第51話 小学1年生の算数はチート知識
前回のあらすじ
新東方三賢者に、木酢液の蒸留をお願いしました。
1057年5月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ 執務室
イシドロス達、新東方三賢者との話もようやく終わった。
ちょっと一息ついたところ、心中にいろいろな思いが湧いてくるのを感じる。
期待と不安。そして、ピザにちょっと近づいたという喜び。
「遥か遠くのギリシアからイタリア間で来てくれたんだから、期待に応えなくてはね」
彼らの期待は、僕がきちんとした預言者になること。
なにをもって「きちんと」とするのかは解っていないけど、預言を奉じた偉業を成し遂げればいいのだと思う。
偉業の名。それは、じゃがマヨコーンピザ!
……だといいな。
ピザはさておき、新大陸からジャガイモを持ち帰って栽培するだけでも、ヨーロッパの食糧事情は大分解消されるはず。
そういう意味では、十分偉業だと思う。
大陸間航行に欠かせない方位磁針。そして、船を長持ちさせるためのタール。
この2つだけでも、新大陸への航海に大きく前進したと思う。
しかし、不安がないわけではない。
僕の心に横たわる大きな不安。
それは、本当に新大陸があるのだろうかというもの。
確かにここは中世ヨーロッパで、ローマがあったり西暦があったりと、僕が社会の授業で習ってきた世界と一緒である。
しかし、世界史で習う中世ヨーロッパの知識なんて、ごくわずかでしかない。
本当に同じ世界なのかな。
完全に一致しているのだろうか。
この世界はよく似たパラレルワールドでしかなく、アメリカ大陸は影も形もありませんでした。
などというオチが横たわっている可能性を否定する材料を、僕は持ち合わせていない。
かつて前世の世界でコロンブスが新大陸に到達したとき、彼はそこをインド亜大陸だと信じていた。
新大陸の存在なぞ夢想だにしていなかったわけである。
もしかすると、僕が生まれ変わったこの地球には、新大陸がないかもしれない。
新大陸がなかったら、ポテトもトマトもコーンも存在しない事になる。
つまり、じゃがマヨコーンピザも作れない!
って、茶化してしまったけど、ピザよりも深刻な問題はある。
僕は、新大陸がある前提でヨーロッパを西へ西へと進めばいいと考えている。
それなのに、新大陸が無かったらどうなるだろう。
大海原を西へ進んでも進んでも、一向に陸地が見えない。
そのうち、食料がなくなり、水瓶も底をつく。
絶望とともに、海の藻屑へと消える運命になるだろう。
ただ、消えてしまうのが、僕だけだったらまだいい。
自分自身が信じた知識に、僕が裏切られるだけだから。
けれども、西へと向かうのは僕一人というわけにはいかない。
何隻もの船に分乗した100人とか200人で新大陸に向かう事になるだろう。
かれらの運命を一手に握るのが、僕の知る前世の知識だけ。
もし前世の知識が、この世界と異なっていたら……
僕へ怨嗟の声とともに、彼らも天国への階段を昇ることになる。
…… これが、上に立つ者のプレッシャーというものなのかな。
目の前で控えている新東方三賢者は、僕の事を預言者として崇拝している。
僕が、西へ行け、といえば、西へと突き進んでくれるだろう。
ふと気づくと、拳を強く握りしめていた。
その両手を見ていたら、思わずぼそっと呟いていた。
「僕を信じる者の生殺与奪の権利を、僕がこの小さい手に握っているんだな」
ブルブルブル。僕は小さく首を横にふって、想起される不安を脳裏から振るい落した。
新大陸が本当にあるのかは、考えたってわからない。
「なかったらなかった時だよね」
そう。 そうなのだ。 考えたってしかたない。
「悲観は気分から生じる。楽観は意志の力で勝ち取るものだ」
だから意識を切り替えよう。
水と食料を大量に積んでおけばいい。新大陸がなかったらもっと西へすすんじゃおう。
黄金の島ジパングまで一直線。
そうしたら味噌や醤油が手に入るよね。
ピザの代わりに、和食文化をイタリアに根付かせちゃおっかな。
うん。元気が湧いてきたよ。
そして、僕の心から後ろめたさがすぅーっと消えていった。
よし。この調子なら、ギリシア三人組と、僕に付けられた家臣のラウルに自信をもって声をかけられる。
僕は、いつのまにかうつむいていた顔を上げ、イタリアとギリシアを往復したラウルに労いの言葉をかけることにした。
「ラウル、前に来てくれるかな」
「はい、ジャン=ステラ様」
イシドロス司教達の後ろに控えていたラウルに、執務机の前まできてもらう。
僕の背が低いから、ラウルの姿は半分以上、イシドロス達に隠れていた。
これでようやく、全身が見えるようになった。
そして、前に来てもらったのは、ラウルに褒美の品を上げるためでもある。
「ギリシアまで行き、イシドロス達を無事に連れてきてくれてありがとう」
「勿体ないお言葉です。当然のことをしただけでございます、ジャン=ステラ様」
「んーん。それでも、道中いろいろと苦労したと思うんだ。イタリアに戻るときは100名以上の大所帯だったでしょ。それに、鉄がくっつく大岩まで運ぶのは大変だったと思います」
「いえ、さほどの苦労はしませんでした」
ラウルはそういうと、後ろの3人の方に視線を動かしたあと、話を続けた。
「人員の移動や荷物輸送は、後ろのご三方がご自身で手配しておりました。私は単なる道案内をしたに過ぎません」
そう言って、ラウルは自分の功を他人に譲ろうとする。
「確かに、そういう一面はあっただろうね。イシドロス、ユートキア、そしてニコラス。改めてお礼を言います」
ラウルの後ろに控える3人に対して、僕は改めてお礼の言葉を口にした。
そして、もう一度ラウルに向き合う。
「ラウルは自分の功績ではないと言うけれど、ラウルの行動がなかったら、新東方三賢者をトリノに迎え入れる事ができなかった事も事実です。そこで、あなたに褒美の品をあげたいと思います」
そういって、お母さまの後ろに控えている執事に合図を出す。
執事からラウルに本を手渡してもらうのだ。
本と言っても、立派な革製の表紙のついた羊皮紙製の本。
内容は10ページくらいしかないのに、本の厚さもそこそこにある。
この立派な本一冊でも、一財産になるんじゃないかな。
ラウルへの褒美としては十分以上な品だと思う。
しかし、それ以上に重要なのは、本の中身。
そのタイトルは「数字と位取り記数法」
0から9までの数字を使って、たし算、引き算を筆算する方法が書かれている。
さらに、なんと
本の最後は、「九九を使えば、大きな数のかけ算や割り算もできるんだぞー」とちょっと幼児っぽい言葉で締めくくっている。
簡単に言ってしまえば、小学校2年生までに習う3桁までの足し算引き算と、一桁のかけ算の教科書に過ぎない。
「そんなものを大の大人への褒美として下賜するのは酷くない?」
そう思ってしまうかもしれない。
しかし、ここ中世ヨーロッパでは学問の最先端を突き抜ける本なのだ。
なにせ数を表すためにローマ数字が使われているのだ。
高級な腕時計とか、おしゃれな時計で、6時がVI, 12時がXII と書かれているのを見たことはないだろうか。
この数の表し方がローマ数字。
他には、50がLで、100をCとアルファベットで表現する。
このローマ数字最大の欠点は、計算が面倒な事である。
面倒というか、特殊技能と断言してもいい。
たし算引き算はまだいい。
けれども、かけ算や割り算は、ごく一部の識者しか行えない超高等テクニックなのだ。
このスペシャル技能を一族で受け継いでいるのが、ラウルが所属するサルマトリオ家になる。
実際、ラウルの父アマルトリダ・ディ・サルマトリオが、トリノの出納役を長年務めているのは、お家芸の計算能力あっての事なのだ。
彼ならば、この本の真価に気づいてくれるだろう。
「ありがたく頂戴いたします。」
母アデライデの執事から本を受け取ったラウルが、型どおりに返答する。
(ラウルは中身を知らないから、感動しないのも仕方ないよね)
そこで僕は本の内容について簡単に説明する。
「ラウル、その本はね、サルマトリオ家のお家芸である計算を簡単に、そして高速にする方法が乗っています。本を読んで計算技能を磨いてほしいのです」
「それほどまで、われらサルマトリオ家の事を重視してくださっていたとは」
一通り内容について説明した所、ラウルはようやく感動してくれたようだ。
この本を家宝とすると宣言もしてくれている。
実際の所、彼の家の事を重視していたわけではなく、内容を理解できそうなのが、サルマトリオ家の者たちくらいしか僕の身近に居ないからだけどね。
お母さまも計算できないし……
「そうそう、この本の内容を一家の秘伝にしないでね。計算できる人が多くなってほしいから積極的に広めてほしいんだ。お願いね、ラウル」
まずは、ラウルの後ろに控えるイシドロス達から始めてほしい。
修道士なのだから、頭は悪くないだろうしね。
そう思い、ギリシア土産として貰った紙100枚のうち、20枚を執事経由でラウルに渡した。
やはり、一族で技能を秘匿したかったのか、ラウルはちょっと残念そうな顔をしていた。
その気持ちはよくわかる。
だけど、算数くらいは、だれでもできる世の中になってほしい。
サルマトリオ家には、算数を普及させる任を担ってほしいのだ。
人を動かすには飴と鞭が必要だよね。
算数を普及してもらうという鞭に対して、飴を準備しなければ。
「この本はまだまだ続きがあるんだよ。
普及に努力してくれている間は、最新刊をサルマトリオ家に一番に渡すからね」
複数桁のかけ算。あまりのある割り算。小数に分数。
分数があれば、約数とか倍数なんてものもある。
小学校の計算だけでも、10冊にはなるだろう。
だから、ラウルくん。よろしくね。
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