第249話 不意遭遇

  1065年7月下旬 アルプス山中 セプティマー峠 ジャン=ステラ


「ジャン=ステラ様、セプティマー峠を越えるといよいよイタリアです」


 アルプスの北側をひたすら騎行し、インスブルックの郊外へと先日、到着した。


 インスブルックから帝国街道を南下し、アルプスを越えるとそこはイタリアの地。


 長かった旅もようやく終わりが見えてきた。


 正確には旅ではなく、カノッサ奇襲なのだけど、三週間も移動し続けていると日常が旅になってしまう。


「うーん、いい天気だねぇ」


 馬の上で伸びを一つ。頭上には雲ひとつない青空が広がっている。


 あれほど悩んでいたマティルデお姉ちゃんとのことも、いつしか旅の疲れにおおいい隠され、僕の心から霧消していた。


 ぱかぽこ、ぱかぽこ。峠道をものともせず馬が山を登っていく。


 上下左右に体が揺らされ、座る場所がずれてきた。

 座り心地がよくなるよう、「よっこいしょ」と鞍の上でお尻の位置を調整する。


 騎乗によって鍛えられたお尻の皮は、ずいぶんと硬くなった。


 こんな日々もあと少し。あと一週間でマティルデお姉ちゃんに会える。


 少しずつ、少しずつ気持ちを盛り上げていこう。そして、最高に高揚した気分でカノッサの城門を突破するのだ。


 拳を握りしめて決意を固めていく。そして気分を持ち上げるため、前世のことを思い出す。


 そう。ゲームで言うなら僕は勇者。

 悪い王様にさらわれて城に幽閉されているお姫様を助け出す正義のヒーロー。


 イタリアということで赤い帽子をかぶった配管工のおじさんとか、桃のお姫様がふと頭によぎったけど、気にしない。


 ゲームクリアまであと少し。ハッピーエンドまであと少し。


「よっしゃー、がんばるぞー!」

 と心の中で雄叫びをあげていたら、斥候が戻ってきたとの報告があった。


「セプティマー峠の先に軍影あり。こちらへと向かってきます」


 あぁ、またか。

 これまでも道中で出会った傭兵団をやりすごしてきた。


 こっそり隠れたり、道を譲ったり。またある時は、カノッサ奇襲部隊が騎馬だけで編成されている利点を活かして、駆け抜けたりもした。


 傭兵団にとってお金にならない戦闘に足を突っ込む理由はない。僕たちに戦意がなかったから、戦いに発展することは一度もなかった。


「やはり、イタリアからドイツへと向かう傭兵団かな。何人くらいいるの?」


 峠道のため、お互いに道を譲りあうのは難しそうだけど、まぁ、なんとかなるだろう。


 そんなふうに楽観していた僕は、冷や水を浴びせられることになった。


「詳細は不明ですが、二千以上います」


「二千人! そんな大規模の傭兵団が存在するものなの?」


 これまで遭遇した傭兵部隊は多くても100名くらいだった。2000名っていくらなんでも多すぎない?


 しかし、傭兵は基本的に歩兵主体だから、騎馬隊で蹴散らすことはできる。万が一戦闘になったとしても、なんとかなるだろう。


 軍勢の多さに一旦は驚いた僕だったけど、対処はできそうだとすぐ頭を切り替えた。


 だというのに、さらに悪い知らせが斥候の口から出てきた。


「傭兵団ではありません。アルデンヌ家ゴットフリート3世、そしてカノッサ家マティルデ様の軍勢です。望遠鏡を使い、この目で確かめました」


 僕の斥候隊は全員、望遠鏡を装備している。その望遠鏡で軍旗の紋章を確認したと斥候が申し出た。


「金色の縁取りに囲まれた盾の中に、青と白の斜めの縞模様が交互に並んでいます。これはアルデンヌ家ゴットフリート3世の紋章です」


 さらには、マティルデお姉ちゃんの紋章である赤地に白犬の紋章が軍旗として掲げられている、と言う。


「それってつまり、マティルデお姉ちゃんとゴットフリート三世が軍中にいるってこと?」


「はい、そうなります、ジャン=ステラ様」



【一旬前】

 1065年7月中旬 北イタリア トリノ アデライデ・ディ・トリノ


「アデライデ様、ドイツから伝書鳩による緊急便が届きました!」


 トリノ城の伝令官が執務室に駆け込んできました。その顔には緊張が色濃くにじんでいます。


 城内の鳩小屋から走ってきたのか、肩で息をしており、服装も整えられておりません。貴族の執務室へ入室してくる者の態度ではないでしょう。しかし、それをとがめる者はいません。


 それも当然です。緊急便ということは、軍を動かす必要性が高い情報を意味しているのです。一刻を争う状況で服装を整える事を優先するような無能は私の周りに存在しないのです。


「送り主はドイツの誰ですか」

「ベルタ様の側近です」


 私の問いかけに、短く張り詰めた言葉が返ってきました。


 伝書鳩の送り主は、情報を収集しトリノへ送るように命じてあったベルタの側近ですか。


 ハインリッヒ4世へと嫁いでいったベルタに付き従いドイツへ赴いた彼は、これまでも多くの有益な情報をトリノにもたらしてくれました。


 ドイツのゴスラー宮殿で交わされる噂話、あらたな婚姻や貴族の死亡。ハインリッヒ陛下に謁見した者の一覧。


 一見、瑣末な情報であっても、それを集めることで貴族間の勢力関係が浮かびあがってきます。


 その彼が緊急と指定して送ってきた情報は何なのか。突発的な事象がドイツで発生したのでしょう。


 良い知らせか、それとも悪い知らせか……。


 緊急という事は、きっと悪い知らせよね。


 心がざわめき、思わず眉をしかめそうになります。しかし、それを表情に出すわけにはいきません。上が動揺すれば、それは簡単に下へと伝染してしまいますからね。


 務めて平静を装いつつ、「お役目、ご苦労様」と伝令官へと笑いかけました。


 次いで執事のパトリツィオに目配せをし、伝書鳩の手紙を受け取るよう指示します。


 鳩の足にくくり付けられるほどに小さい羊皮紙のかけら。その辺が赤くふちられており、至急の知らせであることを主張しています。


 パトリツィオから紙片を受け取り、人払いをします。

「パトリツィオ以外、執務室から下がりなさい」


 室内にいた文官と護衛が出払ではらい、扉が閉まったのを確認したのち、紙片へ目を落としました。

 そこに書かれていたのはたった八文字。


『IL M S GIII』


 小さな紙片に書ける文字数は必然的に少なく、符号を使った暗号文とならざるをえません。


 ILは下ロートリンゲンで、GIIIはゴットフリート3世でしたね。さて、MとSは何だったかしら。

 符号を思い出しつつその内容を解読しました。


『下ロートリンゲン公死亡。継承者はゴットフリート3世』


「冗談でしょう?」あまりの衝撃に、思いが口からこぼれてしまいました。


 ゴットフリート3世がライン川下流の支配者である下ロートリンゲン公に就任する。

 すなわちこれは、経済豊かなトスカーナに、寒さと粗食に耐えうるドイツの強兵が加わることを意味します。


 憎むべき仇敵の勢力が強大化する事態を目の当たりにし、私はおもわず頭を抱えたくなりました。


 趣味の悪い冗談であってほしい所ですが、送り主は謹厳実直な男です。これまでの実績をふまえると、まず間違いなく正しい内容を告げていることでしょう。


 そういえば、ハインリッヒ4世のシュベルライト(成人式)においてゴットフリート3世は盾持ちを務めていましたっけ。


「陛下にびへつらった甲斐がありましたわね」

 もしゴットフリート3世が私の前にいたら嫌味の一つも投げかけてやりたいところです。


 ですが、そうも言っていられません。


「ゴットフリート3世の所在を至急確認しなさい!」 

 執事のパトリツィオに命令を下します。


 下ロートリンゲン公の就任式は、ドイツで行われます。つまり、ゴットフリート3世はイタリアからドイツへと移動し、ハインリッヒ4世の元へと赴くはず。


 まずい、本当にまずい。私が立案したカノッサ城の奇襲計画が根底から崩れ去りました。


 それどころか、ジャン=ステラを危地に追い込んでしまったかもしれません。


 焦りが心に広がっていくのを感じます。


 今頃ジャン=ステラは何も知らずにアルプスの北側を進軍している事でしょう。ジャン=ステラにゴットフリート3世の件を伝えたくても、伝える手段がありません。


 カノッサ奇襲計画を中止したくても、中止できないのです。


 伝書鳩が一方向にしか飛べない事を今日ほど恨めしく思ったことはありません。


 私にできることと言えば、真摯に神へと祈りを捧げることだけでした。


「あぁ、神様、ジャン=ステラをお守りください」


ーーーー

あとがき

ーーーー


手紙はラテン語の頭文字

『IL M, S GIII』

Inferior Lotharingia: Mors. Successit Godofredus III.



 史実において下ロートリンゲン公フリードリヒ・フォン・ロートリンゲンは5月18日に亡くなりました。(8月28日という説もあり)


 その後、ハインリッヒ4世の指名によりゴットフリート3世が後を継いでいます。


 ハインリッヒ4世の成人式で盾持ちを務めた際に、二人の間で何らかの取引があったのかもしれませんね。

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