第243話 陰謀の髭(後編
1065年5月上旬 北イタリア フィレンツェ ゴットフリート3世(60歳)
俺の主君、ハインリッヒ4世は馬鹿だった。
親政の開始に華を添えるためにケルン大司教アンノ2世の討伐をいきなり言い出した。
いや、討伐が悪いのではない。俺だって聖職者たちに何度も煮湯を飲まされてきた。
俺の弟が教皇ステファヌス9世になった後にも、のらりくらりと言を左右する枢機卿団にどれほど悩まされたか。あいつらを殺してやりたいと思った回数なんて、両手の指でも足りないくらいだ。
では何が悪いのか。それは根回しの悪さ、そして決断力のなさだ。
ハインリッヒ4世の母親である皇太后アグネス様にまで
だったら、どうする? 簡単なことだ。反対者が反対できなくすればいい。
そこで俺はハインリッヒ4世に提案した。
アグネス様とその賛同者であるシュバーベン大公ルドルフ及び、バイエルン大公オットーを騙し討ちにせよ、と。
三人を打ち果たしてしまえば、ケルン討伐は成功するだろう。
だというのに、ハインリッヒ4世は腹を括れない。逆に激昂して俺に食ってかかってきた。
「騙し討ちだなんて
「皇帝に逆らうものは、たとえ肉親でも、母親でも許さない。その強い態度こそが諸侯を畏怖させ、陛下への反対者を封じ込め、結果的にドイツの安泰へとつながるのです」
ーーー 騙し討ちの卑怯者。そして母殺し。
実行したら、そんな汚名をハインリッヒは被ることになるだろう。
しかしハインリッヒ4世の治世は安定することになる。十分な見返りが得られるだろう。
だが、無理だろうな。ハインリッヒ4世は決断できないだろう。
俺は冷めた目で目の前の子供を観察する。
激情に駆られて一度は大声をあげたものの、今は冷静さを取り戻しつつあるようだ。
「母上も、こ、殺さないといけないのか?」
「それは陛下のご随意に」
おまえの好きにしたらいい。どうせアグネス様どころか、大公二人を騙し討ちするような気概はないだろうがな。
ふんっと鼻で笑いかえしてやった俺に気づかず、ハインリッヒ4世は何やらブツブツと
「母上を……殺す……」
「ええ、そうです。それが無理ならケルン討伐は一旦棚上げといたしましょう」
「そ、そうだな。残念だが、お母様を殺さないため、ケルン討伐は断念するとしよう」
アグネス様を殺さないためにケルン討伐を断念する? なぜそのように短絡するのか理解に苦しむが、まぁよい。
どうせ討伐中止の名目が欲しかったとか、その程度のことだろう。
結局、ハインリッヒ4世はケルン討伐もできず、シュバーベン大公たちの
ーーーー
フィレンツェの執務室にただ一人。俺はごくりと蒸留ワインを一気に
はぁ、とため息がひとつ、虚空へと消えていく。
まったく頼りない野郎だったな。
アグネス様もろともシュヴァーベン大公とバイエルン大公を討っていたならば、俺もハインリッヒ4世を唯一無二の主君と認めただろう。狂気もまた魅力の一つだからな。
なのに、ハンリッヒ4世ときたら単なる考えなしの
イタリアに帰ってきた今になっても、あんな馬鹿が君主だと思うと腹がたつ。
あんな奴の家臣である我が身を嘆かずにはいられない。
俺の弟が、教皇になったステファヌス9世がもう少し長生きしてくれていたら、俺が神聖ローマ帝国皇帝になれていたかもしれないのに……
酔った頭に亡き弟・ステファヌス9世の笑顔が浮かんだ。
教皇への就任後、たった9ヶ月で死んでしまった。せめてもう一年長生きしてくれれば……。
ーーー いや、愚痴だな。歳をとると、どうしても昔のことが思い出されて困る。
グラスに蒸留ワインを並々と注ぎ、ぐびっと一息で飲み干した。
あぁ、喉が焼ける感触が心地よい。これぞ生きているという感じがする。
酔いが強くなったところで、アルプスの北側にあるドイツの地に想いを馳せる。
俺が生まれ育ったロートリンゲン。ライン川の下流に広がる沼地にはアシが生い茂っていた。
川をすこし遡った場所にある草原では、馬の乗り方を父から教わった。
その故郷を、先帝ハインリッヒ3世に追われてから20年か……。
視線を落とすと、そこにあるのはシワだらけの手。ぽつぽつと黒い斑点も目立ってきた。
あぁ、若い頃はよかった。野心に燃えていた。全能感に包まれていて皇帝にだってなれると思っていた。
だが、今となってはどうでもいい。故郷という安らぎの地に戻りたい。
そのためにはハインリッヒ4世をいくらでも利用してやろう。
ふと、ドイツのある北の方角へと顔を向けた。
ーーー 俺が残してきた置き土産は、うまく
『ハインリッヒ4世は、アグネス様にお味方したシュバーベン大公、バイエルン大公。そして中立を宣言したザクセン大公と下ロートリンゲン公を騙し討ちしようとした』
金を使い、商人どもに噂をばら撒かせた。あれから1ヶ月。今頃はドイツ全土に広がっているだろう。
根も葉もない噂ではないのだ。ハインリッヒ4世の悪辣な性格を知っている諸侯はみな信じるだろう。
『あいつならやりかねん』、とな。いい気味だ。日頃の行いの悪さを思い知るがよい。
そこに追い討ちで噂を流すよう商人には命じてある。
『騙し討ちを
ただしハインリッヒ4世の直轄領にだけは別の噂を流す。
『ゴットフリート3世がイタリアに戻って不在の今なら、ハインリッヒ4世を討てる。領地に戻ったシュバーベン大公やバイエルン大公が秘密裡に兵を集めているらしい』
『ザクセンやロートリンゲンも同意しているらしいぞ。それに教会も』
「はっはっはっ。愉快だゆかい」
今頃は疑心暗鬼が渦巻いていることだろう。
俺の笑い声が執務室にこだまする。いや、酔いの回った頭に響いているだけかもしれんな。
どこか一か所でも兵を集める動きが起きれば、ドイツは大荒れに荒れるだろう。
「大丈夫、ちゃんと種子は
俺は自分に言い聞かせる。
ドイツからイタリアへの帰路、俺はオーストリア辺境伯の領都であるウィーンに立ち寄った。
そこで俺は、忠臣の振りをして辺境伯エルンストの耳元でささやいたのだ。
「今のままではハインリッヒ4世陛下の身が危うい。俺はトスカーナに戻り次第、兵を集めようと思う。
貴殿もハインリッヒ4世陛下の事を思うなら、兵を準備して欲しい」
先年のハンガリー戦役において武功二位と称されたオーストリア辺境伯エルンストは、ハインリッヒ4世のことを称揚していた。
あいつは間違いなく兵を集めることだろう。それがドイツ騒乱の幕開けとなろうとな。
さて、と。上手くいけば両陣営から俺をドイツに、ロートリンゲンに戻せという声があがるだろう。
ワイングラスをかかげ、そして飲み干した。
「俺様に、そして我がアルデンヌ家に栄光あれ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます