第七章:アルベンガ離宮

第108話 不便なオモチャ、方位磁針

 1062年12月上旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 ジャン=ステラ(8才)


 地中海に面するアルベンガでは、暖かく乾燥した気候の中で育つ植物が多く見られる。オリーブやローズマリーの木が香り高い芳香を放つ小高い丘に、トリノ辺境伯の離宮が建っている。


 空に一番星が浮かぶ頃、大広間で謁見の儀を終えた僕とお母様は、執務室に戻ってきた。


「ふう、肩凝ったぁ」

「あらあら、ジャン=ステラは本当に儀式が苦手ね」


 右肩をくるくる回しながらのつぶやきに、お母様が答えてくれる。


「堅苦しい雰囲気が苦手なんですよ、お母様。あと、じっとしているのも苦手、かな」

「威厳を保つためには大切なことなのですよ。謁見の儀式の間だけなのですから、我慢しないとね。そのうちジャン=ステラも慣れるわ」

「つまり、慣れてしまうくらい、こういう儀式が何度もあるのですね」



 今日の謁見では、サボナの商人2人組、カポルーチェのっぽトポカルボちびの任命式を執り行った。大広間の一段高いところの豪華な椅子にお母様が座り、僕がその横に控える。


 僕の役割は、本当にお母様の横にじっと立っているだけ。ただし、ボケ~としていてはだめ。背筋もぴーんと伸ばさないといけない。


カポルーチェのっぽトポカルボちびの一挙手一投足を見ていなさい」ってお母様に言われていたけど、集中力を保つのはしんどいんだよね。あー、つかれた。


 ふぅっと思わずため息が出ちゃった。そんな僕の様子を見ていたお母さまは、説明を付け足す必要があると思ったみたい。それは、ちょっとだけ僕をたしなめるような口調のお小言だった。


「それにね、2人も軽い君主は望んでいません。強くて頼り甲斐ある主君だと、分かりやすい形で示すことはとても重要なのです」

「それが厳かな儀式なのですね」

「ええ。辺境伯家の一員となる事に誇りを抱けるよう、彼らが一族のほまれと言われ尊崇そんすうされるよう、振舞わなくてはならないの。そうすれば、サルマトリオ男爵みたいに馬鹿な事をする家臣が減るわ」


 うぅ、お母さまに痛いところを突かれちゃった。サルマトリオ男爵に対する僕の配慮は、僕の弱みだとサルマトリオ男爵の目に映った。弱みを持っているなら、少々の反抗は許されるだろうという、甘えに繋がったのだ。


「そうですね、お母さま。家臣に甘えを見せたらダメな事は、よく分かりました」


 数か月前の失敗を思い出し、僕の視線はお母さまの顔から、机へと下がってしまった。もう家臣の反抗なんて見たくない。

 そんな僕の様子をみていたお母さまが、頭を優しく撫でてくれた。


「あらら、お小言が効きすぎちゃったみたいね。時には甘えを見せる事も必要よ。しかし、それは私的な場所だけにとどめておくの。公私の区別をしっかりとつければ問題ないわ。大丈夫よ、まだ若いんだもの」

「はい、お母さま」


 お母さまに撫でられた頭が心地よくて、元気な返事ができた、と思う。


 転生してからまだ8年。前世の年齢も合わせたら37才だけど、日本の常識はこちらの非常識。特に人生観というか、道徳が違いすぎる。これからもずっと学んでいかなきゃね。


「それはそうと、ジャン=ステラ。カポルーチェのっぽトポカルボちびを執務室に呼び出していましたよね。何を話すつもりなの?」

「ご褒美として下賜する方位磁針について説明したいと思ってます」

「方位磁針って、あれよね。北の方向を教えてくれるオモチャでしょ? 二人が喜んでくれるといいわね」


 お母さまが子供を見守るようなやさしい目で僕を見つめてくる。お気に入りのオモチャをおとなにプレゼントして、喜んでもらおうとする子供だとか思われてるんだろうな。


 それにしても方位磁針がオモチャかぁ。中世ヨーロッパにおける三大発明の一つなんだけどな。世界を変えちゃうような発明品をおもちゃ扱いされちゃうと、がっくりしちゃう。


 ちなみに残る2つは活版印刷と火薬である。


 たしかに他2つの発明品と比べると、方位磁針は地味かもしれない。それに陸上でくらす人にとって方向が分かっても有り難みは少ないだろう。陸上では山や川があるから、ある方向にずっと歩き続けることなぞ出来やしない。


「あっちが北だよ」と方位磁針が教えてくれても、旅人は街道に沿って進むしかないのだ。全く役立たない。


 うーん、お母様にオモチャって思われても仕方ないのかも。でもでもね、商船で海を旅するカポルーチェのっぽトポカルボちびにはわかってもらえるよね。わかってもらえるといいなぁ。


 うん、僕は信じてるからね!


 ◇  ◆  ◇


 執務室に呼び出したカポルーチェのっぽトポカルボちびに、僕は褒美の方位磁針を手渡した。


「はい、どーぞ」


 お母様と違い、この2人なら喜んでくれるよね。その期待感が僕の口調を軽くする。どんなリアクションを見せてくれるかな? 感動の嵐? わくわくしちゃう。


 方位磁針は僕の小さな手のひらに乗る大きさしかない。その小さな方位磁針を僕は右手でつまみ、片膝をつき両手を掲げる商人2人の手のひらに置いていく。


「これが方位磁針というものですか?」

「ずいぶん小さいのですね」


 2人の商人は、手に乗せられた方位磁針をしげしげと見つめる。そして、戸惑いを隠せない表情でそれぞれの思いを口にした。


 僕の視線の端に、お母様がうんうん、そうよねと頷いているのが見える。


 お母様はともかく、商人が理解できないのはおかしいでしょ。僕はおもわず突っ込みを入れちゃうよ。

「ええー。方位磁針の凄さがどうしてわからないの? なんで?」


 2人は電撃が走ったかのように、同時にビシッと背を伸ばし、明らかに作り笑いと分かる表情を顔に貼り付けた。


「ジャン=ステラ様、このような素晴らしい品を下賜いただき誠にありがとうございます。このカポルーチェのっぽ、家宝として代々受け継いでいきたいと思います」

「ジャン=ステラ様。私、トポカルボちびはこのような素晴らしいお宝を見るのは初めてでございます。ああ、一刻も早くサボアに戻り、親族一同に自慢してまわりたい! そんな思いに駆られております」


 明らかに阿諛あゆ追従ついしょう、というか子供のご機嫌取りモードになった2人に、僕はガッカリ、へにゃんだよ。


 方位磁針がお宝ってなにさ。床の間に飾って毎日拝むとでもいうの? って、日本じゃないから床の間なんてないけどさ。


「まじかぁ」

 肩を落とした僕のつぶやきに、お母様が「ぷふっ」と噴き出した。


「あら、ごめんあそばせ。ねえジャン=ステラ、あなたはまだ方位磁針が何かを説明していないわ。このような素晴らしい品ですが、見ただけで理解しろというのは酷ですよ。ねえ、カポルーチェのっぽトポカルボちびもそう思いませんか?」


 お母様、そこで2人に目配せで合図しないでくださいよぉ。余計にみじめになっちゃうよ、僕。


「はい、アデライデ様のおっしゃる通りです」

「ぜひぜひご説明いただきますようお願いいたします」


 そこの2人! お母様の尻馬に乗って調子を合わせても許してあげないんだからねっ。方位磁針が何か分からないなら、素直に分からないって言えばいいじゃない。ふーんだぁ。


 ぷいって横を向いていたら、お母様が僕の代わりに説明し始めた。


「あらあら、仕方ないわねぇ。じゃあ私がジャン=ステラに代わってオモチャの説明をするわね」

「オモチャじゃない!お母様ひどいっ」

「ええ、そうだったわね。オモチャじゃなくて素敵な道具、方位磁針の説明ね。つい間違えちゃったわ、ごめんなさいね」


 お母様、ぜったいわざと間違えたでしょう? 全然悪びれていないもん。場を和ませるためかもしれないけど、ひどいっ。


「この方位磁針の上は透明なガラスになっていて綺麗でしょう? でも工芸品じゃないのよ。中に細い針が入っているでしょう」

「はい、片方が赤色に塗られている針が入っております」


 お母様の説明に、カポルーチェのっぽが方位磁針をのぞき込み、針があるのを確認する。そしてトポカルボちびの方は、針が不安定にゆらゆら揺れていると指摘する。


「アデライデ様、この針はゆらゆら揺れておりますが、大丈夫なのでしょうか」

 折角の下賜品が壊れていないか心配しているみたいで、その口調に不安の色が混ざっている。


「ええ、大丈夫。この針が動くところが重要なのです。方位磁針を手のひらの上で回すと、針があっちへこっちへ回るわ。まるでオモチャでしょう?」

「ぶーぶーぶー」


 お母様がまた僕をいじってくる。2人に説明するふりをしているけど、僕で遊んでいるんだと思う。もうお母様なんてしーらないっ。ふーんだ。


「うふふ。ほんっとうに、ジャン=ステラってば可愛いわねぇ。あなた達もそう思わなくて?」


「は、はぁ」「誠にその通りで……」


 カポルーチェのっぽトポカルボちびの困惑顔が僕の目に映っているけど、しーらんぷいっ。お母様が悪いんだからね。


「でもね、この針が凄いのよ。少し待っていると、2つの方位磁針が同じ方向を向くの。ほらほら、見比べてみなさい」


 カポルーチェのっぽトポカルボちびは、お互いの方位磁針の針を見比べたあと、一言ずつ返事した。


「おっしゃる通り、同じ方向を向いております」

「つまり、この方向が重要なのですね」


 トポカルボちびが方向の謎に気づいたみたい。


 お母様がトポカルボちびに頷きつつ、針の秘密を明らかにする。


「ええ、そうよ。この針は北極星の向きを教えてくれるの。それもね、昼でも夜でも一日中ずっと」


「ははぁ、北極星の向きですかぁ、それは面白いですなぁ」


 カポルーチェのっぽがニコニコしながらお母様の説明を反復する。

 一方のトポカルボちびは、さきほどまでの追従笑いが消え、怖い程真剣な顔つきにかわった。そして、お母様に方位磁針について質問してきた。


「アデライデ様、昼でも夜でも北極星を指すとの事ですが、本当なのでしょうか。」

「あら、私の言葉を疑うのかしら?」


 自分の言葉を疑われたと思ったお母様が剣呑な雰囲気に包まれた。


 不用意な発言をしてしまったトポカルボちびは、疑ったわけではないと弁明しつつ、質問の解答を要求する。

「いえいえ、めっそうもありません。我々船乗りにとって大変重要な事なので、念には念をと思いまして」


「うーん、そうねぇ。私の説明はジャン=ステラの受け売りなのよ。ジャン=ステラなら答えられるかしら」



「オモチャなんでしょ?お母様が答えればいいじゃない。ふーんだぁ」なんて答えたいけど、主君でもあるお母様にそれは不敬が過ぎることになる。お母様はぼくをいじってもOKだけど、僕はお母様に反抗的であってはいけないのです。これ、絶対。


「ええ、答えられます。お母様の言葉は正しいです。一年中、昼でも夜でも北の方向、つまり北極星を教えてくれます」


 トポカルボちびは僕の言葉に大きくうなずき、さらに質問を重ねてくる。


「重ねてお聞きします、空が曇っている時はどうなのでしょう」

「曇りの日も雨の日も、北極星を指すよ」


「最後にもう一つ。この方位磁針が北極星を指すのは、ここアルベンガだけなのでしょうか。それとも……」


 トポカルボちびがごくりと唾を飲む音が聞こえる。すごく緊張している事が僕にも伝わってくる。


 ようやくトポカルボちびにも方位磁針の価値が分かってもらえたみたい。遅ればせながらカポルーチェのっぽも気づいたみたいで、僕の答えをいまかいまかと待っている。



トポカルボちび、よく気づいたね。陸の上でも海の上でも、地球上どこにいても、北極星を指し示してくれるよ。すごいでしょ!」


「な、なんと!」「やはり!」

 カポルーチェのっぽトポカルボちびがそれぞれ驚きの叫び声をだす。


 うん、船乗りの歴史がかわるよね。


 僕を含め興奮する3名と、取り残された人1名。


「なに。なんですか? どういうことなの。北極星を指すオモチャにどうしてそれほど興奮するのか説明してもらえるかしら」


 理解できないとばかりに、いぶかしげな表情を浮かべるお母様に対し、トポカルボちびが興奮気味に答える。


「この方位磁針があれば、曇りの日でも方向がわかります。つまり島影の見えない沖合で船が迷うことがなくなるのです」


 さらにカポルーチェのっぽが説明を追加した。


「おい、それだけでは説明不足だぞ、トポカルボちび。アデライデ様、曇りの日が続く冬の間、地中海の南北をできません。島影が見えなければ、どちらに進んでいるか分からなくなるのです。そのため、冬は船を安全に走らせることができませんでした」


 日本と違い地中海では、冬に雨が多く降る。当然曇りの日も多くなる。雲の上の太陽を頼りにおおよその方角はわかっても、長距離航海では方向が少しずれただけでも目的地から大きくれてしまう。


れたからといって、それが何なの? 陸が見えてから目的地を修正すればいいでしょ?」

 そう思うかもしれない。しかしピサやジェノバといった都市同士が戦争し、海賊が跋扈ばっこするのがこの時代。目的地からすこし逸れただけで、敵の真っ只中に迷い込みかねないのだ。


「しかし、方位磁針があれば方向がわかります。方向がわかれば冬の間も、北アフリカとイタリアとの交易が行えます。冬の間、航路を独占できることによる利益はとんでもない額になることでしょう」



「そう、それはよかったわね。オモチャじゃなかった事がよくわかりました。さすがは私のジャン=ステラね♪」

 カポルーチェのっぽの説明を聞き終えたお母様は、嬉しそうに僕の頭を撫でてきた。



 ◇  ◆  ◇


 カポルーチェのっぽトポカルボちびの興奮が冷めてきた頃、カポルーチェのっぽから僕に質問がもう一つ飛んできた。


「この方位磁針は北極星を指しますよね」

「うん、そうだよ」

「北極星以外、たとえばトリノの方向を指す方位磁針は作れないのでしょうか」

「うーん、ちょっと無理かな」

「では、ジャン=ステラ様を指す方位磁針はいかがでしょう」

「それも無理」

「方位磁針も結構不便なのですね」


 むかっ(怒)

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