第137話 ローマ教皇から東方教会への対抗心

 1063年3月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ


 ローマ教皇の勅使であるユーグ・ド・クリュニーが新大陸の場所を教えて欲しいと、僕にお願いしてきた。


「新大陸がもしあれば、ジャン=ステラ様のことを『前世が天使である預言者』だと、教皇猊下は公式に認定いたします」


 ユーグの慈愛に満ちた視線が僕に柔らかく降り注ぐ。教皇の認定、これぞ神の恩寵なのですぞ、と言わんばかり。断られる可能性なぞ一ミリたりとも考えていないみたい。


 うーん、でもどうしよう。OKしちゃう? べつに新大陸を教えてしまっても構わない。


 僕が直接新大陸に行かなくても、彼らがジャガイモ、トマトとコーンをイタリアに持ち帰ってくれれば、それでだけで充分。

 新大陸発見の手柄なんて僕にとってはどうでもいい。歴史に名が残ってもお腹は膨れないもん。そんな事より重要なのは、じゃがマヨコーンピザを食べること。


 でもね、何かが心に引っかかる。


 返答を決めかねて、視線を宙にさ迷わせていたら、お母様と目が合った。

 小さくうなずき、にこりと微笑み返してくれた。


 お母様としては了承してもいいってことかな。それとも、僕にお任せってこと? どちらなのか、よくわからない。


「ねえ、ユーグ。2つ質問があります。どうして新大陸なの? これまでも僕は前世の知識をたくさん披露ひろうしてきた事は知っているでしょう」


 貴族社会に広く知られているトリートメントや蒸留酒だけでも十分ではないだろうか。他にも木酢液だってあるし、方位磁針だって作り出した。


 算数の教科書を広め、生理と妊娠の関係の知識を教えた。イシドロス達がレンズを完成させたら、望遠鏡や顕微鏡も作ることができる。


 火星に2つの衛星があるとか、土星に輪があること。目に見えない小さな生物が存在するなんて知っているのは僕だけだ。


 わざわざ苦労して新大陸を発見しなくても、他の手段はあるんじゃないかな。美味しい話には裏があるというし、何か裏の思惑があると感じてしまうのだ。


「ジャン=ステラ様が空を飛んで新大陸に行かれたとお話になったからでしょう」

 なぜ新大陸なのかと問いかけられたユーグは、なぜ当然の話を蒸し返すのかとばかりに答を返す。


「それは分かっているよ。でもどうして新大陸なの?」

「飛んだという証拠をもって天使だと認定するのです。そのための新大陸なのです」


 いやいや、僕の前世は天使じゃないから。新大陸を見つけたとしても、前世は人間だったという事実はくつがえらないんだよ。その事実を知っているのは僕だけかもしれないけど。


 それにしても、らちがあかないね。とりあえず、次の質問に移ることにしよう。


「では、2つ目の質問。教皇猊下が僕の事を天使と認定するとして、僕の利点はなに? 認められたら何かいい事でもあるの?」


 一方、僕の言葉を受けたユーグは驚愕の表情を浮かべる。

「ジャン=ステラ様、何をおっしゃいます。教皇猊下に認められることこそが最大の利点ではありませんか」


「なんで教皇猊下に認められないといけないの? 認められようが、なかろうが、僕の前世は変わらないよ。だからこそ、認められたらどんな良いことがあるかを聞いているの。理解できてる?」


「ジャン=ステラ様こそ、ご理解いただけてますか。教皇猊下に認められたと世間で喧伝けんでんできるのです。それ以上の名誉はございますまい」


 だめだ、こりゃ。ユーグと僕の議論は平行線。


 分かったのは、教皇ってとっても偉いんだねぇ、ってこと。いや、そんな事はもちろん知っていたよ。それでも、知識で知っているのと、目の前であがたてまつられるのを見るのとでは大違い。



 僕だって、教皇に認められる事は名誉だって理解しているよ。しかし、最上の価値があるとは思っていない。一方、ユーグたち聖職者にとってはこの上ないほまれなのだ。これでは話が噛み合うはずはない。


「じゃあ、質問を変えるね。僕が天使だったとして、教皇庁はどんな利益が得られるの? 新大陸を見つけるのは簡単じゃないんだよ。資材もお金も人もたくさん、たくさんいるんだよ。それは分かっているよね。その上で、何の利益があるのか教えて欲しい」


 僕の前世が天使だった場合、堕天して悪魔になる事を教皇庁は恐れている。それなら、いっそ天使ではないと認定してもらった方がいい。そうすれば、悪魔にされちゃうと心配しなくてもよくなる。


 つまり、僕と教皇のどちらも、僕の前世が天使だった事を望んでいないはず。それなのに無駄なコストをかけるのは変だよね。少なくとも僕はそう思うのだ。


 ユーグは少し考えた後、困った顔になった。

「それは、その……。やはり万が一を考えての事、でしょうか」


 歯切れがわるい言葉だなぁ。万が一というのは、天使だった、天使でなかったのどちらなのかな。


「新大陸はあるんだよ。僕の前世が天使だと、教皇猊下が認定することになっちゃうよ。それが猊下の望みなの?」

「そうです、教皇猊下は新大陸の発見をお望みなのです」


 打って変って新大陸の方は歯切れがいい。天使の方はどうでもよくて、新大陸の発見が教皇のメリットっていうこと? それはなぜ? 


 僕の頭上に疑問符がポコポコといくつも浮かんでくる。


 あ! もしかして……

「教皇猊下もピザを食べたいの?」

「ピザ、ですか? それはどういった食べ物なのでしょうか。いえ、少しお待ちください。そもそもどこから食べ物の話題がでてきたのですか」


 ちがったみたい。うーん。謎は深まるばかり。


 困った僕と、やはり困惑ぎみのユーグとが二人で「うーん」とうなってる。


「ぷふっ」 お母様が噴き出した。

 ユーグと僕のやりとりが可笑おかしかったらしい。でも、なんで?


「ジャン=ステラ、そんなに深く考えなくてもいいのよ。そしてユーグ殿。ここは3人だけでの話し合いの場。おたがい取りつくろうのはもうやめませんか」


 お母様の言葉に、ユーグが苦笑を返す。

「そうですね、アデライデ様。どうもジャン=ステラ様と話していると調子が狂ってしまいます」


 ひどいなぁ。僕だって調子狂うんだからね!


「これっ、ユーグ殿。また地震が起きますよ」

「こ、これは失礼いたしました。どうかお許しを」


「お母様もユーグもひどいっ!」 僕がほっぺたを膨らまして抗議したのに、2人はそろって笑い出した。


「うふふ、ジャン=ステラったら」「ははは……」


 本当に楽しそうに笑うお母様に対し、ほっぺたが引きつった笑いのユーグ。

 ユーグにとっては今でも、地震の事がトラウマなのかなって思ったら少し留飲が下がった。


「さてと、このままでは話が進みませんので、私の想像、あくまで想像をお伝えいたしますね」

 お母様が前置きをしつつ、考えを述べてくれた。


 教皇と枢機卿団は、僕の前世が天使であると確信しているらしい。それなのに新大陸と言い出したのは、コンスタンティノープル総主教への対抗心からなのだとか。


「対抗心で新大陸ってどういう事ですか?」

「あら、ジャン=ステラ。世界地図を総主教に献上した事は忘れてしまいましたか?」


 今から6年前、お母様と僕は、イシドロスを通じて総主教にヨーロッパ、アジア、アフリカ大陸の描かれた地図を献上した。

 その時、100年間は宝物庫に仕舞っておくようお願いしていたのだが、どうやらそれが破られてしまったらしい。


 その理由は外交状況の変化にある。コンスタンティノープルの東側に位置する小アジア、アナトリア半島にセルジューク朝トルコの勢力が進出してきたのだ。これに対抗するため東ローマ帝国は、セルジューク朝トルコの周辺国家と同盟を組もうと使者を派遣した。


 その使者派遣に、僕が描いた地図が大活躍したんだって。


「地形だけの、国名や国境線は書いていない地図が役にたつんですか?」

「それでも十分なのよ。今までならトルコの東側の地形は全く知られていなかったのですもの。どこにどう使者を送っていいか分からなかったのよ」


 お母様の耳に入る程度には、僕の地図は有名になっているらしい。


 そして、これが面白くないのが、ローマ教皇庁の面々。自分たちの方が総主教よりも上位なのに、世界地図がない。僕に献上させようにも名分が立たなかった。


「つまり、教皇猊下は世界地図を手に入れられればそれでいいのですね」

「ええ、そうだと思うわ、今回の天使騒動をチャンスだとばかりに、世界地図を要求したのでしょう。そうではなくて、ユーグ殿?」


 お母様に話を振られたユーグは、正誤を答えるでもなく、悔しそうな顔をしていた。


「アデライデ様、そのお話は本当なのでしょうか。恐れながら地図の話は初めて聞きました」

「あら、そうだったの。ただし、あくまで私の想像でしかないわ。私が間違っているかもしれなくてよ」


 わざとらしく驚いたふりをするお母様。想像って言っているけど、確信しているに違いない。一方のユーグは、地図の事を本当に知らなかったらしい。もちろん、演技の可能性もあるけど、そうは見えない。


「では、私が新大陸の発見を命じられたのは……」

「そうね。もちろん、天使の件を決着させたかったのもあると思いますが、東方教会と西方教会の勢力争いの方が理由として強いでしょうね」

「悪魔の事を本当に心配していた私は一体……」

 がっくりと肩を落とすユーグに、お母様が優しく声をかける。


「ユーグ殿、あなたもご存じでしょう。権力者というのは一筋縄ではいかないわ。1つの事柄から2つも3つも利益を得ようとするものなのよ」


声とは裏腹に、優しくない内容を語るお母様。


「それにね、クリュニー修道会が生贄いけにえの羊であることに変わりはないの。ジャン=ステラも言っていたでしょう。新大陸の発見には人もお金もかかるのよ」

 クリュニー修道会の屋台骨が揺らぐかもね、とお母様が微笑んだ。


「ですからね、ジャン=ステラ。新大陸の発見はユーグ殿にまかしてしまえばいいのよ。それが地図の代価なのですから」


 おぉおう。上の人たちは怖い事を考えるものだねぇ。

 教皇庁とはまさに伏魔殿。その名に隠れて陰謀を企む人たちが集まり住むところ。


 前世が天使なのかを調べる事が目的で、新大陸が手段だと思っていた。それが実際には、新大陸発見が目的で、天使が手段だったとは。



「そうねぇ。ジャン=ステラが単に地図を提供するだけなのは面白くないわよね。少し条件を付けさせてくださいませ」

 お母様の毒演会、じゃなくて独演会は次の言葉で締めくくられた。


「ジャン=ステラを聖職者にはしませんよ。もし聖職者に叙任したとしても、妻帯させますからね。それだけは教皇猊下の了承を得てくださいませ」



 ◇  ◆  ◇


ジ:ジャン=ステラ

ア:アデライデ・ディ・トリノ


ジ:いけにえだなんて、ユーグとクリュニー修道会が可哀想すぎません?

ア:新大陸の発見は、小麦の代金でもあるのよ

ジ:え、小麦?

ア:クリュニー修道会を通じて、ローマに小麦を融通したでしょう?

ジ:いろいろあって忘れてました!

ア:スタルタスの件もあったものね、仕方ないわ

ジ:でも、クリュニー修道会に利益がありませんよ?

ア:地震の汚名を喧伝されないだけで十分なのよ

ジ:たったそれだけ?

ア:汚名が広まれば、教皇から得ている特権が剥奪されますからね


近況ノートにコンスタンチノープルとセルジューク朝トルコの地図を載せています。

よろしければご覧ください


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る