳴ったけど、それどころじゃなかった。


 広くもないコタツの天板にのってるのは、いつくもの料理のお皿だ。


 おいしそうな匂いのお味噌汁に、だし巻き卵。ほうれん草のおひたしに、ぶりの照り焼き、茄子の煮びたし、大根と鶏肉の煮物、蓮根と人参のきんぴら……。

 私の好きな料理ばっかり。


「はい」


 いつものようにコタツの右側に座った陽斗が笑顔で湯気の立つお茶碗とお箸を渡してくれる。


 あれ? 私今日、お米炊いてたっけ? そんなに長いこと寝てた?


 深く寝入ってしまったせいか、それとも空腹のせいか、頭がうまく動かない。っていうか、いまは目の前のごはんを食べたい。


「いただきます」


 両手を合わせて軽く頭を下げ、まずはお味噌汁に手を伸ばす。


 ずっ、とすすると口の中に広がるお味噌とだしの風味とあたたかさ。

 身体全体に、欲しかったものが染みわたっていく心地がする。


 次は迷わずだし巻き卵。


 うん、これ。ごはんによく合うちょっと濃いめの味つけ。ほかほかごはんのほのかな甘みとの調和が何とも言えない。


「ん~っ、おいし……っ」


 口から出たのはひとことだけ。

 だって食べるのに忙しくてしゃべってなんていられない。


 ぶりの照り焼きを食べ、ごはんを口に運び。

 味がしみしみの大根のを食べ、ごはんを口に運び。

 蓮根と人参のきんぴらを食べ、ごはんを口に運び。

 とろとろの柔らかい茄子を食べ、ごはんを口に運び。


 ポン酢がかかったほうれん草のおひたしで口の中をさっぱりさせて、次のローテンション。


 大盛りだったはずのお茶碗が空っぽになったところで、ようやく我に返る。


「あれ……? 陽斗は食べないの?」


 さっきからせっせとお箸を動かしてるのは私だけだ。


 なぜか妙ににこにことしている陽斗の前には、お茶碗はおろかお箸さえ置かれていない。


 私の問いかけに、陽斗が意外そうにまばたきする。


「え? 俺ももらっていいの? ……俺は椰子がおいしそうに食べる可愛い顔を見てるだけでもかなり満足だけど」


「っ!」


 ぽんっ、と顔が熱くなる。


 口の中に何も入ってなくてよかった。入っていたら噴いていたところだ。


 確かに、陽斗はよく「おいしそうに食べる椰子の顔が可愛くて好き」って言ってくれるけど、いくら恋人だからってこんな不意打ちは……。


 ……って、違う。


 陽斗はケンカしてこの部屋から出て行ったんだってば。


 寝起きで寝ぼけてるところに、同棲してからの二年半ずっと食べていたご飯を勧められて、ちょっと記憶がバグってた。


「私だけ食べてるのはさすがに悪いよ。よかったら陽斗も――」

「椰子」


 不意に、身を乗り出した陽斗が、お箸を置いた私の右手を握りしめる。


「ごめん。俺が悪かった」


 両手で私の手を握りしめた陽斗が、うなじが見えるほど深く頭を下げる。


「この五日間、ずっと椰子に言われたことを考えてたんだ……」


 陽斗の言葉に、五日前のやりとりが脳裏に浮かぶ。


 私の大学時代の友人から結婚の報告のメッセージが、スマホに来ているのに気づいたのは、お風呂上がりだった。


「こんなご時世だけど、一生をともにしたい人と出逢えたから結婚しました」


 と、寄り添って幸せそうに微笑む二人の写真付きで。


 その笑顔があんまりまぶしくて、もうつきあってから三年、一緒に暮らしたほうが生活費も安上がりだし何かと便利だよねと同棲してから二年半も経つのに、「結婚」なんて「け」の字も出ない自分達の関係に、やけに気持ちが焦ってしまって……。


「ねぇ、陽斗。……私達も、そのうち結婚するのかな?」


 口に出した瞬間、後悔した。


 急にこんなことを言われたって、困るに決まってる。


 私は陽斗とずっと一緒にいたいって思ってるけど、陽斗も同じ気持ちかどうか、確かめたことなんてない。


 ずっと一緒にいたいって思ってるのは私だけで、ほんとは陽斗は内心では、もっと可愛くて家事も上手な彼女がほしいって考えてるのかもしれない。


 だって私は陽斗みたいに料理上手じゃないし、ちゃんとエコバッグを使ったり食材を綺麗に使い切るようなマメさもないし、洗濯と掃除はふつうにできるけど、そんなの洗濯機と掃除機の力だし。


 取り柄と言えばお給料が陽斗と同じくらいっていうだけで……。でも、これだって男の人からしてみれば、プライドが傷つけられてるのかもしれない。


 そんな風にマイナスのスパイラルに陥ってしまって。だから。


「まあ、その……。そのうち何とかなるんじゃないのかな」


 二人の未来のことなのに、まるで他人事みたいな言い方が、刃みたいに心の柔らかなところを貫いて。


「何とかなるじゃないでしょうっ!」


 思わず、声を荒げていた。


「陽斗にとって、私とのことはその程度の存在ってこと!? 成り行きで変わるような、そんな軽い関係って考えてるの!?」


「えっ、いや……。あの、椰子……?」


 突然の激昂に驚いたのだろう。陽斗が目を見開いて戸惑った声を出す。


「どうしたんだよ、急に……? だってそうだろ、このご時世、先だって見通せないし、どうなるかなんてわからないんだし……」


 陽斗の言うことは正しい。

 理性ではわかってる。けど、感情が納得しない。


「なんか会社で嫌なことでもあった? アイスでも出してこようか?」


 おいしいものを食べさせておけば私の機嫌は直るのを陽斗はよく知っている。


 いつもなら嬉しい気遣いが――。


 その時だけは、食べ物でごまかされてるみたいで、やけに気が立った。


「椰子……」

「いらないっ!」


 頭に伸ばされた手を、反射的に振り払う。

 ぱしんっ、と乾いた音が響くと同時に、指先がじんと痛む。


 それがそのまま心にまで響いて――。


 うまく言葉にならない感情の代わりに涙があふれて。


 その後、感情のままにどんな言葉をぶつけたのか、自分でもよく覚えていない。


「……ちょっと、しばらく佐々木の家に世話になってくる。……落ち着いたら、連絡入れるから」


 我に返ったのは、陽斗が部屋を出て行ってから。


 部屋に一人取り残されてから、自分の軽率な言動をどれほど後悔しただろう。


 もしかしたら本当に陽斗とはこれっきり喧嘩別れしちゃうのかもしれない。


 そう考えるだけで涙が止まらなくて、いつも陽斗が立っていてくれたキッチンは見るのさえ嫌で、一人きりで寝るダブルの布団は広くて寒くて……。


「ごめん。椰子が怒るのも当然だよな。……俺が、臆病おくびょうだったんだ……」


 私の沈黙を怒っているせいだと受け取ったのか、うなだれたまま陽斗がこぼす。


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